【蘇る、風をまとう者の伝説】

 コートの中で躍動する紬を、紗枝がスタンドから見下ろしていた。

 すごい! すごい! どうなってんのこれ。


「紗枝。もしかして紬のこと、肩を痛める前はオールラウンドプレイヤーだとでも思っていた?」


 隣に二年生の先輩がやってきて、そんなことを問う。会場の熱気にあてられて、紗枝の額にはごく自然に汗が滲んでいた。

 視線を一度隣に向けて、汗を拭ってから再びコートを見下ろした。

 一秒でも、見逃すのは惜しいとでも言いたげに。


「はい。思っていたかもです」

「ダンクスマッシュの姫子とか、抜群のコントロールを持つ心と比べたら、確かにスマッシュを打たなくなった紬は地味に見えるもんね」


 けど、と彼女もコートに熱視線を注いだ。


「これが本来の彼女のスタイル。コートの中を縦横無尽に駆け巡り、超高校級の跳躍力を持って空を制圧する。今見せている超攻撃的なプレイスタイルこそが、むしろ紬の本来の姿。紬の真骨頂。彼女が風をまとう者、と呼ばれるようになったゆえんだよ」


 空を制するからこそ、『風をまとう者』。

 間違いない。今の紬っちは、間違いなく風をまとっている、と紗枝は思う。

 すごい、と言葉が口をついて出た。


「すごい! すごいよ紬っち!」


 私の見る目はやはり

 本当は、心のどこかで認めたくなかった。でも、いつしか気づいてしまったんだ。紬っちの百パーセントを引き出せるのは、私じゃないってことに。心ちゃんと組んだとき、化学反応が起きる可能性に。

 もっと見せてほしい。もっともっと見せてほしい。あなたが、空を舞う姿を。


「紬っち、いけー!」


   ◇ ◇ ◇


 それでいいのよ、と心は呟く。

 春頃のあなたは、動きがあまりにもシングルスすぎて問題外だったけれど、そこからのあなたはむしろ見すぎていた。ペアの動きまで先読みすることで、自分のプレーを無意識のうちに狭めてしまっていた。

 ローテーションの基礎さえ覚えたら、あとは目いっぱいやれば良かったのよ。

 弱点なんてあっても別にいいし、持ち味を封殺されようと構わない。攻撃は最大の防御とばかりに、どんどん攻めて欠点から何から覆い隠してしまえばそれで良かったのよ。

 ようやく、そこに気づいたみたいね。

 どう? 今楽しいでしょ?

 背中なら私が守る。

 背中なら私が貸す。


 だから目いっぱい暴れな、紬!


   ◇ ◇ ◇


 あたしがコートの中で躍動する一方で、心は今まで以上に堅実なプレーに徹してくれていた。あたしが動くことで生まれるスペースを埋め、相手の射線を封殺しながら、なおかつ質の高いレシーブを連発していた。

 心は空間認識能力が非常に高いのだろう。

 あたしが邪魔さえしなければ(春のことがあるので頭が痛い)、こちらの動きを即座にくみ取って、最適な場所に動いてくれるのだ。

 もしかして、コーチは彼女のこの特性を見抜いていた?

 あたしにもっと動いてほしいと思っていた?

