第10話 目玉腐っているの?

 


 アシュヴィンを救ってくれたのは、領主の息子であるマルセル・アポフィスだった。

 柔和な笑みを浮かべている彼は、まだ子供ながらも発言力は強く、彼が少し声をかけるだけで、アシュヴィンを殺すつもりで暴力をふるっていた男を引き下がらせた。


 それからは、彼女にとって驚くべきことの連続だった。

 マルセルは、その後彼女を弟も含めて領主の屋敷に引き込んだのである。


 どこの子供とも知れず、しかも異民族である。

 本来であれば、領主も決して自分の屋敷に招き入れることはないだろう。


 それでも、マルセルが少し頼み込めば、驚くほどあっさりと屋敷での滞留を認められた。

 それからは、まさに夢のような時間だった。


 柔らかいベッドで眠ることができる。

 命の危険を感じる必要もない。


 毎日おいしいご飯を三食食べられる。

 その当たり前のことが、これほど幸せなことだったのか。


 アシュヴィンは改めて幸福をかみしめ、そしてマルセルに対する感謝の想いを強烈なものとした。

 まさに、彼は地獄から救い上げてくれた救世主なのである。


「ここで、わたくしは頑張らなくてもいいのですわ……」


 生きるために頑張った。

 弟を守るために頑張った。


 文字通り、血反吐を吐いて泥にまみれながら、彼女は頑張り続けた。

 でも、もう頑張らなくてもいいのだ。


 頑張らなくても生きていける。

 誰かが弟を……自分を守ってくれる。


 その甘い何かに、アシュヴィンは浸っていた。

 這い上がるつもりなんて毛頭ない。


 もう、そういうのは疲れたのだ。


「ああ、大丈夫だよ。僕が君を守ってあげる。僕は領主の息子だからね。この領内で、僕は王そのものなんだ。もう君に危害を加えようとする者はいないよ。僕の下にいるのならね」


 ほら、自分を救い上げてくれたマルセルもそう言っている。

 彼のことを信じていればいいのだ。


 そうすれば、もう頑張って生きなくてもいい。

 重荷を背負う必要なんてないんだ。


「だけど、僕の下にいるなら気を付けて。これは、忠告と警告だ」


 耳元の口を寄せて、マルセルがささやく。


「僕の兄……バロール・アポフィスには気を付けて」


 目を丸くするアシュヴィン。

 マルセルが兄と呼ぶことは、バロールという男もまた領主の息子。


 そして、基本的に家督順位は年上から選ばれていくので、マルセルではなくバロールの方が領主となる可能性が高いことになる。

 そんな男を……実の兄を、マルセルは気をつけろと警告した。


「バロール・アポフィス……」

「そう。兄……いや、あいつは……」


 その時のマルセルの顔を、アシュヴィンは生涯忘れることはなかった。

 それは、もっとも悍ましさを感じる……恩を感じ、彼を無条件に信頼していたアシュヴィンをして、恐ろしいと感じる笑顔だった。


「呪われた化け物なんだ」










 ◆



 呪われた化け物。

 自身の兄をそう例えるマルセル。


 アシュヴィンには、そもそもそれを理解することはできない。

 内心で重荷に感じていた弟もいるが、彼を化物と思うことは生涯ないだろう。


 自分を救い上げてくれた優しいマルセルに、そこまで言わせるバロール・アポフィスとは、いったい……。

 だが、その警告を、どうしてマルセルは嗜虐的な笑みを浮かべながら言っていたのだろうか?


 分からない……分からないことが多すぎる。

 アシュヴィンはそう思いながら、弟と共に廊下を歩いていて……前から来る存在に、身体を強張らせた。


 それは、マルセルから警告を受けていた、バロールだった。


「うん? 君は……マルセルが連れてきた子かな?」

「……行きますわよ」


 人懐こい優しい笑みを浮かべながら、バロールは話しかけてくる。

 しかし、アシュヴィンは答えることなく、弟の手を引っ張ってすれ違った。


 これは、明らかに不敬だ。

 領主の息子にこのような態度をとれば、この屋敷から追放されたって不思議ではない。


 そもそも、初対面でこのような対応をする方がおかしい。

 それは分かっていても、マルセルからの警告が頭にある以上、アシュヴィンはこのような対応を取らざるを得なかった。


 それに、彼女の背後には、守らなければならない弟もいたのだ。

 なら、仕方ないだろう。


 大丈夫。

 もし追放されそうになっても、マルセルが助けてくれる。


 そう思って、アシュヴィンは歩みを止めることはなかった。


「は? この俺に声をかけられて、そそくさと逃げるとかどういうことなの? 目玉腐っているの?」

「動物の本能的な危機察知能力でしょう。優秀ですね」

「お前さあ……」


 背後から聞こえてくる会話を、アシュヴィンが聞き取ることはなかった。

 化け物と称されるバロールから逃げ出した彼女は、弟の顔を覗き見る。


 彼は、明らかに愛想笑いを浮かべ、アシュヴィンを見つめていた。

 ……そういえば、彼はこんな表情を浮かべるような人間だったか?


 いつも弱弱しく、自分に頼ることしかできず、甘えてばかりだった弟。

 彼は、どうしてそんな愛想笑いを……そんな目を向けてくるのだ?


 まるで、自分に言いたいことがあっても言えないような……。


「どうしてあなたはそんな暗い顔をしていますの?」


 アシュヴィンが問いかけても、苦笑いする弟。

 そんな彼に、少なからず腹立たしさを覚える。


 自分に頼らなければ何もできないくせに、自分に隠し事をするのか?

 そんなの、許せるはずがない。


 アシュヴィンはさらに激しく問いただそうとして……。


「おや、どうかしたかい?」


 マルセルがやってきた。

 顔を強張らせる弟を見て、アシュヴィンはついに我慢できなくなる。


「マルセル様は、わたくしたちを救ってくださいましたわ。今だって、こうして普通の生活を送ることができているのは、あの人のおかげなのに。不敬ですわよ!」


 自分に隠し事をするだけでなく、恩人に対してまで失礼な態度。

 アシュヴィンは我慢できなかった。


 しかし、当のマルセルは、穏やかな笑みを浮かべている。


「いいんだ、アシュヴィン。僕と彼が、まだそれほど仲良くなれていないというだけだよ。ねえ?」


 そういうと、マルセルは弟の肩に手をのせた。


「少し、僕と話をしようか」










 ◆



 それは、弟がなかなか自分たちの部屋に戻ってこなかったから、心配して探しに行ったから。

 だから、彼女は真実を突きつけられることになった。


 最後に、弟と顔を合わせていたのは、マルセルに連れて行かれる前だった。

 彼なら、弟がどこに行ったのか知っているかもしれない。


 そんな気持ちでマルセルの部屋を訪ねて、彼女の目に飛び込んできたのは……。


「なん、ですの、これは……?」


 今まで見たことがないほど、嗜虐的で邪悪な笑みを浮かべたマルセル。

 そして、血にまみれ、ボロボロで倒れ伏す弟の姿だった。



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