30話

記憶が鼓膜をことんと叩いたその時、隣からカラカラとしたリアルな音が聞こえ、我に返る。


給湯器事件の合間に帰ってきたのだろう。きっと、和泉さんだ。


すぐさま安っぽいライターの音が鳴るので、ひょこっと顔を出し「おつかれさまです」とりわけ溌剌とした声をかけると、いつものごとく、和泉さんは一瞬だけ驚いて、すぐに顰め面をする。



「お前なあ……毎回驚かすなよ。煙草落とすだろ」


「ごめんなさい。驚かせたお詫びに、バウムクーヘン食べませんか?すごく美味しいんですよ」


「おー、それは楽しみ」


とてもお安い楽しみを告げた和泉さんは、向こう側の夜へ紫煙を吐き出した。


「最近、帰宅が遅いですね」


「おかげさまで忙しくさせてもらってる」


「和泉さん、そんなに忙しくしていて夏の思い出とか出来ました?」


「残念ながら全く。心雨は?」


「わたしも全く。バイトに励んでいました」


「聞いてたとおりかよ」


ぽそりと和泉さんが呟くので「え?」と聞き返すと「どうかした?」何ともない表情ではぐらかされるので、聞かなかったことにする。


「夏っぽいこと全くしなかったのな」


「はい。花火とかしたかったな……和泉さんはしましたか?」


「あー……こないだ帰省した時に、蒼井たちとしたかな」


「お兄ちゃんと!?ずるいです」


「じゃあ心雨も帰れば良いだろ」


右の鼓膜からするりと入り込み、左へと流れるはずの言葉は堰き止められる。


「まあそれは良いとして。俺の方は今度コンテストがあんの。俺も出る予定だから、仕事終わって練習してるってわけ」



なんと答えるべきか考えあぐねる間に、和泉さんの興味は外れてしまったようだ。当然、わたしの興味もそちらへ向かう。



「美容師さんにコンテストなんてあるんですか?」


「おー。結構な頻度でな。シビアで競技的だし、なにより店背負って出るからには生半可な立場じゃ出れねえの」


そうなんだ……。


美容師という仕事に関しては未知の世界だけど、和泉さんのお仕事ってだけで俄然興味がある。



「連日残業って、辛くないですか?」


「好きなことやってるし、辛くはないかな。手荒れは痛いけど。それにこの界隈じゃ有名な美容師のカットを生で見られるし、良い刺激になるから、どう考えても出るメリットの方が大きいよ」



和泉さんはいつもと変わらず、平坦な口調だ。決して弾むトーンではないし、仕事帰り特有のクタっとした雰囲気なのに、どことなく楽しそうだ。


楽しいことを仕事にできる幸せ、か。


「ていうかね?」



ふと、和泉さんの手が伸びて、わたしの髪をさらりと撫でる。


「え、」


それが当たり前なほど自然な流れなので、わたしは驚く間もなかった。


「髪濡れてるけど、乾かさないと風邪ひくよ」


そ、そっちか……!


こないだから、和泉さんの言動にいちいち振り回されてばかりだ。


「よく自然乾燥やっちゃうんで平気です。お気になさらず」


「うわ、ちゃんと乾かさないの許せん」


「うっ……ごめんなさい……」


「それは心雨に元気が無いのと関係ある?」



今の会話のどこに元気の無さを感じ取ってくれたのだろうか。和泉さんは心を読む能力でも持っているのかな。


しかし、なんとなく誰かに話して、心を晴らしたかったので、口を緩くした。



「聞いてくれます?実は給湯器が壊れちゃって、シャワーから水しか出ないんです」


「は?なにそれ。何の呪い?」


「星の呪いです」


「どういうことだよ」



けらけらと和泉さんは頬を緩ませ、気持ちの良さそうに笑う。顔はお綺麗で、身体の線も細く、清潔感のある人だけど、つんと尖った喉仏だけは男の人らしく隆起している。和泉さんが笑う度にひくりと動き、目が離せない。


わたし、もしかして喉仏が好きなのかな?


「じゃあ、うちに来る?」


自分のフェチズムに予想を立てていると、いつのまに真顔に戻った和泉さんはよく分からない提案をするから「えっ」と、問いただす。



「多分、うちの給湯器は壊れてないよ。まだ今日は風呂に入ってないからわからんけど」


「い、いいんですか?」


「どうぞ」



──救世主はなんと、隣にいた。

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