 今さらながら、心のペアがあたしになった理由がわかった気がした。

 華はあるが、奔放すぎるあたしの動きは、ダブルスプレイヤーとして見ればたぶん失格なのだろう。

 ペアへの負担が大きい。得点機会が多い反面、積極的なしかけが多いことからくるミスも少なからずあるのだから。

 それでも、目いっぱいやることにした。背中なら、心が守ってくれるのだと信じて。この安心感があるからこそ、あたしはスペースを気にせず自由に動き回れる。

 二つミスしたら三つ取り返せ。三つミスしたら四つ取り返せ。

 母の教えを思い出した。

 天空から叩きつける矛を、何度も相手コートに突き立てた。

 二ゲーム目。二十一対十で取り返した。



「ファイナルゲーム、ラブオールプレー」


 最終ゲームは、壮絶の一途をたどった。

 あたしの奔放な動きにも、かつてのチームメイトである姫子は慣れている。次第に順応され始めて、広げたリードをじわじわと詰められる。

 追う立場より、追われる立場のほうが苦しいものだ。二ゲーム目を取り返すことで生まれた精神的なアドバンテージは、すでにまったくなかった。

 加えて、ここにきてスタミナが苦しくなる。あたしはこの運動量で、心は率先してスペースをカバーし続けたことで、相手よりもこちらのほうが消耗しているのは明白だった。


「紬!」


 外に逃げていく姫子のダンクスマッシュを、苦しい姿勢で拾い上げる。コートの端に寄せられたことで、広いコートに心だけが残されている。

 当然のように浮いたシャトルを、大越さんがフェイントなしの矢のようなスマッシュで返してくる。

 それでも反応した心の返球に、今度は姫子が食らいついた。


「させない!」


 心の逆サイドに落ちてきた落雷のごときそれを、シャトルと床の間にラケットを差し込んでなんとかあたしは拾う。

 汗が舞う。息が上がる。足が動かない。


 ――勝ちたい!



『朝の空気って気持ちいいよね』

 早朝のランニングを一緒にしていたとき、紗枝ちゃんがそんなことを言っていた。

 紬っちが舞うところ、私は見たいよ、と常にあたしの背中を押してくれた。

 ずっと、献身的に尽くしてくれた彼女の夢を、それなのにあたしは踏みにじった。けど、自分を卑下したりはしない。それでも彼女はあたしを見ててくれるから。あたしはバドミントンが好きだから。

 今はただ、全力でプレーする姿を君に届けるよ!

 運動量が落ちてもまだあたしが粘っていられる理由。それは、尽きかけているようでまだわずかに残されている、スタミナと気力にあった。

 これはきっと、紗枝ちゃんと毎日走り込んできた成果なのだ。

 一歩動け。一歩動いたなら二歩動け。二歩動いたなら三歩四歩とどんどん動け。気持ちを奮い立たせて足を踏み出せ!


 紬、と懐かしい声がした。

 必ず全国の頂点に立て、ともう一度。


 わかっている、これはたぶん幻聴だ。それでも確かに聞こえた、懐かしい声が。

 酸欠気味の頭が見せる、何かなのかはわからない。白くかすんだ視界の奥に、見上げるほどに大きい壮厳な扉がそびえ立っていた。

 この扉のその奥に、何があるのかはわからない。それなのに、不意に、理由もなくこう理解できた。

 この扉の向こう側に、母とした約束の地ぜんこくが広がっている。

 でも、ダメだ。足りない。

 扉はあまりにも遠くてあまりにも高い。あたしじゃまだ――届かないのかな。

 そのとき、あたしの背に暖かい何かが添えられた、気がした。

 目の前にある扉はかすんで見えなくなっていくのに、背中から伝わってくる熱が、あたしに勇気を与えてくれた。手足に力がみなぎってくる。踏ん張れる。あたしはまだ、戦える。


 大丈夫、紬なら勝てるよ。

 勝つために、まずはこの試合を楽しもう!


 試合を、楽しむ。

 あたしはずっと、全国に行かなければならないと思ってきた。それがあたしの中で呪いのような物となって、勝たなければならないと自分にかせをかけてきた。勝てない自分に、価値はないと思ってしまったんだ。

 それなのにどうだ?

 まだ勝ってもいないのに、全国に行けてもいないのに、こんなに多くの人が応援してくれている。背中を押してくれる人がいる。一緒に戦ってくれる友がいる。

 どうしてだ?

