土蜘蛛 (1)

本来、言問ことといの朝は早い。

今世こんせいのこの都の貴族たちはみな朝の出仕しゅっしは早いが、下っ端貴族の末席として陰陽寮に所属する言問は、余計に早く御所へ行かねばならなかった。

まじないを使い、己そっくりの形代を送り込んで用を済ませる時もあるが、やはりとっさの挙動は形代だと不備がある。


「……それにうっかり火元に近づいて燃え出したら事であろう。祟りで焼け死んだ扱いをされて俺のせっかくの身分が消し飛んでしまう」


しとねで散々にむつんだ後、月が天頂をまたぐ前に、そう言い訳して早々に着替えて出ていこうとする言問の袖を引いて、まだ裸身はだかみの潤んだ目で鳴神なるかみが引き止める。


「いやだ、せっかく堂々と主と睦める時間をもぎ取ったのだ。お前もよく俺に言うではないか、大事な女との睦言むつごとには後朝きぬぎぬの別れより、朝餉あさげを共にする余裕が必要だと。……あるじにとって俺は大事ではないのか……?」


今世で誰より大切にしている愛しい者に、そこまで言われて身を離せるほど言問は朴念仁ぼくねんじんでも冷淡な性質でもなかった。

ぐう、と喉で唸って、改めて衣から形代をむしって衣桁いこうほうると、形代へ呪と息を吹き込む。すると、いつもの浅縹あさはなだ衣冠いかんを身につけた、昼間の言問とそっくり同じ姿の形代が急ぎ足で廊下へと去っていった。


「……鳴神、お前……その手管てくだどこで手に入れた? ……いや、いい、お前の場合は天然であろう。愛しい妹背いもせにそこまで言われて離れられるおのこがいるものか。今日は俺の負けだ」


ほとんどやけになったように、己の体の上へ身を伏せる主に、鳴神は甘く息をついた。

根が真面目な言問はそこまでこんを詰めなくともいい細部までこだわろうとする時がある。

鳴神からすれば、己と睦んでいる時くらいは言問にはゆっくり体を休めて朝寝をしてほしいし、そういう時のための形代であろうとも思う。

もう一度、主の熱く固い痩躯そうくを両のかいなに抱きしめて、鳴神は今度こそうっとりと笑った。






鳴神念願の後朝きぬぎぬより良いという朝餉は、ほとんど昼過ぎにかかった頃合いにゆるりと出された。

膳を前にしても、どことなく主の機嫌が悪いのは、久々に布団の中の言い合いで鳴神に負けたからだろう。常よりも箸の進みが遅い。


「主よ、疲れは取れたか?」


そう鳴神が声をかけると、言問は強飯こわいいを口に含んだまま、目を見張ってキョトンとした顔をした。そういう表情をすると、鳴神の主は案外幼い顔になる。


「もしや、俺をゆっくり休ませるためでもあったのか……。本当にお前には敵わぬな……」


苦く笑って、言問はああ、と頷く。


「ひさびさにゆるりとお前を抱けたしな。心のままお前と睦めるのはいつだって至福ではある。 お前は? 大江の件での疲労などは出ていないか?」


「俺としては、あの件はむしろ暴れ足りないくらいだぞ。主はあの凄腕の男とは遊ばせてくれなんだ。頑張って幾山いくやまも越えて辿り着いたというに……。責任を取って、遊び相手を出すか、俺ともう少し睦むかしてくれていい所だ」


食事を続ける言問の顔をすねた顔でにらむと、鳴神は大きな一口でもって気持ち良く朝餉を平らげていく。

鳴神の好みが汲まれた朝餉は上品な味付けで、少なすぎず多すぎず、ちょうどいい。

言問の趣味は典雅てんがなものが多いが、食事に関してもこのような品のいい味付けが多かった。

間食かんじきも、きちんと鳴神の好物の揚げ菓子や果物などを用意してあって、ついつい御所でも腹が減ると言問の姿を探してしまう。

御所内では会ってはならぬ、と言われているから普段は我慢しているものの、腹が減るとどうにも我慢できなくなるのだ。

人目につかぬところでこっそり強請ねだるたびに、「俺はいつもお前用の菓子を持っているわけではないぞ」と諭されるが、そのたびに帖紙たとうがみに包んだ何かしらを渡すのだから、やはり毎回用意はしてくれているのだろう。


「わかった、わかった、すまなんだ。 だがな、お前と命のやり取りをする相手ほど、一番うるわしいお前の姿が見られるのだぞ。俺が妬心としんを抱いて邪魔するのも道理と思わぬか?」


鳴神よりは少ない量を品よく食べ切った言問はそうぼやくと膳を避け、鳴神の傍へいざり寄った。そのまま鳴神の剣ダコのある大きく固い手を優美な男の手で包み、大事そうに撫でる。手の甲に口づけて、普段は昼日中に見ることのない、闇に食われた日輪の目で、強く鳴神の蒼天の目を見上げた。


「俺はお前の好いている御大将でさえ、腹の中では殺してやりたいと思ったことがある。あやつだけではない、お前が無邪気に笑みを向ける全てにだ。……ただ、俺とは違い、お前は昼日中の陽光が似合うゆえ、屋敷に押し込めたりはせぬが……どうだ、俺の事が嫌いになったか?」


返事をする前に主の体を腕に包んで、鳴神はそのまま床に転がった。

邪魔な膳は鳴神が蹴り飛ばすまでもなく、形代らが運んで行き、その場には鳴神とその腕にくるまれた言問の二人だけになる。


とろりととろけた幸せそうな顔で、腕の中の言問を見つめた鳴神は、主の手を取って、己に刻ませた妹背の契りの呪のある腹へと押し当てる。


「俺はこれを貰うだけでも幸せだったが、主は俺のことをまこといと思ってくれていたのだな。嬉しい……嬉しくて腹の底が溶けそうだ」


「お前はいつだって愛い奴よ。拾った最初からそうだった……契った今ではなおさらに」


そのまま始まった睦み合いは今度は月が天頂を回っても終わることはなかった。

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