海と「しあわせ」と、君の街
二人は湿地の森を縦列で歩いた。クリプトンの後ろをアルゴンが付いてくる。
「なあ、横並びじゃダメなん?」
「お前がいつ奇妙な動きをするか分からないから」
「えー、平等でいたいじゃん」
「いいから歩け」
クリプトンも、いつアルゴンに闇討ちされるか気が気でない。
「二度と関わるなとか言っておいて、何で一緒にいんの?」
懲りずに質問を繰り返す。
「僕に武器がないからだ。今、敵に遭遇すると面倒臭い。お前を盾にして逃げる」
お前の武器を使えなくしたのは俺の仲間なんだけど、という言葉は出さずに、鼻にかかってきた匂いに集中する。
「何か、塩の匂いがするな」
「海が近いんだろ」
「海? オアシスのでっかい版みたいなやつ?」
プッイの街には海がない。よって名前だけは知っている。一応、概念も。
「お前、海も知らないの。無知無教養はこれだから」
「教えてくれよ」
振り向いてアルゴンを見る。アルゴンは、一瞬合った目を逸らす。
「この先にあるんだから、お前の目で見ればいいだろ!」
不思議なのだが、憎まれ口しか叩かない彼の横顔をクリプトンは見ていたいと思った。
「じゃあ一緒に見よう!」
眉をひそめたアルゴンの顔を見て見ぬふりをし、クリプトンは彼の手を引く。その身体があまりに軽く、小走りになる。
匂いを辿り森を抜ける。するとそこには……
暗く、見渡し切れない大きな水溜りがあった。
しかし、泥とは違って音がする。風を追いかけてくるような、大地を引きずるような、壮大な音がしている。生命の誕生を押し出すような、冥界に引っ張り込むような、聞いたことのない音。クリプトンは、自然の前に息を忘れた。空では星たちが手を叩いて歓迎している。
「これが海? すげー……」
初めて見る海はクリプトンを迎え入れた。波が織りなすゆったりとした笑い声は、しみじみとクリプトンの心を染めていく。人間のしている争い事が小さく、無力に思えてくる。隣にいる敵のはずのアルゴンを抱きしめたいと思った。今頃、ぶつくさ言いながら戦闘機を修理しているだろうハイドロを連れてくればよかったと思った。
「面白いことなんて何もないよ。ただの海」
アルゴンが無表情な声を発する。
「アルゴンは海を見たことがあるのか?」
「……コイオリードの一角に、あるから」
クリプトンの輝く目に、アルゴンはやや押される。
「そうか! いいな! プッイは自然なんてほとんどねえんだよ。まあ、ずっと夜だし。しょうがねえんだけど」
自然のある街に住んでみたいと、クリプトンは言った。その言葉にアルゴンは口をつぐむ。
「俺、夢があるんだ。プッイだけじゃなくて、世界中を平和にして、皆が助け合って暮らせる未来を創りたい。受動的な平和じゃなくて、一人一人が考える平和を」
机上の空論だと、アルゴンは鼻で笑う。
「そしたら、俺もハイドロも、もちろんアルゴンも、自然の中で楽しく暮らすんだ」
絵に描いたような理想に、アルゴンは馬鹿馬鹿しいも通り越して興味すら持てない。
「どうすれば、そんな絵空事が完成するんだよ。僕もお前と同じ街で生まれていたら、そんな夢想家になったのか?」
皮肉で攻撃するが、クリプトンはどうしても癪が落ち着いている。
「同じ街で生まれていたらよかったのにな!」
クリプトンはアルゴンにそのままの気持ちを伝える。
敵の前でこれほど屈託ない笑顔を見せる者を、アルゴンは初めて見た。笑顔を見る前に敵は殺してきたのだから。また、味方だってこんな純粋な笑顔など見せない。弱さを思わせる、笑顔など。
「プッイは悪くない。高いけど、酒も教育もある。でも、コイオリードでなら、俺も海での暮らしができたかもー」
自然の隣で暮らす日常。もちろん不便や危険はあるだろうが、クリプトンにはこれ以上ない魅力に思える。
「それならお前も、コイオリードに生まれなきゃいけないだろ」
アルゴンは言葉を投げ捨てるように言った。
「コイオリードの制度は許せねえけど、立地は悪くないんじゃね?」
「駄目だ!」
思わず声を荒げてしまったアルゴンは、それが何故だか自分にも分からない。間が悪くなってしまい、そそくさと座り込み、背を丸めた。
「お前みたいな弱い奴、コイオリードでは生きていけない」
縮んだ声に、悪意は感じない。膝を抱えたその姿がとても小さく見える。幼い子供。
「俺が、弱い子供でも生きていける場所にするよ」
静かにアルゴンの隣に座る。足を崩し、肩の力を抜くと、だいぶ前に負った傷が痛みを緩めた。
「だから、アルゴンと仲間になりたい」
同じ目線でアルゴンに伝える。彼はちらっとクリプトンを見て、それから海を見た。たっぷりと一ジフィ置く。
