第八話 だから、関わるのをやめろと?


 ばしん、と乾いた音が強く鳴った。


「——! ————、——!」


 目の前の女性が、俺のワイシャツの襟を掴んでいる。

 涙を流しながら、憎しみと怒りに支配された鬼気迫る顔で、俺に何かを叫んでいた。


 耳がまだ治っていなかったから、何を言っているのかは聞こえない。


 きっと。

 どうして助けてくれなかったのか、とか。

 お前のせいだ、とか。

 お前が代わりに死ねばよかったんだ、とか。


 その辺りのことを言っているだろう。

 女性の表情と、過去の経験、そして口の動きを見れば、察することはそう難しくなかった。


 俺はただ、何も言わずに、空を見つめ続けていた。

 彼女の矛先は異形ではなく俺に向けられていて、俺はそれを受け入れていた。


 少しして、女性はふらふらと俺から離れて、膝を折って泣き崩れる。

 公安の男がこちらに歩いてくるのが見えた。

 以前、助手席に座っていた男だ。


 公安の男が、目の前に来る。

 大柄な体躯が、俺を見下ろす。

 握り締められた拳が、女性に叩かれた側と逆の頬に放たれた。

 俺は、避けなかった。


「っ」


 本気で殴ったのだろう。

 鍛え上げられた人間の拳は、俺をたやすく吹き飛ばす。

 無抵抗のまま転がる。

 左腕の断面が地面と擦れて激痛が走った。

 頬が熱い。確実に腫れたなこれは。


 それら全てを無表情に押し込めて立ち上がる。

 公安の男が短く何かを言った。


「今は耳が聞こえないんで、文字で頼みます」


 男は僅かに目を開いた。

 観察するような視線が全身に回って、途中で無くなっている左腕に一瞬だけ止まった。


 女性が弾かれたように顔を上げたのが男の後ろで見える。

 そこでようやく女性も、俺の怪我に気がついた様子だった。


 男はスマホを取り出して、素早く打ち込んだメモを見せてくる。


『お前は子供を一人死なせた。申し開きはあるか』


「ありません」


 そうだな。

 俺はまた、誰かを救えなかった。

 それは確かに、死なせたようなものだった。


『後で如月瑠美に報告しろ。それでお前ら化け物の仕事は終わりだ』


「分かってます」


『だったら早く乗れ。お前らの事務所に向かう』


 男は返事も聞かずに、俺に背を向けてさっさと歩いていく。

 ある程度の距離を空けて背中を追う。

 去り際に、女性に一言だけ告げた。


「……一生恨んでくれて構いません」


「…………ッ!」


 悲しみ続けるよりは、その方がマシだろうから。

 女性は激しく首を横に振る。

 そこには明確な拒絶があった。


 ……もう、俺から言えることはない。

 最後に大きく頭を下げて、俺は公安の男を追いかけた。


 公園を出て少し歩いた場所に止めてある車に乗る。

 運転席の男も、以前と同じ眼鏡をかけた神経質そうな男だった。

 彼は俺の様子を見て、ほんの一瞬だけ瞳を震わせた。露骨な動揺が同時に表情に浮かんで、すぐに無表情に固められた。


 俺が後部座席に背中を預けると同時に、車は発進する。

 今はもう放課後なのか、帰る生徒がちらほらいた。

