第5話

 たらふく食べた。

 空音さんは私の腹部を撫でる。なんというかいやらしい触り方であった。思わず顔を顰めてしまう。そういういやらしさがある。わざとやっているのか、それとも本能的にそういう手の動きをしてしまっているのか。いまいちわからない。

 様子を伺うように空音さんを見てみるが、掴みどころがない。無表情で撫でている。


 「楽しいですか。私のお腹触るの」

 「楽しいねぇ」


 という返答がくる。だったらまぁ良いかと思う。

 とても楽しそうな雰囲気ではないけれど。どちらかといえばつまらなさそう寄り。それでも本人が「楽しい」というのだからそれで良いかってなる。


 「というか、なんでお腹撫でるんです」


 ゆっくりとはいえ、一応歩きながらだ。

 なんとまぁ器用なことだろうか。


 「理由がないと触っちゃいけない?」


 質問を質問で返してくる。その鮮やかなカウンターの際も一切手は止めない。


 「ダメじゃないですけど……おかしくないですか、これ」

 「おかしくないよ」


 そうキッパリ言われてしまえば、こちらはもうなにも言えない。そうですかって軽く頷くことしかできない。


 「触る理由ねぇ……」


 じとーっとした視線を送っていたら、空音さんは微苦笑を浮かべながら口元に手を当てて、考え始めた。

 うーん、と唸る。

 私のお腹にあった方の手はいつの間にかに離れていて、代わりに空音さんの脇腹に添えられていた。前ならえの先頭みたいになっている。片手だけ。


 「お腹の子と直接繋がりたいから、かなぁ」


 照れ照れというオノマトペが周囲に出ているような。そんな感じで身体をもじもじさせて、あはーんなんて声を出す。

 端的に言ってしまえば気持ち悪い。そう思った。風情もなにもないけれど、でも本当に気持ち悪いと思ってしまったのだから仕方がない。それ以上もそれ以下も、とにかく形容のしようがない。


 「え、すごい目してんじゃん。ちょっと待ってよ。ジョークじゃん。空音流おもしろジョークだよ」


 ブイッと人差し指と中指を立てる。所謂ブイサイン。

 ジョークで流せるほど柔らかい気持ち悪さではなかった。


 「お腹いっぱいになったらお腹さすりたくなるでしょ? ほら、お腹いっぱいだーってさ」


 弁明する。必死になって自身のお腹をさすっている。いや、本当になにやっているんだこの人は。傍から見たらただのおかしい人だった。お腹をさすることに重きを置きすぎて、ごりごりぐりぐり撫でている。

 関係あると思われたくないので、一歩、また一歩と距離を置く。

 私この人とは関係ありません。この人のこと知りません。というかこの人誰ですか、みたいな空気を醸し出す。もっとも今歩いている道に人はあまりいない。一個先の大通りに出ればそれなりに人通りはあるのだろうが、ここは裏路地。タバコの吸殻とか、カラスとかはあったりいたりするけれど、人はあまりいない。だからそういう雰囲気を出したところで……って感じではある。でもまぁ意思表示は大事。


 「ごめんってー、機嫌直してよ」

 「別に不機嫌じゃないですよ」

 「えー? ほんとー?」


 信用されていないようで、うそだーという眼差しを向けられる。


 「本当です。ただ気持ち悪いなと思っただけなので」

 「うわー、悪いじゃん。やっぱりちゃんと悪いじゃん機嫌!」


 ほらほら機嫌直してよーと私の頬をむにむに揉んでくる。

 指の感触が沈むように私の心の奥底まで入り込んできた。


 「な、直りました」


 無理矢理手を引き剥がして、合わせていた目を逸らしながら、歯切れ悪く答える。


 「ほんとかよー」


 ケラケラ笑いながら、止めていた足をまた動かす。

 どんな会話をしていたか、いまいち思い出せない。それほどにつまらないというか、しょうもないというか、どうでも良いというか。とにかくそういう会話をあれよあれよと繰り広げつつ、無事帰宅した。





 帰宅。

 といっても、私の家ではない。借主は空音さんだし。そもそも私がここに移住してきて約数時間なので、ここが私の家であるという感覚は一切ない。本来ならば帰ってきたというような安心感が心を包み込むのかもしれないが、それすらもない。なんなら他人の家に上がったような気持ちになってソワソワしてしまう。落ち着かない。なにをすれば良いのか、なにかしなきゃダメだよねとか、あれこれ考える。考えるけれど、こういう時の答えを知らないので、答えに辿り着けない。なんとまぁ哀れなことだろうか、と悲しくなる。


