第11話 楽しかっただろう?
「おや、アシュヴィンか。まさか、君がここに来るとはね。もうちょっと時間がかかると思っていたんだけど……君があんな分かりやすい態度をとるからだよ。まったく……僕は君たちを助けてあげているっていうのに、ひどいよね」
その光景を見られても、マルセルは慌てふためく様子も見せず、いつも通りの感じで話しかけてきた。
その普段どおりが、この状況とまったく合っておらず、一種の気持ち悪さを醸し出させていた。
「これは、何ですか!?」
弟が、血だらけになって倒れている。
身体には、いくつも剣が突き立てられている。
深くは刺さっていないだろう。
だが、それでも刃物が突き立てられているのは、明らかに重傷だ。
どう考えても普通のことではない。
アシュヴィンはマルセルを怒鳴りつけるが……。
「うわっ! 急に大声を出さないでよ、びっくりするなあ。君もこういう風になりたいのかい?」
「…………っ!」
ビクッと震え、声が出なくなるアシュヴィン。
今の弟を見ていると、かつての自分を思い出す。
殺される寸前まで痛めつけられた、かつての自分を。
あの時は、あのまま死んでもいいと思っていた。
死に対する恐怖も薄かった。
だが、こうして普通の幸せを享受し、それを味わってしまった今、死というものは恐ろしいものだと認識を改めていた。
「なりたくないよねぇ? だって、僕が初めて君を見つけた時みたいに戻りたくないもんね? あんなボコボコにされて、顔もはれ上がって……醜い姿になりたくないよね」
その恐怖をさらに増幅させるように、マルセルはささやく。
アシュヴィンの身体の震えが、さらに強くなる。
「僕と彼は賭けをしていたんだよ。僕が君を虐待する。君はそれに耐え続ける。その我慢が続く限り、僕は君たち二人を養ってあげるってね」
「……っ!?」
今度の震えは、おそれではなく驚愕が原因だ。
思わず弟を凝視する。
だとしたら、あの暗い表情は。
マルセルを見た時のこわばった顔は。
……それを見て、彼を怒鳴りつけてしまった自分は!
「どうして、こんなことを……」
「僕の趣味かな。誰かが僕の行為で反応してくれるのが、嬉しいんだ。それは、強い反応だともっと嬉しくなる。で、強い反応って、苦痛を味わっているときの方が多く出るだろう? だからさ」
マルセルを見て、自分に暴力をふるっていた男があっさりと言うことを聞いた理由が分かった。
最初は、領主の息子だからと思っていた。
それもあるだろうが、実のところは違う。
恐ろしかったのだ。
マルセルという人間が、怖かったのだろう。
この歪な、人間として破綻している性格が、まだ大人になっていないにもかかわらず、大人を畏怖させるのだ。
「普通の人間は、そういった苦痛があると逃げ出すものだ。だから、僕はそういう人の大切な人を盾に取ることにした。そうすると、自分を犠牲にしてでも大切な人を助けようとする。逃げ出そうとしなくなるんだ。まさしく、今の彼のようにね。彼はアシュヴィンに今の楽しく甘い生活が続くことを祈って、こんなにもなるまで逃げだすどころか弱音も吐かない。素晴らしいよ! まあ、最後に少しおもらししそうになったのはよくないけどね。だから、お仕置きしているんだけども」
種明かしをすることができたというのも、一つの快感になるのだろう。
マルセルは上機嫌にアシュヴィンに伝える。
彼女の知らないところで行われていた、悍ましい取引の内容を。
「そ、んな……わたくしは、そのことを知らないで、あんなことを……!」
自分を守るために、自分にばれないように、必死に耐え忍んでいた弟。
そんな彼に、自分は何を言った?
その罪悪感に、アシュヴィンは押しつぶされそうになる。
弟には、彼女を責め立てることができる権利はある。
だが、彼はそうしなかった。
ただ、アシュヴィンに笑みを向けた。
倒れ、血にまみれながらも、慈愛のこもった笑顔を。
「うんうん、よくないよね。まあ、今日で終わりだから、気にする必要はないよ」
「え……?」
それを断ち切ったのは、やはりマルセルだった。
剣を握るのは、このように無防備な相手を痛めつけるときだけだ。
だから、へたくそな剣の振り上げ方で、そしてへたくそな振り降ろし方で……アシュヴィンの弟の首をはねた。
「バレちゃったから、これで終わり。そこそこ楽しかったよ。バイバイ」
「――――――」
パッと部屋中に血が飛び散る。
アシュヴィンは、何も考えられなかった。
頭が真っ白に染まり、何も……。
「さて、君はどうしようかな。彼に免じて、少し猶予を上げよう。その間に、誰か大切な人を作ってよ。今度は君を痛めつけてもいいんだけど、その顔は面白いから、もう一度大切な人をいたぶってあげるよ!」
マルセルがペラペラと訳の分からないことを話しているが、それすらも頭に入らない。
だが、肩にポンと手を置かれ、最後に呟かれた言葉だけは、彼女の胸に突き刺さって消えることはなかった。
「僕を楽しませてくれたら、ずっとここで甘えて生きてもいいからさ。楽だっただろう? 楽しかっただろう? 全部弟に押し付けて、何も知らないで生きているのは」
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