三章
あの飲み会から数日して、彼氏持ちの女性社員は妊娠していることをカミングアウトした。
入社時には既に判明していたらしいが、言い出せなかったとのこと。現在妊娠五ヶ月。OJTが終わる頃には産休に入らなければならないし、営業先に妊婦を連れて行くわけにもいかない。上長との面談の結果、本人の意思もあり、他部署に異動することになった。
同期の女たちに囲まれて、その新卒は泣いていた。キャリアを積んで管理職になるのが夢だったらしい。研修中も
騒ぎを背中で聞きながら、石川は鼻で笑った。頑張ったんだね、仕方がないね、なんて存分に憐れんでもらって、まるで悲劇のヒロインだ。あれもこれもと手を出して全方位に迷惑をかけるくらいなら、最初からやめておけばよかったものを。
産休が明けたらもう一度チャレンジすればいいとか、部長も田邊も甘いことを言う。貴重な採用枠を一つ無駄にした奴が出戻ったところで、誰も歓迎しないだろう。出産に育児に生理まで、身勝手な理由で会社の福利厚生を利用し尽くす女のキャリア形成に労力を割いていたら、現場は立ち行かなくなる。建前上口にはできないだけで、会社もわかっているはずだ。
男は仕事、女は家庭。結局それが一番いい。勉学に打ち込んで良い大学に入り、上場企業に入社し、出世のために職務に邁進する。そんな当たり前の努力すらしてこなかった経済力のない男が、分不相応に女を囲おうとするからこうした軋轢が生まれるのだ。
妊婦は自席の荷物をまとめて、その日の夕方には別のフロアにある事務方へ引越していった。新卒の同期たちがアルコールなしのお見送り会を企画し、部長と田邊も出席したが、石川は行かなかった。金を払ってメンタルケア要員になるなんて御免だ。
『また元カノの悪夢見ちゃった笑』
混み合う駅のホームで、石川はスマホを確認する。今朝メッセージを送ったが、花菜子からの返事はまだない。女子大での健全なキャンパスライフを楽しんでいるのだろう。
あれ以降も千穂はしぶとく夢に現れたが、最早花菜子に連絡する口実にしかならなかった。いつも不気味な演出で気味の悪い問いを投げかけてくるが、明るく溌剌とした霊能者を味方につけた石川の敵ではない。
石川はこれから元に戻っていくのであろう腹を撫でる。花菜子の登場により、一連の騒動は幕を閉じつつあった。これがドラマならエンディングが流れているところだ。
謎の症状に悩まされる主人公が医者に助けを求めたら、横から出てきた謎のイケメンが胡散臭い高次元存在の関連をほのめかす。だが結局それは嘘で、正義の美人霊能者がスパッと全てを解決してしまう。黒幕は元カノの怨霊。美人霊能者の活躍で、被害者は日常を取り戻す――
小説でも書いてみようか。口元に笑みを浮かべた石川は、ホームに滑り込んできた電車に乗った。
『考えすぎはNGですよ!』
『暗い気持ちは良くないものを引き寄せますから』
『ハッピーに暮らしましょう!』
運良く空いた席に悠々と座って、明るいメッセージに遊びの誘いを返す。そのついでに、見るだけで気が滅入る千穂のトークルームを削除した。アカウントもブロックする。
――自分だけ幸せになれると思わないで。涙に濡れた声が聞こえた気がしたが、除霊は済んでいる。暗い気持ちが呼び起こした、幻聴に違いなかった。
責任を感じる必要はない。千穂の父親からもそう達されているのだから、お言葉に甘えて、何事もなかったかのように幸せに暮らせばいいだけだ。
目の前に立つ妊婦の腹には気付かないふりをして、石川はカメラロールの思い出を整理しながら、花菜子からの返信を待った。
――花菜子は、除霊は完了したと言った。
「石川君、もしかしなくても太った?」
「実は少々。ご内密にお願いします……」
デリカシー皆無のいじりは、ただでさえ睡眠不足で逆立っている神経を刺激した。付き合いの長い大口の取引先でなければ、露骨に不快感を露わにしていたことだろう。
「シュッとした感じだったのにねぇ。あ、もしかして幸せ太り? 婚約中の彼女さんとはどうなったの?」
「ちょっと今、」
指切りをするように小指を見せてから、両手の人差し指を立てて頭の両脇に添える。還暦近い相手は声を上げて笑った。「古いよ、君」
石川も追随して笑う。もちろん嘘だ。
「おっと」腹を潰すように背を屈め、取り落としたペンを苦労して拾う。
不自然な仕草に、取引先は若干怪訝な顔をしたが、別の話題を振って誤魔化した。
五月になりGWを過ぎても、石川の腹が元に戻る気配は一向になく、むしろ前以上の速度で膨らんでいた。
一月ほど前に新調したスーツは入らなくなり、さらにサイズを大きくしたら客先で無遠慮にいじられる。私服も入らなくなって、最近は休みの日もほとんど外出せず、オーバーサイズのTシャツとパンツ一枚というだらしのない格好で過ごしている。
体型の変化だけでなく、慢性的な睡眠不足で常にピリピリしていて、隣の席の田邊もそれを察知しているのか、近頃はあまり話しかけてこない。営業の仕事自体にはまだ支障は出ていないが、何となく社内で孤立し始めていた。
石川は、四月末に再度遊びに誘って、海外旅行を理由に断られたところで終わっている花菜子のトークルームを開いた。
公式キャラクターがちらりと角から覗いているスタンプを送ってから、『除霊って成功したんだよね?』と意味深な感じで切り出す。『ちょっと聞きたいことがあって』『次の土曜とか、会えたら嬉しい』……
「お久しぶりです石川さん!」
一ヶ月ぶりに会う花菜子は、相変わらず溌剌としていた。ワイドデニムに丈の短い長袖シャツ姿の、いかにも人生を謳歌しているような身軽なファッションが、今ばかりは腹立たしい。
