(十六)

 純暦一九三二年。五月。

 まだ水の滴らない季節であり、樹々に包まれた窓外はまだ少しの肌寒さと、春の爽やかさを宿していた。季節が過ぎ去るのは早いもので、時の流れを自覚するときには、まるで記憶をうしなったのではないかと疑うほどだ。そのくせ、やることは山のようにあり、日々それらに忙殺されている。やったことに対してその実感が伴わないのは、どうにかならないものか。そんなことを考えながら、わたしは書類仕事を進めていた。どれもこれも地道なことの積み重ねだ。嫌いではないが、ときおりこの煩雑とした忙しさと予定をすべて投げ捨てて遊びに出かけたくもなる。街中であれば、夜中にふらりと外を歩き歓楽街を楽しんだだろうが、残念なことにこの研究施設は北方山脈の山中にかまえているものだから、近場に遊興施設もない。出かけるには馬車が必要で、いちいち旅の準備をしなければならず、その手間は面倒だった。休もうにも、遊興のない暇な時間ほど自身を腐らせるのだから、それに耐えきれず、結果的にこうして毎日毎晩仕事に明け暮れるはめになる。好きでやっているわけではないのに、まわりから休めだの仕事中毒などと言われるのは非常に遺憾だ。いっそこの周辺に遊興施設でも作って、他からいくらか住民を誘致して街でも作ってやろうか。幸い遊興についての案はすぐに脳裏へ浮かんだ。あとは、それを実行するための計画立案と人員確保だが……。

 ふと。

 わたしは声をかけられ、資料から顔をあげた。別な考え事をしながら、資料を読みふけっていたせいで、すっかり耳に入っていなかったのだ。

 目が合うと、イナサは何度も声をかけたのだと多少肩をすくめる。

 わたしはばつの悪い笑みをうかべた。

「すまん。魔導機構の修復についての話だったか?」

「それはさっきしたでしょう。本当に聞いてなかったんですねぇ」

 彼は「まぁいいんですけど」と手もとへ視線を落とした。黒色の革手袋には、もういくつも傷がついていた。

「いいかげん、それ外さないのか?」

 わたしは言った。

「別にいいだろう。二人でいるときぐらいは。それに、翼だって」

「だって触るじゃないですか」

「あたりまえだろ」

 わたしが言うと、彼は「嫌ですよぅ」と口をすぼめて、はらはらと書類をめくった。どうにも、翼を触られるのは苦手らしい。毎度、わたしはあまり触れている心地がしないのだが、彼には耐えられないらしかった。痛いのかとたずねると、そうではないという。ではなぜかとたずねると、彼はいつも、とにかく嫌なんですの一点張りで、けっきょくいまのいままで教えてもらえたことはなかった。

 イナサはこぼれてきた亜麻色の髪を尖った耳輪にかける。左耳できらりと光ったのは黒曜石のピアスだった。

「それで、例の件なんですけど」

「準備ができたのか?」

「ええ」

「すぐ出る。支度をしてくれ」

 わたしは立ちあがった。

 彼は「そう言うと思いました。すでに調査員を選別して、馬車も用意していますよ」とくすくす笑って、ついてきた。書斎を出、二人でならび歩く。彼の横顔は、いまだに十六を数えたあのときのまま若くあるが、しかしいくぶんか、その表情は変わっているように思う。

 わたしはなにも言わずに、視線を外した。

「ずいぶんかかってしまったな」

「そうかもしれませんねぇ」

「会えると思うか?」

「会ってみないことには、どうにも」

「それじゃあ今度二人で子どもでもつくるか?」

 その瞬間、彼はスコンと足をすべらせて、顔面から盛大に床へ倒れた。彼はつぶれたまま「正気ですか」と言った。

 あまりにも面白い反応だったので、わたしはたえきれず、からからと笑い声をあげた。彼は身体を起こしながら、赤くなった鼻頭を押さえ「冗談はほどほどにしてくださいよ。びっくりしたじゃないですか」と眉間にしわを寄せた。

「はは、すまんすまん。しかしお前もそんなに動揺するんだなぁ」

「本気で襲いますよ」

「それは勘弁」

 わたしは諸手をあげて降参し、また進み始めた。

 でしょうね、とイナサが息をつく。

「なんたって急にそんな。というか、付き合っていた女性はどうしたんです?」

 落ちた資料を拾ったイナサが、わたしの横にならんだ。

「三日前によ」

「ああ、それでご乱心」

「お前こそ、この前の子はどうしたんだ?」

「楽しい一夜を過ごしましたよ」

「ほう?」

 わたしはやや恨みがましく「そりゃようございましたね」と皮肉たっぷりに言ってやったが、彼はなんてことのない顔で「ええ、それはもう」と流してくれたものだから、わたしはいよいよ彼の膝裏に蹴りをくれてやった。