 「お風呂入る?」


 一人で悶々と悩んでいると、空音さんは提案してきた。こういうのは家主が先に入るべきだろうと思う。


 「あとで良いですよ」

 「そう言わずにさー。どうぞどうぞ。というか、雫ちゃんは湯船に浸かる派? それともシャワーだけで済ませちゃう派?」


 私の背中をグイグイ押してきた空音さんはパタッと足を止めて、手の力も緩める。そして質問を投げてきた。


 「湯船です」


 と、答えた。正確には季節によって変化するなのだが。

 細かいことは良い。一々説明するのも大変だし、なによりも一々説明することを空音さんは求めていないはずだ。と、自分にとても都合の良い解釈をしておく。


 「ふぅん……じゃああれだね」

 「は、はぁ……。あれ、ですか」

 「うん。お風呂沸かさなきゃ」


 帰ってきて、少しゆったりしてから、この展開。そりゃお湯なんて沸かしていないわな。


 「空音さんはシャワー派でしたか」

 「気分によるよ。疲れてたらお湯に入るし、ちゃっちゃーって済ませたいなって時はシャワーだけ」

 「なるほど。それじゃあ先にどうぞ。私はお湯入りたいので」

 「勝手にシャワーの気分にしないでよ。私もお湯に入りたい気分だから」

 「……?」

 「入りたい気分になったの。そういうこともある、でしょ。お湯沸かしたら先に入って良いからね」


 そこまで言うのならば、いやいやと断るのもおかしな話。


 「わかりました。それじゃあお先に失礼します」


 ここは素直に一番風呂を頂くことにしよう。





 お湯はり完了の音が鳴る。

 実家の音とまったく同じで突然安心感が舞い降りてきた。そしてすぐに実家を懐かしんで、帰りたくなる。ホームシックってレベルじゃないけれど、帰りたいなぁと思う。


 「それじゃあ雫ちゃん、先どうぞ」

 「ありがとうございます」


 シェアハウスとはいえ、やっぱり私はどうしてもお客様という立場になる。だから私に気を遣って、一番風呂を渡してきたのだろう。

 変なことあれこれしている癖してこういうところは律儀で、空音さんってやっぱり頭のネジ一つ、二つ、三つくらい吹っ飛んでいるのかもしれない。





 洗面所で衣服を脱ぐ。

 肌色の露出面積が徐々に増加していく。

 他の人の家で裸になる。そういう経験があまりなかった。だからだろうか。妙な背徳感に襲われる。

 全裸になればその感覚はさらに強まる。

 別に悪いことをしているわけじゃない。お風呂に入るには必須な行いであり、傍から見ればなんてことのない普通のこと。そうわかってはいるものの、やっぱり小さなイタズラ、犯罪をしているような気持ちになってしまう。


 「なんか……ヤバいかも」


 お風呂場に足を踏み入れたのと同時に私はぽつりと呟いた。


 身体の汚れと汗を流す。

 そして全身を洗い、湯船に浸かる。


 春だから湯船に浸からなきゃならないほど寒いわけじゃない。でもこうやって湯船をはって入るというのは贅沢をしているような気分になるので結構好きだったりする。感覚としては冷房をつけて布団にくるまる。みたいな。そんな感じ。


 慣れない環境に身を置き、慣れない変な人の対応をした。接した。交流をした。

 そりゃ疲れる。疲労が蓄積する。

 思わず「ぐへー」という情けない声をお風呂の中で出してしまう。

 それもまた気持ち良いと思ってしまう。まるでおっさんだ。


 リラックスしていると、洗面所の方からガサゴソと音が聞こえてきた。

 ビクッとする。一瞬だけ警戒したが、空音さんがなにかしているのかって理解できたのですぐにそれは解く。

 なにをしているのかは不明だが、タオルを用意してくれているとか、気を利かせてパジャマだったり、スキンケア品だったりを用意してくれているのかもしれない。

 一応年上なお姉さんなだけある。

 ありがとうと心の中で感謝した。直接伝えるのはお風呂から出てから。慌てるようなことではないし。というか、この状態でありがとうって感謝を伝えるのもどうかと思う。気持ちが伝わるとは思えない。と、後回しにしたことをあれやこれやと正当化した。


 無理矢理正当化して、落とし込み、納得して、ぐーっと背を伸ばす。

 別にそういうわけじゃないけれど、なんか一仕事終えたような、そんな感覚に陥った。


 と、同時だった。


 ガラッと扉が開く。

 伸ばしていた腕を慌てて下げた。思いっきり腕を振りさげたので腕をぶつけてしまった。ガンッと痛々しい音が響くが、やっちゃったとか、痛いとか、そういう感情をぜんぶ無視して、とりあえず胸元を隠す。それからギロッと扉を睨む。

 そこに立っていた空音さんは一糸まとわぬ姿。生まれたままの姿だった。


 「雫ちゃん一緒にお風呂入ろー」


 耳も腕も痛かった。

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