連なった玉ねぎみたいなポニーテールを揺らして、ポメラニアンのように無邪気に近づいてきた花菜子は、カフェの奥の席に隠れ潜むように陣取った石川の姿を――腹部を見て言葉を失った。
グロスを塗った唇を閉ざし、ライトブラウンのカラコンの目を見開いて、石川の顔と腹を交互に見る。
「そのお腹……」
「花菜子ちゃんに除霊してもらってから、酷くなってる」
「……病院には行かれましたか?」
目を丸くしたまま、きょとんとした表情で花菜子が尋ねる。
「行った」苛立ちが言葉の端から滲み出る。「でも、何もわからなかった」
「何もわからないことはないと思います。だって、私には何も見えません」
はっきりとした口調で、花菜子は言った。石川の背後に視線を据え、
「石川さんには、もう何も憑いていません。だから、私に祓えるものは何もありません。霊の仕業じゃない。お姉ちゃんたちだって、そう言うはずです」
「じゃあ、何なんだよこれは……」
「霊的なものでないのであれば、単なる身体の不調です。お医者さんじゃないので、医学的なことは私には――」
「ならどうすればいいんだよ!」
声を荒らげると、花菜子はびくりと怯んだ。
締め付けられるような頭痛に、思わず目を瞑る。眼裏には、不気味な模様が渦巻いていた。
霊的なものでも、医学的なものでもないとしたら。答えは、考えたくもない一点に帰結する。
異界体。人間を相手に契約し、従わなければ罰を与える、神や霊とも異なる、高次元の存在。
――人間の世界では罪に問われないことにも罰を与えてくるのが異界体なんです。
――隼人は、何で払ってくれるの?
生神の言葉が、千穂の問いが、頭蓋の中に響く。半狂乱で頭を掻きむしった。
「クソッ……!」
石川は再び『わたらい整形外科』を訪れていた。花菜子も心配そうについてきて、頼んでもないのにタクシー代を支払った。
「……診察は十四時から。こっちはまだ昼飯食ってんだよ」
無断で診察室に押し入ると、医者はオレンジ味のグミのチャックを閉じながら、床に向かって言った。
「手術で何とかしてくれよ! 金は払うから……!」
「無理」渡会は即答した。
「開腹手術してやるって言ったけど、撤回。俺がお前の腹を切るのは、お前が医学の発展のために献体に立候補してくれた時。お前が死んだ後だ。お前を生かすための執刀はできない」
「どうして、」
「生神くんに聞け。覚えてるか? 生神結緋くん。一ヶ月以上シカトされてんのに、話聞かないバカを助けるために昼夜問わず奔走してんだぞ」
「えっ、結緋くん!?」
後ろで気まずそうに話を聞いていた花菜子が反応した。
「……てか、誰その子」
「霊能者の巫部花菜子です!」いつもの調子で花菜子は自己紹介した。ベビーピンクのチークを隠すように両の頬に手を当て、「もしかして結緋くんって、あの結緋くんですか――?」
「ユウちゃんには、連絡しておきましたから」
直後、看護師の水雫瀬星夏が入室した。
花菜子は水雫瀬の顔を見て、天敵に遭遇したかのように硬直した。上気していた顔も心なしか青ざめている。
水雫瀬は通常通りの微笑みを浮かべたまま、こんにちは、と挨拶をした。花菜子は目も合わさず、ぎこちない表情で「ちわ……」と小さな声を発する。
「お久しぶりです、石川さん」
平等に、水雫瀬は石川にも会釈をした。大きく突き出た腹が見えているはずなのに、顔色一つ変えない。
「久しぶり、水雫瀬さん。あのさ――」
「ここでは狭いので、院長室で話しましょうか」
取り縋ろうとした石川を遮り、水雫瀬は提案した。
渡会がのそのそとした動きで診療室を出ていく。石川と花菜子も、水雫瀬が差し向けた手に従って退出した。
院長室には、いかにもそれらしき革張りのソファが置いてあった。一人掛けのものが二台、机を挟んで、二人掛けのものが一台。渡会が奥にある院長席に深々と腰掛け、石川が二人掛けの上座に座った後、花菜子が水雫瀬を警戒しながら隣に来た。生神を待っているのか、水雫瀬は入り口の横に立ったままだ。
焦燥を煽るような貧乏ゆすりの音。睨んでも、ブラインドカーテンの隙間に目を凝らしている渡会には効き目がない。小さく舌打ちをする。
反対側の花菜子は、落ち着かない様子で前髪を気にしている。
「花菜子ちゃんは、生神君と知り合いなの?」
「はい!」花菜子はドアの横の同性にも聞こえるくらいの、十分な声量で返事をした。
「結緋くんは親戚のお兄ちゃんで、小さい頃から仲良くしてもらってます!」
「へー……」
小さい頃から仲良く、の部分は特に強調されていた。花菜子が憧れにも似た純真な好意を生神に向けていることは明白だった。彼と関係のありそうな水雫瀬を敵視していることも。
隣で人が困っているのに、呑気なものだ。石川は初めて、明るく素直な花菜子を疎ましく思った。
「生神くんのこと、好きなんだ?」 運命的な出会い方をした自分にも、多少はその特別な好意が向けられていると確信していたのに。
「ええ!? いやいやいやいや、そんなんじゃないですよ!」
花菜子は顔を真っ赤にしてぶんぶんと手と首を振った。石川は彼女を信じてしまったことを後悔した。除霊だって、胡散臭さにおいては謎の高次元存在と何ら変わらないというのに。
結局、水雫瀬も花菜子も、石川の身に起こっている現象も、全て生神結緋という気味の悪い男に行き着く。解放されたつもりでいた一ヶ月も、所詮は手のひらの上で踊らされていただけ。一度は拒絶した生神に頼らざるを得ない状況にあるのが、不服で仕方がなかった。
「すみません、遅くなりました」