った! そうやってすぐ足でもなんでも出すんですから。手が早いのは女性だけにしてくださいよ」

「じゃかあしい。手をだすときはちゃんと同意を得てからにしている」

「どうだか。あなたは口が上手いから」

「人を詐欺師みたいに」

「ならちゃんと、言ってくださいよ」

 ふいに彼を見あげると、翡翠色のまなざしと視線が重なった。彼のなかに映るわたしの瞳は、やはり真っ黒だ。

「俺はあなたの嘘なんて、見抜けないんですから」

「よく言うよ」

 わたしはからからと笑った。

「もう十五年以上もいっしょにいるのに」


 研究所を出ると、わたしは彼とともに馬車へ乗った。他の者達も、待機した別の馬車へ乗り込んでいる。

「また、長い旅になりますね」イナサはやや惜しむように、北方山脈を見やった。

「いいや。もうずっとだよ」

 わたしは笑う。

「もうずっと、死ぬまで終わらない旅が続いてる」

 彼はしばし黙してから「そうですね」とほほ笑み、馬車を走らせた。彼はいつのまにか、なんでもできるようになっていた。こうして馬車の手綱を握ることはもちろん、地図の読み方や料理に応急手当。身の回りのことはだいたいこなせるうえ、最近は多様な言語の翻訳までこなしている。そのうえ、記憶がいい。わたしがわすれてしまったことでも、彼に訊けばすぐに答えが返ってくる。……わたしの寝言を覚えていたり、うんと小さな(それもかなりどうでもいいはずの)約束事まで覚えているのが少々難点だが。

 ゆいいつ、彼が本当にできないことといえば、運動だろうか。やはり足のせいか。それとも元から壊滅的なのかは、かなり怪しい。


 ある晩のことだった。

 小さな宿場町でひと部屋を借りたわたしとイナサは、いつも通り明日の話をしながら、草を編んだ寝床に横たわった。寝心地がいいとは言えないが、問題はない。調査員たちにはもう少しマシな部屋を用意してやったが、やはり北方の研究施設と比べると粗末なものだった。というのも、ここには魔導技術の文明がなかった。どの建物もずっと昔の古い家屋で、灯りは油を垂らした皿に灯芯を浸して点火したものを、紙を張った火袋にいれている。

 やわらかい灯りは、眠気を誘うのにはじゅうぶんだった。

 いよいよ眠くなってきたころに、わたしはふと思いたって、となりのイナサに訊ねてみた。

「なぁ、たとえば。不老不死が実現するとしたら、なりたいか?」

「いいえ」

 彼は首を振った。

「嫌ですよ。そんなの」

「どうして?」

「では、あなたは不老不死になりたいと?」

「バカ言え。そんなの寂しくて死んじゃうに決まってるだろう……あ、不老不死になったら死ぬこともできないな」

「そうでしょう? やっぱり俺は、ちゃんと死にたいんです」

「じゃあさ。前提を変えよう。たとえば、いま目の前に死があるとする。病気でも怪我でもなんでもいい。それで、あと数分後には絶対に死んでしまうんだ。さて、どうする?」

 彼はすこしばかり、考えたらしかった。

すがりたくは、なります」

「でも不老不死にはならない?」

「わかりません」

 彼はまた、首を振った。

「アイは。あなたは、どうするんです?」

 わたしはかるい笑みをうかべた。

「怖いじゃないか」

「それは、どういう意味で?」

「じゃあこうしよう。目の前に死があることを前提として、不老不死が得られるとする。けれど、不老不死を得る代わりに、人間でなくなってしまうんだよ。理性なきバケモノとなってしまう。これならどうする?」

「嫌ですよ。そんなの死んでるのと変わらない……いえ、それよりも、もっと悲惨じゃないですかぁ」

「ならさ」わたしは矢継早に訊ねた。「もし、大切な人が死にそうで、その人に不老不死をあたえられるとしたら、お前はどうする?」

「あなたは時々、どうしようもなく意地悪ですね」

 イナサは苦笑した。

 わたしは素知らぬふりをして「さて、なんのことだか」と頭の後ろで手を組んだ。

「もう寝ようぜ。長旅でくたくたなんだ」

 あくびを混ぜて手をひらひらふると、わたしはまもなく眠気に誘われた。

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