乾杯とくちづけ

35話‎𖤐ペペロンチーノで乾杯しよう


春の匂いが空から落ちてくる夜だった。冬と春の狭間の、まどろみの季節。


LEDが煌々と玄関を照らす。そんななか、和泉さんは履きにくそうにスニーカーの紐を通している。わたしはその背中を、ただ黙って見つめていた。


まだ、帰って欲しくないな、と。子供のようなわがままを胸の真ん中に閉じ込めて。


家に入る時にずっと繋がれていた手は、当たり前に繋がることは無く、それが異様に物寂しい。もう少しだけ、一緒に居たい。でも、完全犯罪を成立させるためには、お兄ちゃんが帰ってくるその前に和泉さんはここを出なければならなかった。



「あの、またどうぞ」


「ん」



ズキズキと痛む身体の中心に気づかれたくなくて、わたしは変に笑顔を貼り付けていた。


だからきっと、和泉さんは、わたしの痛みを1ミリもしらない。明日もわたしはこの家で息をしているのだと、思っているのだろう。


和泉さん、と背中に声をかけると、ん?といつものように、彼は一言だけ返事をくれる。



「わたしが大きくなったら、話、聞いてくれますか」


「話って、なに?」


「わたしが、大人になったら、です」


「心雨はもうじゅうぶん大人じゃないの」


「……まだ学生だし、未成年です」


「じゃあ……心雨が覚えてたらな」



……俺が覚えてたら、とは言わないんだ。


和泉さんの、こういう所が好きだった。



「またな、心雨」



いつものように、振り返ることなく、和泉さんは出ていった。残り香はそのうちわたしの中に溶けて無くなって、消えてしまうのだろう。


「さよなら、和泉さん」


和泉さんが出ていくと、左目から涙がこぼれ落ちた。すぐに収まると思っていた涙は、一向に止まらなくて。ドアに額を擦り付けると、いっとう涙は落ちていった。


和泉さんが「心雨」と優しい音色で呼ぶ、この名前が好きだった。


" やめていいんじゃないの "


他の人が" がんばれ "や" えらい "と褒める中、和泉さんだけが違った。逃げてもいいと教えてくれた。


頑張りすぎるなと言ってくれた。内緒と言って、チョコをくれた。そんなところも好きだった。


気まずくなるのは嫌だった。和泉さんを困らせたくなかった。


一緒にいたいから……自分の気持ちを伝えることは出来なかった。嘘をつく方が楽だった。



──わたしはずっと、臆病者だ。



ぱちりとまぶたを開けた。柔らかな秋の朝日は滲んでいる。こめかみのあたりを冷たいものが伝うので、拭うと指先はしっとりと濡れた。



ああ、また変な夢、見ちゃった……。



いまのは、夢、というより記憶だ。

春と冬が溶け合う季節の記憶。


わたしが遠くの大学へ受かって、一人暮らしをすることは、条約通りだれも知らなかった。あれは、和泉さんと会う、最後の日になる予定だった。


妹じゃないわたしをみてほしくて、綺麗になって再会する。その時和泉さんに恋人がいたら、逃した獲物は大きいぞ!って、胸を張ってやりたかった。


決めたのはもちろんわたしだ。わたしひとりの計画だ。


和泉さんが居なくなると、泣きすぎて目が腫れた。お兄ちゃんはもちろん驚いていたけれど、わたしは泣くのを止めなかった。お兄ちゃんは傍に居てくれた。



『心雨、いつでも帰って来いよ』



わたしの部屋が、引っ越す前から何一つ変わっていないことを知っている。ベッドのシーツはいつ帰っても清潔なのを知っている。でも、3年、あのベッドでは寝ていない。

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