会話が絶え、微妙な空気が部屋に満ちる頃、生神がやってきた。
前回と同様スーツ姿の生神は、万全の状態で待ち構えていた花菜子に驚いた――らしかった。目を見開いているという情報は伝わってきたが、顔の全貌は依然把握できない。
「お元気でしたか結緋くん
花菜子は飼い主の帰宅に気づいた仔犬のように、飛び跳ねんばかりの勢いで立ち上がった。彼女の目には一体どう映っているのか、詳細不明の顔を前に、憚ることなく全力で愛想を振りまいている。
石川は二人を見比べた。花菜子は生神を「親戚のお兄ちゃん」と言ったが、せいぜい同じ年、何なら花菜子の方が年上に見えた。
「お久しぶりです、花菜子さん。石川さんも、ご無沙汰しております」
花菜子とは心理的距離を保ちつつ、生神は慇懃に頭を下げた。面を上げる過程でたまたま目撃してしまったとでも言わんばかりに、石川の肥大した腹から申し訳なさそうに目を逸らす。相変わらず、徹底して善人ぶっているところが気に食わない。
生神は水雫瀬に鞄を預け、石川の向かいに姿勢正しく着席した。不機嫌な沈黙に耳を傾けてから、花菜子の方へちらりと視線を投げる。
「何となく察しはついていますが……石川さんは、この一ヶ月何を」
「私が除霊しました!」
石川が横目で見遣ると同時、花菜子が自発的に答えた。
「除霊されたんですね……」
「はい! 石川さんの元カノさんと元カノさんのご両親が憑いてたので、ちょちょいっと!」
誇らしげに報告した花菜子は、一転してしゅんと萎れた。俯き、力なく両手の指を合わせる。
「でも、除霊は一瞬で済んだんですけど、石川さんのご体調が戻らなくて。こういうこと、私、初めてで……無理やり、ついてきちゃいました……」
花菜子は叱られた仔犬のようにしょぼくれている。「お役に立てなくてごめんなさい」
生神は瞑目し、深く息を吸ったが、花菜子を責めることも、溜息を吐くこともしなかった。
「処方が違うだけで、花菜子さんは悪くありませんから……」
かろうじてそうフォローして、生神は水雫瀬に鞄を預け、石川の正面に腰を下ろした。顔の造形は把握できないが、真剣な眼差しをしていることはわかった。
「石川さん。再度お伝えしますが、今回の件は異界体との契約が原因です。異界体は霊的なものではありませんので、除霊は効きません。いくら効果の高い風邪薬でも、骨折を治すことはできないのと同じです。契約を解除してもらうには、交渉しか方法がないんです」
お願いですから、僕を信じてください。生神は切実に訴えたが、石川は首を縦に振ることができなかった。
「……結緋くん、また変なこと言ってます」
石川の心情を代弁するように、花菜子が不満げに口を尖らせた。
「やっと帰ってきたと思ったら、異界体異界体、って。何なんですか、それ」
「異界体は、人間には認知不能な、高次元の存在です。巫部家の方々が専門としている神や霊とは違います」
「それはお姉ちゃんたちから聞きました」
花菜子は小さく息を吐く。
「結緋くん、せっかく帰ってきたのに変なものばっか追いかけて、本家にも全然顔出さないですし……ちょっとどころか、かなりおかしいですよ」
人数分の飲み物を運んできた水雫瀬を、花菜子は物言いたげに一瞥した。
「お姉ちゃんたちは霊の仕業じゃないって言ってましたけど、絶対、良くないものに取り憑かれてます。やばいことになる前に、一回本家に戻ってちゃんと視てもらった方がいいです」
「……お気持ちはわかりますが、僕は正気です。本家にも、少なくとも今回の件が片付くまでは帰りません」
生神は、無言のうちに花菜子ら巫部家との間に線を引いた。彼にしては珍しい頑なな態度は生真面目さの表れと捉えることもできたが、その一方で異界体という存在に固執しているようでもあり、石川は形容し難い不気味さを感じた。
生神は居住まいを正し、石川に向き直る。
「石川さん。信じがたい内容であることは重々承知の上ですが、現在石川さんのお身体に現れている症状は、異界体との契約によるもの、唯一人間側から認識できる【
顔を背けていても、もやの奥の表情が容易に想像できるような、真摯な声音は否応なく耳に入ってくる。
己の身を守るように組んだ腕の下、無様に膨らんだ腹の中には、この世ならざる異次元に由来する「何か」が宿っている。
(どうして、俺が)
腹の中身のことを考えると、吐き気が込み上げてくる。
生神を――異界体を認めるということは、すなわち、どこかにある自分の罪を認めるということだ。契約を破ったものに、異界体は【罰則】を下すという。
「俺は、何も悪くない……」幾度となく夢で見た、恨めしそうな千穂の顔が脳裏に浮かぶ。
「石川さんに罪はありません。異界体がそう見做しているだけです」
懺悔をしたわけでもないのに、生神は慈悲深い神父のように諭した。
「異界体は、僕たち人間とは異なる法則の中に存在しています。罪の認識にも齟齬があり、たとえ人間にとって善い行いであったとしても、彼らの秩序に基づいて定められた契約に違反していれば罪にあたります。彼らにとっては契約と秩序が全てで、それらを破ることが何よりの罪なんです」
「じゃあ、どうして契約なんか……! こんなことして、目的は一体何なんだよ」
「それはわかりません。わかったところで、人間には理解し難いものです」
生神は断言したが、それ以上の詮索を拒んでいるような響きも感じられた。
「石川さんの契約は、先ほども言った通りすでに最終段階にあります。今、目に見えている【罰則】が何らかの形でクリアされれば契約は終了となりますが、何をもってクリアとされるかは僕たちにはわかりません。つまり、今後、何が起こるかわからないということです。何をしてくるかわからない相手を止めるには、できるだけ多くの情報を集めて、それを材料に異界体と交渉する必要があります」
