第36話 一度くらい、抱きしめてほしかっタ
それからは覚えていない。
気が付けば、見世物小屋にやってきて自分を笑っていた客たちはいなくなっていた。
すでに、両親の姿もない。
見世物小屋が終業するまで、ずっと呆然自失だった。
この苛烈な環境で生きる心の柱を、めしゃりとへし折られた。
時間が過ぎるのも分からないほど衝撃を受けるのは、当然かもしれない。
「いやいや、今日も稼げた稼げた。とくに、忌み子目的で来る客の多いことよ。いい買い物をしたなあ」
そう言ってヘラヘラと笑いイズンの近くにやってきたのは、見世物小屋の主人だった。
客がいないかの確認などをしているのである。
「おい、まだここにいるのか? さっさと戻って飯でも食ってろ」
彼はイズンを見つけると、心底面倒くさそうに顔を歪める。
見世物にされる場所と彼らの寝泊まりする場所は別である。
どちらにせよ過酷な環境だが、イズンがいるのはガラス張りの隠れる場所のない見世物場所だった。
何の反応も見せないイズンに鼻を鳴らす男だったが、ふと気まぐれにある話題を出すことにした。
「そういえば、お前は見たか? あの貴族共」
「……ッ」
ピクリとイズンの肩が跳ねる。
しかし、男はそれに気づかない。
イズンに話しかけてはいるが、反応を期待していたわけではなく、ただ自分の思ったことを喋りたかっただけだからだ。
「世も末だな。貴族がこんなところにきて、誰かを見下して笑っているんだからよ。あいつら、随分とお前を気に入ったみたいで、長く見ていたな」
ヘラヘラと客を見下し笑う男。
彼からすれば、イズンのような見世物も貴族の客も、すべからく自分を富ませるための道具でしかない。
「それにしても、気持ち悪いだの、悍ましいだの、好き勝手言っていたがな。ははははっ!」
ケラケラと楽しそうに笑う。
それを聞いたイズンは、顔を伏せたままゆっくりと立ち上がる。
「……もウ」
「あん?」
ポツリと小さく呟かれた言葉を、男が聞き取ることはなかった。
だが、その異様な雰囲気は、彼にも伝わっていた。
「もう、ここにいる理由もないネ。どいつもこいつモ……」
「お、おい?」
怪訝そうに眉を上げていた男の顔は、恐怖に歪んだ。
イズンの真っ赤な瞳が、さらに煌々と輝いていた。
「全部、死んじゃエ」
呪いが吹き荒れる。
栄華を誇った見世物小屋は、一夜にして滅んだ。
◆
見世物小屋から逃げ出したイズン。
では、自由になれるのかと言われれば、それは正しくない。
自由と言えばそうなのだろう。
彼女を縛るものは何もなく、閉じ込められることもない。
行きたいところに行くこともできる。
以前までだったら、両親のもとに駆け寄っていたに違いない。
だが、自分に対する彼らの思っていたことが分かってしまった以上、もはや彼らの下に向かうという選択肢はない。
その気力もない。
では、自由に一人で生きていく?
普通の人間だったら、それも可能だっただろう。
だが、イズンは忌み子だ。
この世のすべての人間から忌避される。
両親もそうだった。
彼女を受け入れてくれる人はいないのだ。
隠し通せる秘密であれば、うまく生きることもできたかもしれない。
しかし、忌み子の見た目は、あまりにも目立ちすぎる。
普通に生活することは、人の目がある以上許されなかった。
近くにいれば、呪いをかけられるかもしれない。
忌み子を遠ざけるだけならまだしも、殺そうとする人間だっているだろう。
それゆえに、イズンは路地裏で生活していた。
いや、生活なんて大層な物言いができるものではない。
落ちていたぼろ布を頭からかぶり、決して白髪や肌を露出しないようにする。
そして、目を付けられないように、息をひそめて小さくうずくまるのだ。
食事はゴミからあさるしかない。
小さく生きていても、それでも目をつけられることはある。
路地裏で生活するような貧民は、イズンだけではない。
そして、彼らもまた生きることに必死だ。
他人を殺し、奪うことだって平然とする。
イズンがその対象になったこともある。
「ひっ!? い、忌み子だ!」
「逃げろ! 呪われるぞ!」
一通り痛めつけられてから、ぼろ布をはぎ取られ……イズンの容姿を見て、彼らは悲鳴を上げて逃げ出す。
その繰り返しだ。
だから、大きなけがをすることはなく、身体を汚されるようなことはない。
しかし、その言葉が、見世物小屋にいた時と同様、イズンの心を傷つけるのであった。
「……雨」
ポツポツと水滴が落ちてくる。
雨は路上生活をするイズンにとって、非常に厄介なものだ。
水滴をしのげる建物なんてないし、もちろん雨宿りをさせてくれる場所があるはずもない。
水に濡れれば身体は冷えるし、まともな食事もとれておらず体力のないイズンは、重病にかかっても不思議ではない。
「このまま、死ぬことができるのなラ……」
それでも、いいかもしれない。
生きる意味がない。
今までは両親のためにという支柱があった。
それもなくなれば、生きているだけでただ嫌悪される自分が、こんなつらい想いをして生きる理由はないだろう。
それならば、死んで楽になった方がいい。
普段なら雨に濡れないように行動するのだが、イズンは動かずにただうつむいていた。
雨に打たれ、どんどんと体温が下がっていくのを感じる。
このままいけば、身体を壊して死ぬことができるだろう。
誰も自分を助けてくれない。
路地裏で生活していて……いや、それだけなら徒党を組んだりして助け合っている者はいる。
忌み子。そう、忌み子だ。
忌み子である自分を助けてくれる人なんて、存在しない。
それこそ、神であっても、だ。
「あア……」
死ぬことに、もはや恐怖はない。
しかし、心残りがあるとすれば……。
「一度くらい、抱きしめてほしかっタ」
誰もが一度はしてもらえるであろう抱擁への羨望を口にしながら、イズンは目を閉じた。
雨ではない水滴が目元から流れ、彼女は誰にも愛されることなく、看取られることなく死んでいく……はずだった。
「……?」
感じたのは、自分の身体に打ち付ける雨の感覚がなくなったことである。
雨が止んだ?
いや、ザーザーと耳障りな雨音は鳴り響いている。
自分の周りだけ、雨が降っていないのだ。
彼女は何が起きているのかと目を開けて確認し……。
「……大丈夫か?」
傘を差しだしている男を見るのであった。
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