 俺はそれを、スモークガラス越しに眺める。


 一人で歩く、小柄な女子生徒を見つけた。


「!」


 天上さんだ。

 相も変わらずの無表情で、背筋を伸ばした綺麗な姿勢で、天上さんが歩いていた。

 他の人は猫背だったり重心がごちゃごちゃな歩き方をするが、天上さんの歩き方はとても綺麗だった。

 一本芯が入ったような堂々とした所作は、軍人のようにも見える。

 深層の令嬢が女性の例えとしては的確なのだろうが、天上さんはああ見えてもっとパワフルなのだ。


 あの人、意外と歩幅が大きいんだよな。

 隣で並んで歩いた時も、俺はそこまで歩く速度に気を使う必要がなかったのだ。


「っ、」


 なぜだろう。

 無性に天上さんと話したくなった。


 だけど無理だと分かっていた。

 車は進み、すぐに天上さんは見えなくなる。

 目が合うこともなかった。

 俺だけが、ダークグレーのガラスを隔てた向こうにいる、天上さんを見つけていた。


 車は天上さんの隣を通り過ぎ、道路をひた走る。

 それでもまだ、俺は窓の外を見つめ続けた。





 死んでさえいなければ、怪我は治る。

 骨や肉であれば、人にもよるが数日あれば元に戻る。

 異能者共通の認識であるから、やがて全員が怪我に対しての反応が淡白になっていく。

 実際、瑠美さんも俺の怪我を見て、眉をぴくりと動かしたくらいだった。


『珍しいな、お前がそんな怪我をするなんて』


『昔はよくやってましたが、確かに最近じゃ久しぶりですね』


 俺の怪我に関しての話は、それだけだった。

 後は今回の件に関しての報告を済ませれば、俺のやることは終わり。

 そういうところが化け物だと言われる所以なのだろうか。


 夜には、耳も右手も日常生活に問題ない程度にはなっていた。頬の腫れも戻っている。

 明日になれば完治するだろう。

 左腕も肘の手前までは再生している。

 事務所で専用の包帯を巻いたから、後は放っておくだけだ。


 俺は住んでいるマンションのベランダで、タバコを咥えていた。

 国も俺たちの扱いの代わりと言うべきか、異形の討滅にはそれなり以上の金が入る。

 高層マンションで一人暮らしをする程度は全く問題ない。


 スマホの電源を付けると、瑠美さんから連絡が来ていた。

 仕事の際に瑠美さんと電話して以降スマホを見ていなかったから、気がつかなかった。

 内容は『終わったら連絡しろ』とだけ。事務所で報告を終えた今になって返信する意味もないから、既読だけ済ませる。


 トークの一覧が表示される画面に戻る。瑠美さんの下に、天上さんとのトークが表示されている。


「……、」


 指を動かして、それをタップした。

 昼休みに交わしたやり取りが表示される。

 あれ以降、天上さんからの連絡は来ていない。

 まぁ、特別用事もないし、普通のことだ。


 ……連絡してみようか。


 でも、何を送ればいいのだろう?

 文字を入力する画面になって、指が止まる。


 馬鹿正直に『少し話したい』とでも送るか? いや、気持ち悪いなそれは。

 『元気か?』は違うしな。昼休みに顔を合わせているわけだし。


 そもそも、迷惑にならないか?