「情報って……調べたんだろ、俺のこと。勝手に」
「その節は大変失礼いたしました」
生神は生真面目に頭を下げた。
「ですが、正規の手続きを踏む時間がないことも確かです。何卒、ご理解いただきたい」
「お前が思ってる以上に、やばいことになってるぞ」
熱心に空の紙コップを弄びながら、渡会は自分の手元に向かって言った。
不鮮明な頭部は、重苦しい空気に包まれている。
言葉を精査する間を置いて、生神は告白した。
「結論から申し上げますと、石川さんだけではありませんでした」
「一二九」疑問符を浮かべる間も与えず、渡会が投げやりに数字を口にする。
「一二九?」
「――一二九名、いらっしゃいました。異界体と契約を交わし、【罰則】によって石川さんと同じ症状に見舞われている方が」
「腹の中でマーブル模様育ててる奴が、石川も含めて一二九人、この一ヶ月で見つかった。というより、顕在化した。お前と同じで、腹の出が目立ってきたから受診したら見つかった、ってケースが全国各地で次から次へと」
「腹部の膨張にマーブル模様の影の映り込み、発生時期にも大きな隔たりは見られず、全て同一の異界体によるものと考えられます」
常から滑舌の良い声には、微かに疲労の影が兆していた。
「おかしいだろ、そんな数……!」
数人であれば、同じ境遇の仲間を心強くも感じただろう。だが、実際に確認されているのは百を超える数の、悪趣味な腹を抱えた被害者たち。無差別テロとどこが違うというのだ。
「そんな大勢と契約しておいて、何で契約の内容も目的も教えてくれないんだよ。何がしたいんだよ。わからないで済ませられるはずないだろ――」
「お気持ちはわかりますが、異界体の目的が何かは、これから取るべきアクションには関係のない事です」
生神は冷静に石川の言葉を遮った。
「異界体との交渉に必要なのは、契約者として選定された【条件】、契約に合意したと見做された【行動】、契約者が履行すべき【義務】、そして、不履行と見做された際に下される【罰則】の四つです。交渉と関係のないことにリソースを割く意義はありません」
「そんなこと言ったって、普通、契約の目的は一番最初に書かれてるものじゃないのかよ」
「それは人間の常識で、異界体はたとえ異界体同士の契約であったとしても契約の目的を明示しません。存在していても、言及しないのが彼らのルールです。目的や結論は、彼らにとっては自明のことですから。言わない、もしくは一番最後に後回しにするのが異界体の常識です」
「異界体にプレゼンさせるとクソってことね……」
渡会の呟きに、生神は首肯した。まるで自分のことを言われたかのような、苦々しい雰囲気を醸し出しながら。
「お話しもせずににたくさんの人と勝手に契約して、相手が破ったらペナルティって、異界体ってすっごい感じ悪いですね」
半信半疑の面持ちではあるものの、石川の隣の花菜子は真面目に話を聞いているらしかった。
「質問なんですけど、交渉するっていっても、どうやって異界体とコンタクトするんですか? 結緋くんにも、お姉ちゃんがやってる神降ろしみたいなことができるんですか?」
「いえ、異界体は神や精霊ではありませんので、巫部家の方々が得意とされている方法でのコンタクトは不可能です。花菜子さんもご存じの通り、僕に霊的な才能は備わっていません。それに、仮にできたとしても、異界体をこちらの世界に呼んでしまうと不具合が生じる恐れがあります」
「不具合?」
「説明は難しいですが……民法のテキストデータがあるとして、そこに刑法の一文を無作為にペーストするようなもの、と言えばいいでしょうか。適当に貼り付けているので意味が通らないことがほとんどですが、どこかでそれらしき条文として成立してしまう可能性がある。異界体を――異なる次元の『
「それって、つまり異次元に行くってことですよね。大丈夫なんですか……?」
怪訝に眉根を寄せた石川と同じ表情で、花菜子が案じる。
「大丈夫でした」生神は平然と頷く。「少し酔うくらいです」
「乗り物酔いと同じ感じ?」渡会が机から身を乗り出す。
「少し違うような気もしますが、大差ないと思います」
個人的な好奇心を包み隠そうともしない医者に、生神は回答した。
石川は隣の花菜子を窺う。今にも家族に電話をかけそうな、見るからに不安げな顔をしていた。
「どのようにして異界体と接触するかについてですが、イメージとしては逆探知に近いです。異界体がどのような【条件】で契約者となる人間を選んだのか、【条件】という
「裏アカを探すみたいなこと? 投稿から――この場合は契約者だけど、共通点を見つける的な」渡会が尋ねる。
「こちらも説明が難しいですが、おそらくはそんな感じかと」
生神は自信なさげに肯定した。
「異界体は、独自の基準で人間を分類しています。タグ付けとも表せますが、ある【条件】でフィルターをかけ、当てはまる人間を契約者として選定しています。現在確認が取れている、石川さんを含めた一二九名の契約者は全員が男性ですが、異界体によるカテゴライズやタギングは、性別であったり人種であったり、人間の基準には当てはまりません」
「じゃあ、異界体は野郎ばっか選んでるんじゃなくて、性別じゃない何か別の【条件】で一二九人を抽出したってことか」
