ラボアジェの奥方(2)

 マリーは夫が教える最先端の化学を雨が大地に沁み込むように吸収し、日々学び、その過程で実験の記録を取ること、調査旅行に同行し日記を付けること、文書類を後で探すための索引作りなどを素早く呑み込み、担当するようになった。

高名な夫に信頼され、頼られているという実感はマリーに自信を与え、ますます輝かせた。


 「マリー。もう帰りたくなってきた……」

「今、来たばかりでしょう?どうかなさったの?」

「あの髪型!動きにくいし、危ないだろう⁉理解に苦しむ。どうして猫も杓子もあんなに髪を盛ってるんだ?」

「今の流行ですもの。『その御髪おぐしは何をイメージしてらっしゃるのかしら?』とこちらからお尋ねすれば会話の糸口になりますわ」

「君はすごいな。会話の天才だ」

「アントワーヌ様も苦手なことがあるのですね、ふふっ」


 貴公子然とした外見に反し、アントワーヌは不特定多数が集う社交の場が苦手だった。

王妃マリー・アントワネットを筆頭に、髪型やドレスが不自然なほど膨らんだ時代にあって、その威容にお世辞一つ口をついて出ない。

活発で明るいマリーは相槌を打ち、目敏く話題を見つけ、間を持たせ、訪れる先々で夫の苦境を救った。


 慌ただしく始まった年の差夫婦の結婚生活が円満であることに親戚一同は満足し、ジャックは娘の幸福と自分の地位の安泰、二重の意味で胸を撫でおろした。

テレー総監もラボアジェがダメルヴァル候に見劣りすると言い張るほど無分別ではなかった為に。

アントワーヌの父の死後、同業の義理の父子の絆は一層強固なものとなる。

そう、死が二人を分かつ、その瞬間まで。


 夫婦の新婚時代に、スウェーデンのシェーレとイギリスのプリーストリが空気と似ているが幾つかの点で異なる性質をもつ気体らしきものを発見した。

ラボアジェは直ちに試験を開始し、この気体の研究を構想し、実験ノートに記した。

「この研究対象は極めて重要なので、物理と化学に革命をもたらすであろう」

1773年。ラボアジェ29歳の時だった。

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