第12話 肥田春允

   肥田春充氏・101号室(体育家)


 応接室の床に「禅僧」の身なりの老人が黙想正座をしている。

傍らには木刀のような「杖」が。


ドアーをノックする音が応接室に響く。


老人は薄目を開き咳払いをする。

鮫島が片手に茶を載せた盆を持ちドアーを開ける。


 「失礼します」


鮫島の盆を持つ手が小刻みに震えている。

老人は姿勢を正し、沈思黙考。


 白衣に松葉杖の西丸が応接室に入って来る。

西丸は鋭い眼で老人を睨(ニラ)み、


 「あいにく本日は院長が不在で、大川の担当医、西丸が応対させて頂く」


西丸はソフアーの肘掛に松葉杖を立て懸(カ)け、どっぷりと座る。

鮫島がテーブルの上にそっと茶を一つ置く。

震える声の鮫島。


 「粗茶ですが」


老人は急に目を見開き、鮫島を見て、


 「お構いなく」


鮫島は急いで両手で盆を胸に抱き、ドアーの傍に立つ。

西丸が、


 「で、お名前は?」

 「肥田春充(ヒダ ハルミツ)と申す。お見知り置きを」

 「ヒダ?・・・聞いた事が有るな。で、用件は」

 「大川周明と云う者がこの病院に引き取られたと聞きまして。会いたいのだが」


西丸は腕を組み肥田氏を凝視。


 「会いたい?・・・患者との関係は」


ドアーをノックする音。

畑(婦長)が入って来る。

畑 は、鮫島の耳元に心配そうに小声で囁(ササヤ)く。


 「大丈夫?」


肥田氏が聞こえたらしく、よく響く声で、


 「心配御無用! 友人だ。危害を加に来たのではない」


西丸、


 「・・・ここに大川氏が居ると誰から聞きました?」

 「猪一郎だ」

 「イイチロウ?」

 「徳富猪一郎と云う御仁(ゴジン)じゃ

 「徳富猪一郎? あの※徳富蘇峰氏の事かな?」

 「そうとも云うな」


畑 と鮫島は顔を見合わせる。

鮫島が小声で、


 「徳富蘇峰って、この方は誰?」


肥田氏は大きく咳払いをし、


 「で、面会は出来るのかな?」


西丸は大きく溜息を吐き、


 「・・・時間は十分、杖は私が預かると云う条件なら」

 「承知した」


肥田氏は傍(カタワ)らに置いた杖を畑 に渡す。

西丸は畑 から杖を受け取り確認する。

肥田氏が、


 「仕込みなどでは無いッ!」


西丸はきつい目で肥田氏を睨み、


 「この面会は例外中の例外だ。大川と云う患者は特別な患者で発作が起きると手が付けられなく成る。今回はあなたの蘇峰氏に聞いたと言う事を信じて面会を許可する。だが当然、私も立ち会わせて頂く。あまり刺激しないようにお願いしたい」