「はい。現在確認できている一二九名の契約者は、異界体が指定した【条件】に当てはまり、かつ契約に合意したと見做される【行動】を取り、その上で定められた【義務】を履行できなかった、限定された方々です。【行動】と【義務】の段階でどの程度絞られているかは不明ですが、母集団はそれなりに大きいと思われます」
「今いる一二九人から、契約者全員に当てはまる【条件】を類推しないといけないわけね……」
「【条件】を――契約者の共通項を明らかにすることが、異界体との交渉における最重要課題です。たとえ【条件】以外の項目を厳密に推測できたとしても、異界体とコンタクトできないのでは交渉の仕様がありません」
言って、生神は憮然と座り込む契約者にアイコンタクトを試みた。
「……わかってるよ」
机の木目を睨みながら、石川は唸った。
「でも、俺の他にも一二八人いるんだろ。性別以外の共通点って言われても、アンケートやヒアリングでわかるものなのかよ。本人が意識してないってこともあるだろ」
「残念ながら、石川さんの仰る通りで。こちらで調べがつく範囲のデータからは、現状【条件】に該当するような共通項は見つけられていません。異界体が、人間のプロフィールに記載されないような要素で人間を選別している可能性は十分にあります」
「プロフィールに書かれないって、特定の場所に足を踏み入れたとか、何月何日の朝にパン食ったとか、そういうフラグ的な感じの?」
「ゼロとは言い切れませんが、可能性は低いです。異界体の分類は、人間が意識してできることには適用されないと考えて良いでしょう」
そこまで言って、生神は依然心配そうな面持ちの花菜子に視線を向けた。
「そこで、花菜子さんにご協力いただきたいです。巫部家にはいずれご助力をお願いする予定でしたが、今回の件は人の『縁』を視ることのできる花菜子さんが最適任者かと。長期戦になりそうですが、お願いできますか?」
「――わかりました」
石川の方をちらりと確認してから、花菜子は決然と頷いた。
「石川さんと出会ったのも、お姉ちゃんが言うような、何かのお導きなんだと思います。それに、石川さんが困ってるのにここで断るとかナイですから。得意分野の除霊じゃないですけど、全力でサポートさせていただきます!」
「ありがとうございます、ご協力感謝いたします」生神は緊張した雰囲気を和らげ、謝辞を述べた。失礼、と一瞬だけスマホを確認し、
「今、契約者全員に調整フォームを送信しました。花菜子さん、本日のご予定はいかがでしょうか」
「え」礼を言われて嬉しそうにしていた花菜子の表情が凍りつく。
「あ、空いてますケド……」
「大変助かります。では十六時から順次、契約者とのオンライン面談をお願いします。後ほど巫部家のサーバーに格納してある契約者の資料とチェックシートのリンクを送りますので、そちらを参照しつつ進めてください。個人情報の取り扱いにはくれぐれも注意してください」
「ハイ、合点承知です……!」元気の良い返事には若干の怒気が含まれていた。「けど、今回の件が終わったら絶対絶対本家に帰るって約束してください!」
「善処します」
いまだに判然としない顔は、ビジネスライクな笑顔を浮かべているに違いない。
快く協力を申し出てくれた花菜子に、石川は少しだけ救われる心地がした。本命に脈なしで可哀想ではあるが、石川の推測が正しければ、仕方のないことだろう。
「星夏」
生神は、十近く年上に見える水雫瀬を呼び捨てにした。さん付けにされている花菜子は恨めしそうに口を尖らせる。
名前を呼ばれただけで、水雫瀬は意を察して退室した。部屋を出る直前、会釈をした彼女と目が合ったが、普段使いの笑顔に、生神との関係性を知る手がかりを見つけることはできなかった。見えたのは、右手に飾られた小さな宝石の一瞬の輝きだけ。
「すみませんが、石川さんとお話しがあるので。花菜子さんも外で待っていてください」
「……わかりました」
自分も追い出されるとは思っていなかったのか、しょんぼり気落ちした様子で花菜子は部屋を出ていった。
院長室には、石川と生神、昼食のグミを咀嚼する渡会の三人が残った。
いつの間にか時刻は十三時を回っていて、南の窓に設置されたブラインドカーテンの隙間から白い光が漏れ出していた。
「石川さん。もう一度だけ、高間千穂さんについてお話しさせてください」
「……千穂は死んだ。わかってんだろ」
「お気持ちお察しします」
生神が一体どんな気持ちを察したのか、石川には検討がつかなかった。
石川の中にあるのは、悲しみではなく怒りだ。七年も付き合って時間を浪費させておいて、相手のことも考えず自分の感情本位で結婚の約束を反故にした千穂への。復縁の機会を設けてやったのに話し合いの席にもつかず、その上、子供を堕した責任すら石川に求めるように、当てつけのように死んだ恩知らずな女への。
夢の中にも現れて、不満を述べて。その上、異界体とかいう不気味な存在との契約に関係しているかもしれないなんて。悪いのは千穂なのに、どうしてこんな目に遭わなければならない。
石川は室温に温んだ麦茶で乾いた唇を湿した。紙コップを机に置き、空いた手でつい腹に触れようとして、やめた。自分を守るように腕を組む。
「石川さんもご存知の通り、千穂さんは今年の三月の末に亡くなられました」
「知ってる。何度も言うな」
敵意を露わにする契約者の様子をさりげなく窺い、生神は続けた。
「死因は、出産時の大量出血だそうです。輸血を行いましたが、間に合わなかったとのことで……幸いにも生まれたお子様は無事で、現在は千穂さんのご両親に養育されています」
「パパだぞ、お前。認知して養育費払えよ」
石川は言葉を失った。
(出産時の大量出血?)