 今は日付が回るちょっと前。この時間であれば寝ている可能性もあるだろう。

 俺の連絡で起こしてしまったとなれば、申し訳なさが過ぎる。


 正解がわからん。


 いくつか文字を打ち込んで、消して。


 何も打ち込まれていない入力欄を眺めて。


「…………やめておくか」


 結局、何も送ることなくスマホをスリープにする。

 こんな時間に俺の都合に付き合わせちゃ悪いしな。うん。

 なぜか瑠美さんが「意気地なしが」と言いたげに溜め息を吐くイメージが浮かんだが…………頭を振ってそのイメージを消した。


 と、スマホが震えた。

 鋭く長い振動。


 電話だ。


 もしかして。

 自分でも驚くほどの速さで指が動いた。


「もしもし?」


『もしもしぃ? 琴原ことはらよぉ』


 あー…………そう。


「なんだ、スズネさんか……」


『ちょっとぉ? その言い方は流石に傷つくわぁ』


 スズネさんが咎めるような声で言う。


「すみません」


『如月くんの愛しの天上さんからだと思っちゃったかしらぁ?』


「愛しのではないですが、まぁ……はい。そうですね」


 正直に言うと、スズネさんが笑う気配。


『青春してるわねぇ。ごめんねぇ、期待させちゃって』


「いえ、大丈夫です。で、要件は何ですか?」


『今ちょっと時間あるかしらぁ? 来てほしい場所があるのだけど』


「いいですよ。どこです?」


『ちょっと待ってねぇ。……ここよぉ』


 スズネさんとのトーク画面に、位置情報が送られてくる。

 ここから近い、大きな自然公園のようだ。

 夜は暗く、人気もない。そんな場所。

 内密に話したいことがあるのだろうか。


「わかりました。十分くらいで行きます」


『待ってるわぁ』


 通話が切れる。

 スズネさんの様子が、いつもよりちょっと違った気がした。

 何かを覚悟しているかのような。間延びした話し声の裏に、どことなく硬い響きがあった。


「…………、」


 ベランダから殺風景な部屋に戻って、軽く着替える。

 スマホと財布、それとタバコをポケットに入れて、マンションから出た。


 どんな用件なのかはわからない。

 ただ一つだけ、大きな違和感が胸に浮かんでいた。


 俺、スズネさんに、天上さんの名前教えたっけ?





「待ってたわぁ」


 スズネさんは自然公園のベンチに座っていた。

 相変わらずのお嬢様然とした格好で、座り方もそれっぽい。

 電灯にライトアップされた、木製の黒ずんだベンチがあまりにもミスマッチだ。


 俺はスズネさんと、五メートルの距離を空けて立ち止まる。


「隣、座ってもいいわよぉ?」


「無茶言わないでくださいよ。……そんな殺気出しておいて」


「あらあらぁ。抑えていたつもりだったんだけど」


 すい、とスズネさんが立ち上がる。

 糸目が僅かに開かれ、この距離でないとわからないほど薄く、異能の力が動いたのがわかった。


「俺を殺しに来たんですか?」


「それは違うわぁ。一つだけ、忠告がしたいだけよぉ」


「忠告、ですか」


「ええ。回りくどいことを言わずに、結論から言うわねぇ」


 そこでスズネさんは、小さく息を吐き出した。

 糸目の奥の赤みがかった瞳が、ぞっとするほどの冷たさを帯びる。


「天上音羽と関わるのはもうやめなさい」


 口調すらも普段と違う、緩さのない凍てついたものに変えて。

 俺にとっては到底受け入れ難いことを、言った。


「……は?」


 スズネさんは口調を変えないまま、続ける。


「天上音羽には実の両親がいない。義理の親は、公安第五課第八係に所属しているわ。ほぼ独立した研究機関で、色々と黒い噂が絶えない場所よ」


「…………、」


 調べたのか。

 胸の奥から不快感が迫り上がる。

 顔に出ていたのか、スズネさんは「悪いわね」と欠片もそう思っていない調子で言う。


「ただ、その顔は察していたみたいね。……彼女の事情を知っているのかしら?」


「全部ではないですが」


「なぜ、それを私や瑠美に報告しなかったの?」


「俺のプライベートです」


「言い訳ね」


 スズネさんはその一言で切り捨てた。


「こう思ったのでしょう? 彼女は、私たちからすれば潜在的な敵対関係にある公安と関係がある。それを私や瑠美が知れば、彼女を利用しろと言われるか、そもそも関わることを禁じられることになりかねない。それが嫌だったから、報告しなかったのでしょう」


「…………、」


「彼女の事情は知らないけれど……、恐らくは第八係主導による人体実験の被験者。それも、失敗作なのでしょう」


「あ?」


「人体実験における話よ。言葉尻を捉えないで」


「ッ……」


 舌打ち。

 ポケットからタバコを取り出して、火を点ける。

 煙を深く吸い込んでも、湧き上がる苛立ちは収まらない。


「続けるわね。如月くん、この前アウトロー三人をとっ捕まえたでしょう」


 返事はしなかった。

 向こうもただ事実をなぞっているだけで、必要ないと思っているのだろう。


「あの三人、本当はらしいわよ。…………ここまで言えば、誰なのかはわかるわね?」


「……天上さんが、どこかから狙われている」


「そういうこと。まだあの三人の大元は判明していないけれど……重要なのが、彼女には狙う価値がある。まぁ、存在そのものが国の弱点みたいなものだからね。それをみすみす野放しにしている現状には、疑問が残るけど」