 「あい分った」


西丸は畑 から松葉杖を取り上げ、ソフアーを立つ。

鮫島はドアーを開けて待つ。

西丸が応接室を出て肥田氏を先導する。

畑 は肥田氏の後に続く。

鮫島はドアーをそっと閉める。

肥田氏は風体は柔和だが隙が無く不気味な感じがする男である。

四人が並んで渡り廊下を歩いて行く。

肥田氏は先導する西丸の肩に、


 「この病院は気違い病院と聞くが」

 「気違い病院ではない。精神病院だ!」

 「同じ様なものだ」


西丸は一瞬足を止め、振り返り肥田氏を睨む。

肥田氏は俯き、


 「大川くんも大した病にされたもんだ」


西丸はまた歩き始める。

西丸が、


 「どの様なお知り合いかな?」

 「憂国の同志だ」

 「ユウコク? アナタも国粋主義者か」

 「国粋ではない。国家主義だ」

 「うん? ハハハ、同じ様なものじゃないか」


西丸は軽く笑い飛ばす。

肥田氏は憤慨して急に立ち止まり西丸の後姿を睨む。

後ろに続いた畑 が肥田氏にぶつかる。

肥田氏が、


 「うッ!」

 「あッ! ごめんなさい」

 「しっかり前を見ろ。バカ者がッ!」


肥田氏が肩越しに畑 を一瞥する。

畑 は直立不動で、


 「ハイ! すいません」


102号室のドアーを西丸がノックする。

部屋の中から元気な声が。


 「どうぞ~!」


ドアーを開ける西方。

西丸は周明氏を見て、


 「大川さん、面会人です」


周明氏は驚いて、


 「面会人?」 


西丸の背中に隠れるようにして肥田氏が立つ。

西丸が、


 「肥田と云う・・・、方が」


西丸がチラリと振り向く。

周明氏、


 「ヒダ?」


肥田氏が満面の笑みを浮かべ、少し「おどけて」西丸の肩先から顔を出す。


 「バ~」


周明氏は驚いて、


 「おおッ!? ヒダくん? 肥田くんじゃないか

 「大川くん。久しぶり。元気そうだね」


肥田氏は周明氏の身体を舐める様に見て、


 「少し肥えたかな?」


西丸は不似合いな二人の会話を聞きながら、


 「・・・知人ですか」


周明氏、


 「知人? ああ、私のかつてのトレーナーです」

 「とッ、トレーナー?」

 「そう。心身鍛錬のね」

 「シンシンタンレン?」

 「精神と肉体です」


周明氏は肥田氏を見て、


 「ここに居る事がよく分かったね」


肥田氏のイメージが徐々に変化して来る。


 「猪一郎先生に聞いたんだ」

 「猪一郎先生? そうでしたか。先生もあの裁判に連座する予定だったがだいぶ高齢だし。あれから暫くお会いしてないがお元気ですか?」


畑が廊下から西丸と肥田氏を見て、


 「中にお入りになったらいかがですか」


西丸、


 「おお、失敬。どうぞ中に」


西丸は体を退(ド)け肥田春を部屋の中に通す。

鮫島が畑 に小声で、


 「私、受付に戻ります」

 「ああ、そうですね。院長も帰って来る時間だし。お願いします」


 肥田氏は奥に入り、八畳の部屋の中央に静座する。

暫く瞑想する肥田氏・・・。

肥田氏が突然、大眼して、丹田(下腹部)で大きく深呼吸、ゆっくり息を吐く。

周明氏は肥田氏の仕草を見て、


 おお、肥田式強健術ですな。私も寝起きに励行しています」


西丸は肥田氏の腹をジッと見詰めて、


 「・・・梵(ヨーガ)の様に見えるが」


周明氏、


 「いや、これは折衷良い所どり鍛練術だ」

 「要は混ぜこぜ体操ですか?」

 「バカにするものではありません。肥田くんはこの鍛錬を長年かけて編み出したのです。モノの本にも纏(マト)め挙げて有ります。彼はこの鍛錬によって軟弱な身体を鍛え上げたのです。脳にも実に良い。肥田くんの明晰な頭脳はひとえに、この鍛錬の賜物(タマモノ)です」

 「ほう。それは良い事を聞いた。・・・あッ、そうだッ! 『朝のラジオ体操』に使ったらどうかな?」


周明氏は西丸を見て、


 「やりなさいッ! 婦女子の血(チ)の道(ミチ)にも良いらしい。ねえ、肥田くん」


肥田春が、


 「一週間で効果は出る。婦女子の便秘、月経不順、鼻づまりや目眩、耳鳴り、その他、万能即効体操じゃ。よかったら、私が明日から手解(テホド)きをしましょうか」


西丸、


 「おお、それは良い」


西丸は畑 を見て、


 「ねえ、畑さん、君も何か思い当たる症状が有るだろう」

 「えッ? いやだ~西丸先生たらあ。そりゃあ、まあ・・・」

 「大丈夫。院長も頭痛持ちだ。それがたった一週間で治ったら。ねえ、肥田先生」


単純な西丸は乗り気である。


 「そうだ、論より証拠、明日からやってもらいましょう」


畑 は驚いて、


 「えッ!? あ、いや、その件は院長の了解を得なければ」

 「院長は体操の担当ではないッ!」


畑 は非常に不満気な表情で、


 「私は知りませんからね」

 「良いッ! 君は黙って運動しておれば良い。院長には僕が後で話す。・・・ところで先生は今はどこにお住まいかな?」

 「いや、先の戦争に敗残して以来、雲水で凌(シノ)いでおる」

 「雲水? と云うと、放浪者ですか」


肥田氏は急に顔を和(ヤワラ)らげ、


 「まあ、そうとも言うな」


肥田氏は西丸の耳元にそっと、


 「実はね、浮浪者(コジキ)をやってる」


西丸は驚いて、


 「何ッ? フロウシャ! それはいかん。脳病に成るぞ」


西丸は畑 を見て、


 「畑さん、101号室が空いてるねえ」

 「隣ですか? あそこは開かずの間です」

 「僕は前から気に成って居たんだ。何故、隣は使わないんだ」

 「いや、兎に角、院長の許可を得なければ・・・」

 「院長には後で僕が話す、と言っただろう」

 「いやッ、でも~・・・」

 「体操はいつも僕が音頭を取ってるのだが、何と無く緊張感が足りない。病棟内からも気合が入っとらん! の声が響く。精神衛生上、悪い影響を及ぼしているようだ。僕も以前からこれはいかんと思っていた。とくにあの院長はヤル気がない。これは端的(タンテキ)な効果が現れないからヤル気が出ないのだと思う。反省すべき点が多々ある。朝は一日の始まりである。肥田先生が音頭を取ってくれたらこの病院も大いに活気が出る。肥田先生ッ! どうですか。帰るあてがないのなら隣の部屋に間借りでもしたら。親友同志、短い間かもしれないが大いに語り明かしたら如何(イカガ)ですか。大川さんの病気にもその方がベターだ」

 「それは、名案だ。今の私には語り合う友が一番の薬だ。どうせ私は年が明ければネックハンギング・・・」


周明氏は右手を開いて首に持って行く。

肥田氏が、


 「おッ、そうだ。忘れてた! 君に渡そうと思って、本を持って来た」

 「ホン? そう言えば君は十一年に市ヶ谷に再収監された時にも本を差し入れてくれたね」

 「ああ、碧巌録だ」

 「あれは、三回読み返した。臨済宗だね。私はインド哲学を専攻したものだから、どうしてもアレは鼻に付く」

 「ほう、嫌いか?」

 「いや、嫌いとか好きとかの問題ではない。あの百則が何と言うかねえ・・・鼻に付くんだな」

 「セッチョウジュウケンのジュコの方かな?」


畑 は目を丸くして二人を聞いている。

鮫島が部屋に入って来る。


 「西丸先生、院長が戻りました」


「参 考」 

 徳富蘇峰「ナショナリズムを背景にしたジャーナリスト(国民新聞 現東京新聞)、思想家、歴史家、評論家である。東京裁判に連座予定であったが高齢のため不起訴。有名な御仁(ヒト)である」

                          つづく

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