13話‎𖤐ベランダで乾杯



洗濯物を終わらせ、ベランダのドアをカラカラと開けた。クーラーの心地よい冷気が外の世界へ逃げてゆく。


「ああ、良い風」


頭のてっぺんでまとめていたおだんごを解くと、ずっしりとした重さから解放された首から" サンキュー! "と感謝された気さえする。


煩わしい前髪はシュシュで拘束し、ドアのガラスに背中を凭れてしゃがみ込んだ。火照った体を冷ます、気持ちの良い夜風はリラックス効果抜群だ。


常備している缶チューハイに口をつけた。夜更かしは肌に敵だし、お酒は体型キープによろしくないので、たまにと決めている。


飲み会は棚に上げるのか。と言いたいでしょう?秋も半ばだけれど、残暑の厳しい日にはお酒を煽りたくなるものじゃない。セーフセーフ。


セルフで自分を甘やかしてやると、鼻いっぱいに夜の匂いをかいだ。生ぬるい夜の温度と、金木犀のにおいが風に乗って、ふわり、舞う。


ぼんやりと空を眺めた。都会の空から星は見えないと思っていたのに、当たり前に星は降る。



「じゃあ、そんなかんじでー……よろしくお願いします」



遠くでまたたく星を見ていると、カラカラと小気味よい音と共に、ついで聞こえた生身の声。


……和泉さん……?


いつもよりワントーン高めで他人行儀な声に、思わず吹き出しそうになる。だって、地声が低い人なのに、こんな声滅多に聞きなれないもん。


珍しい声はすぐに消え、代わりにカチカチと不景気なライターの音が聞こえた。しばらくすると、和泉さんから吐き出されたであろう副流煙がかすかに届く。


あ、和泉さんのタバコの香りだ……。


懐かしさに、キンと胸が震える。


どうしよ、わたしがここに居るの、気づいてないよね……。


こんばんわ、今日はお疲れ様でした〜って挨拶してみる?いや、さすがに馴れ馴れしいよね。


それとも、貝になったつもりでやり過ごす?いやいや、別の誰かと電話を始めちゃったら耐えられないよ。


だったら……。


短時間で、脳内では選択肢が表示され、わたしが選んだのは三番目。逃げる、だ。足先に全神経を集中させて、忍び足でそろりと退散していれば、ガツン!とジョウロを蹴り飛ばしてしまい、びくりと勝手に身震いした。


頭を抱えたくなった。


一人暮らしを始めた直後、オシャレなベランダに憧れた名残。家庭菜園に一瞬だけ手をつけたけれど、結局大嫌いな羽虫が繁殖してワンシーズンにも満たない期間で打ち切りとなった。


その残骸に、邪魔をされるとは.......!


そろ〜っと白い防護壁の向こう側を覗き込むと、ばっちり和泉さんと目が合うので、今度こそ覚悟を決める。


「こんばんはぁ……」


「びびったー……いるなら居るって言えよ」



わずか数メートル先にいる和泉さんは、意外と怖がりなのか、目をぱちくりとさせている。いつも飄々としているだけあって、ちょっとだけ、可愛いと思ったのは内緒。



「すみません、出るタイミングがむずかしくて」


「心雨って大縄跳び苦手だった?」


「苦手です。輪に入るタイミングも飛ぶタイミングも難しいですよね」


「あんなの、走り出したら流れに身を任せて跳べば良いだけじゃん」



それは運動神経が良い人の話だ。元サッカー部の和泉さんは、もちろん運動神経抜群である。


凡人……取り分けわたしのように鈍臭い女は、縄が地面を叩くのを数えるだけで精いっぱい。


さらに、大勢の友人に" まだかよ "の目を向けられると足が竦んで動かなくなる。みんなが飛び込むのを呆然と見送るしか出来ないのだ。


「……昔と同じの吸ってるんですね」



過去の苦い思い出を消し去って、目で煙草を訴えると、和泉さんの視線が手元に落ちる。荒れ知らずのなめらかさ。細くてちょっと骨ばって、綺麗な指がコトンと煙草を弾く。


「ああ、うん。よく覚えてんのな」


喉元までのぼりつめた、和泉さんだからです。は、すんでのところで飲み込んだ。


「こう見えて鼻がいいんです。わたし」


「ああ、たしかに犬っぽい」


「どうして犬になるんですか?」


「鼻がいいって、自分のこと犬と例えてんのかと思って」


「違いますよ!?あ、でも、犬は好きだなあ……。和泉さんは?」


「奇遇だね?俺も犬派」


ふーん。7年越しの真実ってやつ?


くちをすぼませて「そっか」と頷く。にやけてたまるものかと我慢したわたしは表彰ものだと思う。


「でも、和泉さんは犬ってより猫ですよね」


「なんで?」


「犬って一途で純粋ってイメージだけど、和泉さん、一途でも純粋でもありませんでしたよね?女は遊びだけでいい、とか、今だから言えますけど、中学生には悪影響でしたよ」



記憶をなぞってみると、和泉さんは「ふは」と吹き出した途端、くたっと破顔させた。


わ。和泉さんの笑顔、めずらしい……!


疲れたこころに染みこむ笑顔をまぶたのうらに焼き付けようと、じっと見つめる。


「あ〜……あの頃、チョーシ乗ってたもんね?」


「はい。かなり、モテライダーを極めてました」


「その言い方ダサすぎるでしょ」


「……なんであんな付き合い方されてたんですか?」



思い切って訊ねると、和泉さんは無言のうちに煙草を口につけた。じわりと侵食するオレンジ色。火種はじわじわと和泉さんのうすいくちびるに近づいていく。


「内緒」


暗がりの中で、和泉さんが微笑む。


わたしの真似なのか、こういうところが和泉さんは意地悪だ。


「心雨は彼氏出来たの?」


「……出来てません」


「は、初志貫徹ってやつ?すげえな」



ゆるく微笑んだ目元は、再び夜空に向かう。


……あ、いまの、和泉さんに彼女のこと、聞けるチャンスだったかな。


しかし、聞くのは躊躇われた。綺麗な横顔を崩すのは罪だと思えたからだ。この横顔のシルエットをベースにすると、とても綺麗なルビンの壺が出来そうだと、そんな錯覚に陥ったからだ。



他人のくちびるの、おそろしいまでのやわらかさと温もりを、わたしは一度だけ経験したことがある。



和泉さんが煙草を吸う度に、煙草になりたいって、思っていた。


和泉さんに触れられて、口づけを貰って、その体内に染み込んで、用が済んだらぐしゃりと潰して欲しかった。


" 友人の妹 "の蒼井心雨ではなく" 遊びだけの女 "である蒼井心雨ならば、箱に敷き詰められた煙草のひとつのように、息をするように選ばれて、役目を成したら潰してくれただろうか。

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