9話𖤐ひみつ、ひとつ
:
帰宅が楽しみになる要因はいくつかあるけれど、わたしの場合、香りも一因となっている。
この時期、マンションを囲うように植え込まれた金木犀が一斉に咲き乱れている。なので、家に帰りつくとまず" おかえり "って、金木犀の香りが声をかけてれるから、くたくたの心が休まるのだ。
それに、朝、ベランダを開ける度に甘やかな香りが飛び込んでくるものだから、気持ちのいい一日が始まるの。
「おかえり、心雨」
しかし最近、帰宅が楽しみになるプラス要因が出来てしまった。
──同じマンションに、好きなひとがいることだ。
しかし、予期せぬ遭遇はよろしくない。やる気のない服装のわたしに対して、和泉さんはオシャレ男子そのもの。
それでも、わたしのこころは18歳に引き戻された心地がした。もちろん、わたしはセーラー服を着ていない。
会ったついでに、ただいま、の口を作ったけれど、声は意図して飲み込む。言ってたまるか、のあらわれだ。
「まだ、エントランスなのに。おかえりはおかしいです」
ピシャリと言い切ると、真上から楽しそうに笑い声が揺れる。
「相変わらず頭硬すぎな。エントランスでも家と変わりないし、おかえりでいいでしょうよ」
「良くないです。よく言うでしょ?家に帰ってくるまでが遠足って」
「ああ、心雨は毎日遠足に出かけてるってわけか」
「ちがいます!バイト帰りです!」
「バイト?なんのバイトしてんの」
「……内緒です」
「あーあ、秘密持たれちゃった。悲しいなあ」
とはいえ、悲しさの欠けらも無い軽いトーンだ。ちょっぴり拍子抜け。和泉さんにとってはその程度の熱量だ。壁、作って損した。
「和泉さんは、仕事帰りですか?」
「そうですよ」
「美容師でしたっけ。勤務先、変えたんですか?」
とぼけた振りをしたけれど、和泉さんの職業はしっかりと覚えている。忘れるわけが無い。
「うん。先輩が店出すっていうから誘われて、こっちに来てみた」
「ふうん……じゃあ、最近越してきたんですか?」
「そういう感じ。半年はやること多すぎてバタバタしてたけど、やっとひと段落したところ」
ということは、多忙を脱したらすぐにあの修羅場に出会したというわけ?
あの人は誰だったんだろ……。同じ職場のスタッフさん?お客さん?それとも、彼女?
彼の立ち位置を感じていると「今度はどうしたの」和泉さんが怪訝な目を向ける。
「いえ。和泉さんは大学も地元だったし、就職も地元だったので一人暮らししたくないタイプだと思ってました」
「そういうわけじゃねーよ」
「どういうわけですか」
やってきたエレベーターへ一緒に乗り込むと、狭い空間に和泉さんの笑い声が泳ぐ。正直、わたしはいっぱいいっぱいだ。こんな狭い空間にふたりきりは、正直心臓に悪い。
ちらりと和泉さんを一瞥した。昔は美容師らしく、ネイビーとか金髪とか、派手な髪色をしていたけれど、いまは黒髪らしい。センター分けにされた前髪と、毛先はゆるっとしたパーマが充てられていて、色気がすごいの。
それに、相変わらずまつ毛、ながいなあ。肌も綺麗だし、ちょっとこの毛穴のなさと色の白さは羨ましい。
思春期のころは、和泉さんの顔の造形美に羨ましさをこえて憎らしく思っていた。細胞レベルで遺伝子の違いを感じる。
「何見てんの?」
あまりに見すぎたおかげで、落っこちてきた視線とぶつかる。異質な目を向けられ、反応に遅れてしまう。
「和泉さんは、相変わらず綺麗な顔をしていますね」
「心雨も相変わらず可愛いね」
「心が込められてない褒め言葉って、ビックリするくらい嬉しくないですね」
「こんなに心込めてるのに、ひどいなあ」
「だって、わたしよりお兄ちゃんの方が可愛いって知ってますもん」
「まあ、蒼井は女みたいな顔してるよな。蒼井を初めて見た時、男か疑ったし、俺」
「ですよね。わたしとお兄ちゃん、完全に性別間違えて生まれた感じはあります」
わたしの兄、蒼井
雰囲気もやわらかく、愛想もいい。それがわたしの兄だ。
「どうしたんですか?」
ふと、返事が途切れて見上げると、和泉さんは顔を顰めた。眉間にシワを寄せていても、元々の造形美のおかげで綺麗なままである。
「頭の中で蒼井と心雨の顔を交換してる」
「そんな妄想しなくて良いです!」
「蒼井が可愛いのはわかったけど、心雨は今のままで十分綺麗だよ」
口元のホクロがきゅっと上がる。いらぬカウンターを受け、心臓にぐさりと矢が刺さった。危ない。家の中であれば、腰が抜けていた。なので別の逃げ道を探り寄せる。
「お兄ちゃんに、わたしの家のお隣だって言いました?」
「心雨は?」
「質問を質問で返すの、やめてください」
「蒼井には、俺からは言ってない」
だろうな、と納得をする。お隣が和泉さんだと知れば、すぐにお兄ちゃんからの鬼コールが待っているだろうに、何のアクションもない。
《最近変わったことは?》の話から始まり《バイトは程々に。お小遣いだったらお兄ちゃんがあげるからな!》と、数日前のメッセージをやり取りした後、対岸からの文字は途絶えている。
「右に同じです。すみません、気を使わせてしまって」
「全然。むしろ隣が心雨で良かったとは思った」
「……え」
鍵を回すと、音が鳴る。
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