「僕は……海の見える丘で生まれた。それから、すぐ奴隷になった」
アルゴンが口を開く。
「その海から出る船で運ばれて、海を横目に毎日、暴力を受ける。上手く働けないと、絶食と暴力の夜。大人の欲が満たされてないなら、こちらが何をしなくても汚い手が伸びてくる」
今まで生きてきて、笑った覚えも、泣いた覚えもない。
言葉を続ける彼の目は、海に置かれたままだ。
「海に飛び込んでしまえば楽になると、考えられる脳もないから、とにかく耐えた。自分で自分を殺せるなんて誰も教えてくれなかった……だから僕、海は嫌い」
同じ海であるのに思想はこれほど変わるものなのか。クリプトンは衝撃の雷を受けた。自分がいかに狭い箱庭で生きていたか、教えられた気分だ。
「アルゴン」
「な! なんだよっ」
アルゴンの腕を掴む。アルゴンは話に夢中で反射が遅れた。
「お前は幸せになるべきだ! 俺たちと幸せになろう、アルゴン」
クリプトンからの言葉を、アルゴンは不思議そうに見つめる。
「しあわせ?」
「うん。幸せ」
果てには、アルゴンの首が傾げられた。
「『しあわせ』って何? 地位?」
「え……?」
クリプトンは耳を疑う。正確には、言葉を疑う。目の前のアルゴンはふざけているのではない。純粋に「幸せ」の意味を尋ねている。まるで、ハイドロの使う専門用語が分からず聞き返していたクリプトンのように。
自分が持っていた「幸せ」の意味が散らばった。
「どうせ、さっきの僕みたいに、教養のないやつだと思ってるんだろ? 悪かったな。不良品で」
彼はとんでもなく場違いな卑下を述べている。
違う、違うと心が悲鳴を上げる。クリプトンは絶望したのだ。絶句したのだ。統制された人生の中で、自分が描くための「夢の余白」さえ貰えないアルゴンに。それを片端さえも与えないコイオリードという残酷機関に。
次の瞬間に驚いたのはアルゴンだった。
「何してっ、離せよ!」
クリプトンはアルゴンを抱きしめていた。
アルゴンの足から、腕から、打撃が落とされる。激しく痛いが、アルゴンの受けてきた仕打ちに比べれば、比べようがないとクリプトンは考えた。
「離して……頼む……」
クリプトンの知りえない過去を思い出したのか、アルゴンの身体は小刻みに震え出す。
「お願い、します……」
声が小さくなっていく。
「ごめ、違うんだ! 本当にごめん! 嫌だったよな!?」
クリプトンはパッと手を離し、合わせていた身体から距離を取る。
他人と密着することは、アルゴンにとって“そのような行為”をすることを意味する。そこに自分の意思はないも同然。そんな、無機質なレールを否応なく歩んできた。歩まされてきた。
「悪かった。アルゴンを震えさせるつもりじゃなかったんだ」
「震えてない!」
急いで首をぶんぶんと振るアルゴン。
「プッイでは、抱きしめる行為は愛する行為なんだ。本当に……だから怖がらせようとしたわけじゃ……」
アルゴンの目は暗闇を取り戻してしまった。元々だったかも、しれないが。
「もういい。僕は行く。留まり過ぎた」
立ち上がったアルゴンはその場から離れていく。何か言わなければ。クリプトンは虚空に手を伸ばす。
「また! 会おう!」
振り返りもせずアルゴンは歩いていく。
「アルゴン!」
「それからな!」
突然、小さな頭が振り返った。
「僕の名前はアルゴンじゃない!」
「分かった! でも、アルゴンって呼んでいい!?」
「好きにしろ!」
すると、素早い足は走り出した。すぐに見えなくなる。
左側が寒く感じる。振り払うようにクリプトンも立ち上がった。
「戻るか」
ハイドロに殴られる未来を見据え、クリプトンは道を戻った。
案の定、どす黒い空気を背中から発しながら、ハイドロは戦闘機の修理に勤しんでいた。辺りには痛そうな金切り声や、煌めく色が散乱している。ひしゃげた戦闘機の頭が恨めしそうにこちらを見ていた。
「ナフサの生成……炭素数が……ああ、温度か」
ブツブツ落ちる単語から黒い靄が見える。
「あの、ただいま……」
恐る恐る声を掛ける。鉄拳が飛んでくるのは覚悟した。
「もう帰ってきたのか。交渉は上手くいった?」
しかし、飛んできたのは意外にも冷静な声だった。
「あ、いや」
「だろうな。難しいのは承知だった」
ハイドロは首から上だけこちらに向けた。
「まあその分、クリプトンがフィールドを走り回ればいいだけで?」
引き上げられた右口角に、夜はまだ長いと悟ったクリプトンだった。
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