喧噪

頭痛がする。ぐらぐらと視界が回るような。


 それはアドラーの持病のようなものだった。いつから発症したのかは覚えていない。ただ大神殿に来た時はもう持っていただろう。この症状が『治癒』によって治ることは無い。神官が行うそれはあくまでも人間本来が持つ治癒力を高める物であり根本的に治すというものでは無かった。

 気持ち悪さで壁に手を付いて一拍。アドラーは身体の中に留まっているような煮凝りを吐き出すように息を付いた。クリアになってくる意識と同時に辺りを見回した。


 夕刻とも有って光と影のコントラストが濃い路地。視線を大通りに向ければ足早に家路に帰る人や夜の歓楽街に繰り出す人々の姿が見えた。


 アドラーは少しこめかみを揉んでから地震の姿を確認する。


 汚れた衣服は鞄の中に。その代わりに神官のローブを纏っていた。何の飾り気もない灰色。裾には黒い刺繍で古代文字による聖書の一説が書かれているがアドラーには――否。ほとんどの神官は読めず、だの飾りと化していた。


 下級神官や見習いを表すローブで、ごく一般的な神官たちが着るものは白であった。


「あ……えっと帰るんだったよな? 門限だし」


 (誰も(・・)居なかったよな?)


 確か――誰かがいたような気がするが、暗闇の中を見てみても誰もいない。ただそこには今にも暗闇から何かがはい出てくるような気がして目を逸らした。


 こつ、こつ。静かな空間にただアドラーの足音だけが響いていた。何かが追ってくる。そんなイメージを抱いたのは以前同僚に借りた本のおかげだろう。


 アドラーはほとんど無意識に足を早め中央通りに出てきていた。


 人々の喧噪。流れてくる料理の匂い。駆ける子供に、追いかけていく犬。端に置かれていた樽の上で猫が我関せずという顔で眠っている。


 溢れる様な生命の営みにアドラーは安堵したように息を付いていた。早く帰らなければ゛ならない事も忘れ、人々の流れに載るようにゆったりと歩く。それがなんだろうか。おかしなことだと思うが、嬉しい表情を隠しきれずに歩いていた。


「今、帰るのか? アドラー」


「つぅか相変わらず街をうろついてんだな」


「門限だろ? 帰れや。おめーは」


「うちの娘を嫁に……要らねぇ? てめぇ。覚えてやがれ」


 知り合いとあいさつなのか何なのか言葉を短く交わす。よく街に遊びに来ているアドラーに顔見知りは多い。その身なりが見習い神官と言うこともあるが、この街――正確には区域――の人間は比較的、馴れ馴れしい。よく言えば人情に溢れていると言う事だろうか。


「あ。アドラー兄ちゃんいい所に」


どこか慌てた様子で前から走ってくる少年がアドラーに声を掛けていた。アドラーよりは年下だろう。その身長も高くは無く見下ろす形でアドラーは見知った少年を見ていた。


「カルスト? どうしたんだ?」


「向こうでさ、おっちゃん達の喧嘩が――今、警邏を呼びに行くところなんたけど、ちょっと見張っていてくれないかな? あのままだと拡大しそうだったから」


 ますます帰る事が遅れる気がして溜息一つ。


 にしても、行かないという選択肢はアドラーの中には無い。人を助けるのは神官として基本の事だから。しかもアドラーは癒しの力を使うことが出来ない。だからそれ以外で神官として助けることは当たり前の事。何が出来るかとは別として。


 尤もその思考に至るまで相当な時間を要したが。


 はた、アドラーは気付く。


 なんとなく『何でも屋』になりつつ在るのは気の所為だろうか。無償で体よく扱われるタイプの。


 (まぁ。いいか)


 アドラーは深く考えることは苦手だった。


「兄ちゃん?」


 呼ばれて顔を上げる。


「ん。そうだな。とりあえず止めてくる。カルストはそのまま警邏に。その後で神官――はもういないから医者を連れてきてくんない?」


 救護院の神官はアドラーと同様にしてに夕刻で帰る。そこには交代制で一人だけ医師が詰めている状態であった。ついでに急患は大神殿で受け入れる手筈にはなっている。


「分かったよ。じゃあな――後で」


「了解」


 手を元気よく振ってアドラーの隣を駆け抜けていく。少年――カルストの小さな背中を見送ってから『よし』と小さく呟いてアドラーは歩き始め、小走りになっていた。

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