第4話



あれは、一哉さんのお店に通い始めてひと月ほど経った頃のことだった。


不破に初めてあの話を持ちかけた。



「あなたを見込んでお願いがあるの」

「何?」

「あなたに恋をしたいのだけど」



不破は静かな目で嘲った。



「やだね」



返事に迷いなんてなかったが、断られることは想定内だった私は食い下がった。



「改善するわ。どういうところが嫌なの? 折衷案を見つけたい」

「そういうところだよ」

「そういうところ?」

「くそ面倒くせえ」



面倒臭いというのは納得がいかない。



「面倒ではないはず。いろいろと条件を設ける。あなたの意思をきちんと反映する」

「ほら見ろ、面倒じゃねえか」

「だから、あなたが面倒ではない条件のもとで行いましょう、と言っている」

「入りからして面倒なんだよ。他を当たってくれ」

「もちろんお礼はするわ」

「へえ。例えば?」

「……チップ、とか?」



不破は口の端を曲げた。


それは皮肉めいた笑みだった。



「もう1回言ってやるよ。やだね」



誰のものであっても、嘲り笑う顔はどうしても醜いはずなのに、不破の目が静かで、おとなしいから、不破は嘲笑までもがほんの少し寛大に見える。



「──今日のところはそれでいいわ」



さほど寛大でない男は、諦めろ、と突き放した。



それ以降も断られ続けて、そろそろ半年になる。


こうも頑なならば、一周まわって仲間なのかと思い始め、一向に歓迎してくれない横顔に尋ねてみた。



「あなたは誰かと付き合ったことがあるの?」



不破はおおいに嫌そうに眉を寄せた。



「あるよ」



仲間ではなかった。



「それは好きな人と?」

「ああ」

「楽しかった?」

「ああ」



不破は間髪入れずに頷いてから、他人事のように口角を上げる。



「楽しかったこともある。今は全部、記憶から失せろって思ってるけど」



一口に「恋」や「お付き合い」と言っても、いろいろあるらしい。きれいなものばかりではないと初めて知った私を、不破は目を細めてからかった。



「共感する経験もねえんだったな」

「そうね。楽しいも忘れたいも知らない」

「へえ」

「好きな人はいたの。1人。でも叶わないのが当然すぎて、何も感じなかった」

「……ああ、それは、共感する」



不破はアルコールを流し込む。


楽しかったけど記憶が失せればいいと思う。それはどんな恋だったんだろう。叶わない前提の恋を前に、不破はどう立ちまわったんだろう。


好奇心で埋め尽くされた興味が不破を指す。



「恋をしていて泣いたことは?」



不破は静かな目に私を映した。



「──ある」



若かったからな、と不破は自身を嘲り笑うのだ。



不破でさえ泣くのだという。こんなにも横柄な不破でさえ、恋を失えば。


意外がっていれば、不破は私の心の動きを見透かしたのか、私の興味をせき止めようとした。



「この話は終わりな」



あしらわれて、視線を落とす。その先に、茶色の液体で満たされたグラスを握る不破の右手がある。


すると、勝手に唇の隙間からこぼれ落ちる。



「……私の好きだった人も、よく泣くの」



そんな吐露に、不破は微塵も興味を見せない。



「部活を引退するときも、受験に成功したときも泣いた。失恋したときも、成就したときも、決まって」

「へえ」

「でも、好きな子の前では絶対に泣かないの」



「あなたもそうだったの?」と窺えば、不破と視線が絡んだ。今日も変わらない、見透かすような静かな目をしている。


不破は返事をせず、無言で先を促した。



「あなたはいろいろと下手そうね」

「何が?」

「感情の表出というか、生身の自己表現が」

「へえ」

「あなたみたいな人は、裸の自分を見せるとき、完全な赤の他人を頼ればいいと思う。例えば、私みたいな。お礼としてそういうことだってできる」



隙あらば切り込む私に呆れながら、不破は面白くもなさそうに笑う。



「もう泣くこともねえよ」



私は、不破の前に強固な壁を見ながら、あるいは嘲笑に似た顔で泣く人なのかもしれないと思った。



   

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