 それはあたしが、試合を楽しんでいるからだ。

 勝つことが必要条件であるならば、楽しむことがある意味十分条件なのだ。

 試合を楽しむことこそが、本当の母の教えだったのだ。


 そうなんだよね? 母さん。


 楽しい。

 苦しいけれど楽しい。

 まだ開くときではないのだろう。扉の姿はすでに完全に見えない。でも、それでいい。

 目指さないわけじゃない。

 バドミントンを目いっぱい楽しんだその先で、きっとあの扉は開くはずだから。

 待っていてね、母さん。あたしは絶対に、

 

 全国に行くから。


 ライン際ぴたりの心のスマッシュに、かろうじて大越さんが触れる。本当に触れただけのシャトルが力なく、しかし高く上がるロブになった。


「心!」

「オーケー……!」


 またか、とうんざり、の中間|(どっちも似たようなものか?)みたいな顔で心が苦笑する。


「いや、もう背中は貸してくれなくていいや。これで決めるから、そこでばっちり見ててね!」

「まだ決めてもいないのにそれ言うか!?」


 バネのように、膝を屈伸して飛び上がる。

 今回は、ラケットを右手に持ち替えはしない。

 頭上にあるシャトルを見上げる。段々距離が近くなる。

 タイミングを見計らって上体を右にひねってかたむけた。

 左肩が天井に向くように体を斜めにすることで、サイドスローの軌道でも打ち下ろしになるように。

 全身をしならせる。広背筋から左腕、ラケットへとエネルギーを伝達。

 残された力のすべてを振り絞って、シャトルを真下に向けて射出した。

 コート全体に反響した炸裂音。

 閃光のような一撃が、相手コートに突き刺さる。

 変則打ちの軌道に、二人は一歩も反応できなかった。


「ゲームセット。マッチウォンバイ仁藤、歳桃ペア。ゲームカウント二対一。(一八対二十一、二十一対十、二十七対二十五)」


「ありがとうございました」と四人の声がそろった。

 スタンドにいた父と目が合った。手を振ってきたのであたしも振り返す。

 勝ったよ、父さん。それから、

 母さん。


「対戦してくれてありがとう。いやあ、『風をまとう者』の噂は何度か聞いていたけど、思っていた以上だったよ。本当にいい経験になった」


 大越さんと、ネットの下から握手を交わす。


「こちらこそ、対戦してくれてありがとう。……めっちゃ楽しかったよ」

「そりゃあ、散々人を足蹴にしていたのだから、さぞ楽しかったでしょうね?」


 背中をさすりながら愚痴る心に、大越さんが苦笑いをする。


「あはは、ごめんて」

「なんていうかさあ。猛獣ばかりいる檻に、一人だけ一般人が迷い込んだ、みたいな気持ちだったよ」

「誰が猛獣ですって?」


 姫子がにらむと大越さんが肩をすくめた。「いや、あんたのスマッシュは間違いなく猛獣のソレだから」と。


「紬」

「うん?」


 姫子が、珍しく真面目な顔をしているなって思う。


「ま、今日のところは負けたってことにしておくわ」

「しておくわ、じゃなくて負けているんだよ」

「うっさい……! この雪辱は、明日の個人戦で晴らすから。絶対逃げないでよね?」

「当たり前じゃん。逃げないよ、もう二度と……ね」


 姫子とネットの下で軽く拳をぶつけ合う。

「姫子」と立ち去りかけた背中に声をかける。


「なに?」

「中学のとき、全然話を聞いてあげなくてごめんね。あんな態度をとってしまったけれど、あたしは、姫子が声をかけてくれたことを嬉しく思っていたんだよ」

 

 姫子は、面食らったみたいに目を丸くしてから、ふ、と相好を崩した。


「今さら何言ってんのよ、と言いたくもなるけど、いいよ。何度も言うように、あのときのことは私怒っていないから。私の提案を散々無視していたくせに、心と組んでしれっと復帰していたことには怒っているけどね!」


 腰に手を当て、姫子がにらんでくる。数秒にらみあってから、二人同時にふき出した。ふはは、と。

「じゃあ、また明日」と異口同音に声がそろった。

 憑き物が落ちたみたいな顔をして、姫子が踵を返す。片手を上げて、去って行った。

 まずは明日。

 それから次は、全国の舞台で会おう、姫子。

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