――私は払ったよ。隼人は?
耳元で、千穂が囁く。
千穂は、何を払ったのか。ずっと意味を取りかねていた問いかけを、ようやく理解できた気がした。
千穂は、自分の命を支払ったのだ。子供を一人、産むために。
(俺は、産んでくれだなんて頼んでない)
あの時、石川は千穂に判断を委ねた。実際に子供を産むのは自分ではなく千穂で、どちらかを強制すればそれこそハラスメントだ。産めとも産むなとも言っていない。千穂は責任がどうだのヒステリックに騒いでいたが、彼女がどちらを選ぶにせよ、石川は責任を取るつもりだった。計画外の妊娠だったが、経済的な余裕は十分にあった。
それなのに、千穂は石川から離れることを選び、一人で子供を産む決断をした。
――隼人は、何で払ってくれるの?
全て自分の責任なのに、千穂はあの暗い夢の中で、自分が支払った命とつり合うだけの何かを差し出すよう求め続けていた。父親なのだから、等しく対価を差し出せと。
(千穂の自己責任だろ)
そもそも、あれはただの夢だ。千穂が実際に代償を支払うよう口にしたわけではない。
――幸せって、誰も口には出さないけど、連帯責任なんだよ?
涙に濡れた声が恨みの色を帯びる。質の悪い幻聴だった。
子供のことに関しては、石川は責任を取るつもりだった。結婚して、自分だけの家庭を持つことが石川の長年の夢だった。責任を取らない理由がない。連帯責任を求めるのであれば、結婚の約束を破った千穂の方が無責任だ。
(俺は、何も悪くない。悪いのは千穂の方だ)
幸せを手に入れるため、最大限努力したつもりだ。その努力の分け前をもらっていただけの千穂に誹られる理由はない。
(俺は悪くない)
再度、自分に言い聞かせる。心の底からこちらを見つめてくる罪悪感は無視した。
「……で?」反応待ちなのか、一時停止している生神に先を促す。
「今回の件は、どうやら『子供』――厳密に言えば『妊娠』がキーになっているらしく、他の契約者の方も、お子様が生まれた、もしくは相手の女性が妊娠中、妊娠が判明したが事情により人工妊娠中絶せざるを得なかった、流産した、妊娠させてしまった心当たりがある等、今の時点で一二九名中、九十三名の方の関連が判明しています」
「残りの三十六人は『未回答』。だが性行為の経験の有無の質問に『ない』と答えた奴はいないから、多分身に覚えがないだけのクロ。こんな時に威勢を張る馬鹿はいないと思いたい」
「『性行為をした』なのか『新しい命を生み出そうとした』なのか、どう解釈すべきかは議論の余地がありますが、この結果は今回の契約の内容を読み解く鍵になると僕は考えています」
――よろしいですね、石川さん。生神はほとんど意味のない確認を取った。
「……それだけで
「これらの行為が【罰則】に直結するわけではありませんので、それだけで、とは言い切れません。【罰則】は契約で定められた【義務】を履行しなかった結果です。その【義務】も、契約に合意したと見做される【行動】さえ取らなければ発生しません」
生神は上着のポケットからレザーカバーのメモ帳を取り出した。机の上に広げた未使用のページに、油性のボールペンを走らせる。
【条件】の者は、AしたならばBせよ。Bできなかった場合、Cしてもらう。
「異界体の契約は、基本この形式になります。『性行為をした』あるいは『新しい命を生み出そうとした』は、当てはめるとするならば、合意と見做された【行動】にあたるAの部分でしょう。意識的にできてしまうことが【条件】として採用される可能性は低いですし、【義務】にあたるBとも解釈できますが、そうなると裏返しにする――つまり、契約に合意したならば『性行為をしてはならない』もしくは『新しい命を生み出そうとしてはならない』と考える必要があります」
「契約に合意したならば、性欲を我慢せよ、か……何かキモいな」
石川も、渡会と同じように顔を顰めた。人間の性生活にまで干渉してくる奴が、高次元の存在を名乗らないでほしい。
「そうなんです、キモいんです」覚えたての言葉で、生神は同意する。
「解釈にもよりますが、『性行為をしてはならない』もしくは『新しい命を生み出そうとしてはならない』は、畢竟『何もしない』と同じなんです。異界体の契約は、何かを禁じる性質のものではありません。どちらかといえば強いるものです。何か【行動】をした結果【義務】が生じ、履行しなければ【罰則】が下る」
「だから、『ヤッた』は契約に合意したと受け取られる【行動】で、何かの【条件】に当てはまる奴がヤッたけど【義務】を果たさなかった結果が、石川のその腹――『妊娠』ってことね」
院長机から身を乗り出してメモを眺めていた渡会は、椅子の背もたれに身を預けた。
「妊娠って……」
「腹回り限定で、外から観測できる範囲で診断すれば、契約者の身体に現れている症状は産婦人科医お墨付きで『妊娠』だ。腹囲の増加のペースもだし、個人差はあるが
「男性が妊娠するなんて、身体の構造上あり得ないことですが……便宜上、そう表現することにします」
生神の顔のあたりに気まずそうな空気が澱む。
