10話𖤐おもいで、ひとつ
和泉さんは5mほど離れた場所でいつものようにやわっこい笑顔を浮かべているから、コトン、胸の内側でなにかがはぜる。
「おかえり、心雨」
コトン、コトン、徐々ににぎやかになる内側。
気になる。
気にしない。
気にしたらダメ。
わたしは、妹、だ。
たしかに彼は言ったのだ。
あの日からわたしは人知れず、どうやれば妹から脱却出来るのかを考えていた。悩んでいたある日、ひとつのきっかけが出来た。そのきっかけはわたしに見たことの無い世界を見せてくれて、徐々にわたしの毎日は彩り始めている。
……でも、まだ、和泉さんにとってわたしは妹。女としても見られていない。
間違えない。
間違ってはダメ。
「……ただいま、です」
この音に気づきたくなくて、自分の部屋のドアノブを捻る。
ドアに背をつけると、膝から力が抜けて、ずるずるとしゃがみ込んだ。
「……きにしない、きにしない……」
わたしの言葉は真っ暗な部屋に溶けてゆく。
壁1枚隔てた隣から、彼の音が届いた。それだけで胸が焦がれた。
:
和泉さんと知り合ったのは、七年前。あのころ、わたしが中学生で、和泉さんは高校生だった。
友達の多いお兄ちゃんは、中学の頃は誰かのお家に遊びに出かけるスタイルだったのに、高校になると同時、どうも我が家に集まる方へシフトチェンジしたらしく、週に何度か友人が集う日があった。
元々お父さんは仕事で帰りが遅いし、出張も多い。親がいない家っていうのは高校生にとって色々と都合が良かったのかもしれない。
がやがやと賑やかな声が壁越しに聞こえるたびに、うるさいなあ、としっかりと嫌味を覚えつつ、ほんのちょっぴり、羨ましさも感じていた。
その中のひとりが、和泉さんだった。
「蒼井の妹、髪の毛綺麗だね」
第二印象は、軽い人。
お兄ちゃんのお友達は、おしゃべりで気さくで、面白い人が多いのに、和泉さんだけは違った。
気さく、というより意地悪で、いつもやる気のなさそうにしていて、耳にはピアスもばちばちに開けているし、髪色も毎回目を引く色をしている。
……お兄ちゃんの友達の中でも異質な人。
第一印象からあまり良くない和泉さんとの初めての会話で口説かれ、カチンときて。中一のわたしは、無視しちゃった。
勝手に苦手意識を感じていたのに、和泉さんはわたしに何かと声を掛けてくれた。『おかえり』と言われたら無言で会釈をして、『何作ってんの?』とキッチンで覗き込まれると、料理名だけ答えるという、なんとも思春期らしい態度だった。
しかし、なにかと和泉さんと二人で話す機会が多くて、お兄ちゃんは居ないのに和泉さんが家に居た日もあった。
ちょっとデリカシーがないな、と思うことはあっても、顔は特急品のように美しい。思春期の女にとって、美しさとは抗うことの出来ない欲望のようなものだ。
『蒼井、今日は何すんの?』
その日もまた、和泉さんは平坦な声で訊ねてくるから、キッチンからダイニングテーブルへ返事をした。
『今日は、オムライスをつくります』
『あ?テス勉以外に何すんだよ』
しかし、冷蔵庫からジュースを取るお兄ちゃんも同じタイミングで返事をしたのだ。
実はこの失態、初めてではない。『妹ちゃん』とみんなが呼ぶ中、和泉さんだけは『蒼井』とわたしを呼ぶから、呼ばれる度に、お兄ちゃんとわたし二人とも振り向いちゃうの。
今日もお兄ちゃん宛だったか……そりゃそうだよね。友達の妹じゃなくて、友達に聞くよね普通。
と、勘違いにひとり恥ずかしくなり視線を落としていると、
『オムライス、俺、超好き』
耳に届いた和泉さんのフラットな声がやけに優しく感じた。
『前から思ってたけど、お前ややこしいな。名前で呼べよ』
お兄ちゃんはついに難癖をつけてしまった。確かに、勘違いするよりも呼び名を変えてもらう方がずっと良い。
『……じゃあ、心雨?』
『え?』
絶対にお兄ちゃんの呼び名を変えるものだと安心しきっていたのに、なぜか、矛先はわたしに向かった。
和泉さんって、距離感おかしくない?高校生ってこんなもの?
面食らうわたしを他所に、警戒心をむき出しにしたのはお兄ちゃんだった。
『いや、なんで心雨だよ、順当に考えて俺だろ』
『いまさら蒼井を名前呼びとかきしょい』
『あぁん?心雨さんと呼べ心雨さんと』
『なんでだよ』
〝みう〟
和泉さんが呼ぶ声が静かに心の中に沈められて。
その都度、ことことと心が動いた。
中学生の恋愛経験なしの女に、和泉さんはよろしくない。分かっていたけれど、家に帰れば度々和泉さんは居るので、会わない方が難しかった。そのうち、好き、に結び付けられる決定的なことがおこる。
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