「……、」


 一際強くフィルターから煙を吸い込む。

 肺を紫煙で満たしていないとやっていられなかった。


 気に入らねえ。胃の奥がムカムカする。

 スズネさんの本心かどうかはさておいて、天上さんのことを失敗作だとか価値だとか、まるで物のように扱っていることに腹が立つ。


「ともかく、彼女は狙われている。もしかしたら、敵は彼女の周りから狙ってくる可能性もある。そうなったら、あなたや、私たちの事務所にも被害が及ぶかもしれない」


「だから、関わるのをやめろと?」


「そういうこと。瑠美のことを思って、今回は言うことを聞いてくれないかしら?」


 殺気を収めることをしないまま、スズネさんはそう締め括る。

 いざとなったら殺すことに一切の躊躇をしないであろう赤みがかった瞳が、毒蛇のように俺を睨みつけたまま。


「……………………、」


 フィルターを親指で強めに弾き、短くなったタバコに口をつける。

 煙を吐き出しながら、瑠美さんのことを考えた。


 この世界の地獄というべき場所から、救ってもらった恩があった。

 そこから何だかんだと世話になって、学校まで行かせてもらえている。

 戸籍も稼ぎ口も、全ては瑠美さんが用意してくれたものだ。

 あの人がいなければ、俺は誰も名前も知らない場所で、何の感情も抱かないまま野垂れ死んでいただろう。

 瑠美さんには、命を、人の心を、救ってもらった。

 スズネさんに従うことで、瑠美さんへの恩返しになるのだとしたら。


「…………、」


 頭の中で結論がまとまっていく。

 スズネさんは何も言わず、静かに、しかしいつでも戦闘行動に入れる様子で俺を見ている。


「二つ。聞きたいことがあります」


「聞くわ」


「一つ目。アウトロー三人が狙っていたらしい女子生徒が、天上さんである証拠はありますか」


「ないわね。強いて言えば勘よ」


「そうですか」


 やはり、証拠はないのか。

 とはいえ、これだけで色々なことがわかってくる。


 アウトロー三人の捕縛は警察からの依頼だが、その後に追加で判明したことが共有されることはない。

 だがスズネさんが知っているということは、うちの事務所が独自に調べているということ。

 勝手に調べるということはしないだろうから、どこかから依頼があったということ。

 瑠美さんが俺に何も言ってきていないことを考えると、瑠美さんはまだ何も知らないということ。

 こうして話しているのはスズネさんの独断ということ。


 天上さんが狙われているということに関しては……わからない。

 だが今後も考えれば、狙われる可能性は非常に高いと言えるだろうよ。

 スズネさんの勘というのも、間違っていないのかもしれない。


 んで、そうなれば関わっている俺に、ひいては瑠美さんやスズネさん、ウチの対特災事務所のメンバーに波及しかねない。

 犯罪者となれば俺たちの居場所は失われ、捕まれば恐らく命はない。


 理屈では分かっている。

 ああ。分かっているさ。


「二つ目」


 だけどさ。


 タバコを手のひらで握り潰す。

 熱さというより、刺すような鋭い痛みが手のひらに走る。

 その痛みが、少しだけ俺を冷静にしてくれた。

 異能の力で、拳の中のフィルターを燃やし尽くす。

 敏感に異能の発動を察知したスズネさんが眉をひそめる。


って言ったらどうなりますかね?」


 聞けるわけねえだろうがよ。

 舐めてんのか、ああ?

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る