自らの症状に下された診断に、石川は肌を粟立たせた。男が妊娠なんて、とんでもなく悪趣味だ。グロテスクだとすら感じる。
――まるで妊婦みたいだ。そう思ったことは数回だけではない。努めて意識しないようにしていただけで、本当は、『妊娠』の二文字は症状を自覚した時からずっと脳内にあった。腹の膨らみを看過し続けたのは、男は妊娠しないという、覆しようのない常識があったからだ。
食欲不振に吐き気、睡眠不足。妊婦の体調の変化について多くは知らないが、そうと判じられる状態異常は慢性的に石川の全身に纏わりついていた。万全ではない身体に鞭打って、よく仕事を続けられたものだ。
「それにしても、一二九人を孕ませるなんて、とんだビッグダディだな」
「ビッグダディ……ぴったりだと思います。本件の異界体については、そう呼ぶことにしましょう」
やめろよ気持ち悪い。孕まされた側である石川は生理的な嫌悪感を覚えたが、反対意見を唱える気力はなかった。
「契約の話に戻しますが、ビッグダディと交渉するためには、まず彼が契約者と接触するのに使用した【条件】を明らかにし、彼の居る座標を割り出す必要があります」
「DM爆撃するのに共通点から裏アカ特定しよって話だったよね」
「おそらく、そんな感じだったと思います。すみません、そういうことに疎くて」
申し訳なさそうな生神に、渡会は小さく「スミマセン」と謝罪した。
「異界体の世界は整然としていて、一意性があります。正しいキーさえわかれば、自ずと座標が――住所が割れる。逆にキーがわからなければコンタクトは不可能なので、第一の目標は、契約者全員の共通項から【条件】を導き出すことになります」
生神は開けたままのメモ帳に「①【条件】」と書き込んだ。
顔にピントは合わないが、生神の後頭部は観測することができた。つむじまで模範的な形をしていて、そこから続く肩首のラインも体つきも、まるで神が作ったかのように隙がなかった。
「……高次元の存在とか、神でも霊でもないとか言ってるけどさ。異界体って、結局何なんだよ」
質問すると、生神は「恐ろしく整っている」という情報だけが伝わってくる顔を上げた。
「人間の言葉で表すと少々語弊が生じますが……一番適切なのは、システム、でしょうか」
「システムって。そんな人間性ゼロの相手と交渉とか、本当にできんのかよ」
「向こうのルールを遵守しているだけで、異界体は話が通じない相手ではありません。人間に対する誤解は大いにありますが、対話し、こちらの正当性を――こちらの世界のルールを理解してもらえば、十分交渉は可能です」
「ちゃんと人間の話聞いてくれるの?」渡会が口を挟む。
「はい。契約と同様に彼らの行動理由となっている秩序には、『平等』や『等価』も含まれ、それは人間にも適用されます。つまり、彼らと同等の権利が人間にも認められるということです」
「へえ、意外。普通に人権認めてくれる感じなんだ」
「クセはありますが、異界体はフラットです。正しい関数を入力すれば、その通りに動いてくれます。あくまで、向こうの法則でですが」
回答を得られた渡会は、ロッキングチェアで夢想に耽るように、ギコギコと上機嫌に椅子を漕いだ。
一体頭のどこがおかしかったら、そんな前向きに高次元存在を受け容れることができるのだろう。石川は異常者を一瞥した目を、全容を現さない顔に向けた。
「つーか、何で生神くんはそんな異界体に詳しいの?」
問われて、生神は苦笑したようだった。
「実は、十年ほどあちらの世界にいまして。年だって、本当は今年で二十九なんです。身体が追いついていないだけで」
「え、一個下?」生神の告白に、石川は素直に驚愕した。
「そうなんです。こんな見た目ですが、石川さんと渡会先生の一つ後輩です」
「どうしよ、ずっと学生だと思って接してた」渡会が姿勢を正す。「軽率にグミとかアメとか渡してすみません」
「いえ、全然気にしないでください。食事を忘れがちなので、とても助かります」
同年代の同性に、石川はにわかに親近感を覚えた。普通であれば何もかも持ち得るような努力知らずの男は嫉妬の対象だが、主に顔のあたりが浮世離れしているせいか、生神に対して不思議とそんな感情は湧かない。
妙に女にモテるいけ好かない年下だと思っていたが、生神にもいろいろと大変なことがあったのかもしれない。彼に対する認識を改め、石川は態度を軟化させた。部活の後輩に尋ねるように、
「じゃあ、俺たちの一個下ってことは、水雫瀬さんよりも年上?」
「はい、星夏は二つ下になります」
「どういう関係?」
「友人の妹です」簡潔な答えが返ってくる。
「本当に?」
「石川さんに嘘を吐く理由がありませんよ。それはさておき、」
愛想良く回答し、生神はそれ以上の詮索を遮った。再びペンを手に紙面に向かう不鮮明な顔立ちに、一瞬だけ苦痛のようなものが過った――ような気がした。
生神は先ほど記した「①【条件】」の隣に、「②【行動】、【義務】、【罰則】」と項目を列挙する。
「最優先事項はビッグダディとコンタクトするための【条件】ですが、彼と交渉をするためには、契約フォーマットのAからCにあたる部分、合意と見做された【行動】、課せられた【義務】、不履行によって下る【罰則】をできる限り厳密に予測しなければなりません。異界体は人間と意思疎通ができている前提で契約を持ちかけているため、こちらが何も知らないと話が進みません。ですので、可能な限り多くの情報を集め、契約の内容の仮説を立ててから交渉に臨みます」
「ろくに説明もしないで勝手に契約を持ちかけたのはあっちだろ。何でこっちに丸投げなんだよ。説明責任とかないのかよ」
「わかりません、教えてください、じゃダメなの?」
「駄目です。説明責任も質疑応答もありません。無知は話になりません」
何じゃそりゃ。石川と渡会は同じリアクションをする。
「全て知っていること、自明であることが、異界体にとっての常識です。調べてきたけど解釈が違う、はOKでも、わからないから訊きたい、はNGです。信用を損ねて、最悪取り合ってもらえなくなる可能性があります」
「めんどくせ」石川は眉間に皺を寄せる。
不機嫌の理由を語らず、こちらに考えさせた上で世話を焼かせようとする取り扱いの難しい女のようだった。何も言わないくせに、対処を間違えるとさらに機嫌を損ねるのだ。
……千穂は、最後を除いては、そんな女じゃなかった。
手のかからない、安定したメンタルの持ち主だったと思う。見えないように押し込めた心の底で、複雑な後悔が頭をもたげた。
「向こうが意思疎通できてると思ってるのが厄介なところだな」
渡会は思い出したように貧乏ゆすりを再開する。
「当てずっぽうで言うのもダメ?」
「駄目です。正答率が信用に直結します」生神は胸の前で腕を交差させ、首を横に振った。
「交渉のテーブルにつく際は、お互いに締結した契約の内容を知っていること。知識においても『平等』であることがベストです。多角的に物事を見るという概念は異界体にもあるので、解釈が違っても本質が合っていれば評価してくれますが、見当違いのところを見ていたり、何も知らないのはアウトです。交渉材料として持っていく仮説も、できる限り相手の視点に寄り添った、正確なものを用意します」
「……それ、結構ハードじゃない? 今のところ、【行動】くらいしか手掛かり掴めてなくね?」
石川は若干の危機感を抱く。『妊娠』と明言されてからというもの、形容しがたい不安感が影のように足元に蟠っていた。昔観た、パニックホラー映画の寄生生物を思い出してしまうのは何故だろう。
「こんなに多くの人間と契約した異界体は、僕が知り得ている範囲ではビッグダディが初めてです。それに、人間から認識できる【罰則】の状態がこんなに長く続くのも……」
生神はふと何かに気づいたように言葉を切った。三桁はしそうな腕時計を確認する。
石川も時計を見る。あと五分ほどで十四時、午後の診療が始まる時間だった。
「今回は、幸いにも花菜子さんがいますので。コンタクトを取るところまでは、何とか辿り着けるかと。彼女は人間の背景を見抜くプロなので、国内にいる霊能者の中では一番本件と相性が良い。彼女のお姉様方や、巫部家の他の方にも一応お声がけはしますが……皆さん大変ご多忙で。石川さんと花菜子さんがお知り合いだったのは、本当に幸運でした」
男三人の鼎談を、生神はそう締め括った。
帰宅することもできたが、石川は生神たちと一緒に医院で待機することにした。自分も契約者の一人である以上、何もしないというわけにもいかない。かといって手伝えることは特に思い浮かばないが、自宅で怠惰に動画を貪り観るよりはましだ。
それに、一人きりになれば思考の隙間に千穂が姿を現すだろう。彼女のことは、なるべく考えたくなかった。
渡会がのそのそと退出し、生神は早速ノートパソコンを立ち上げて作業を開始する。石川は来院者が来る前に、トイレを借りることにした。肥大した腹に膀胱が圧迫されているのか、近頃は小用に立つ回数が増えた気がする。
古いが埃一つ落ちていない廊下を進む。男たちが話し込んでいる間に、水雫瀬が掃除したのだろうか。本当によく気の回る看護師だ。
生神は水雫瀬のことを『友人の妹』と言ったが、真相は額面通りではないのだろう。用を足しながら、石川は考える。
石川の中で、生神は指輪の贈り主の最有力候補だった。見るからに実家が太そうな生神のことだ。学生の身分で高額な指輪を購入するのも、造作ないに違いない。水雫瀬も、当時は喜んで指輪を受け取ったはずだ。おままごとのような結婚の約束をして、女子高生の水雫瀬は恋人のいる証明として右手にエンゲージリングをつけたのだろう。なんて微笑ましい。
だが、生神が異界体の世界に行っていたという十年のうちに、水雫瀬の気持ちは離れてしまった。生神と知り合いか、という質問にあんな曖昧な回答をするくらいだ。相当冷めてしまっていることは容易に想像できる。生神が帰ってこなかったら、水雫瀬はそれこそ呪いの装備のような外れない指輪をつけたまま婚期を逃していただろう。生神のせいで叶わなかった恋もあるのかもしれない。
婚約指輪まで贈った女の心を取り戻せない生神を思うと、何の利益もないのに石川ら契約者のために奔走しているのにも頷けた。少しでも水雫瀬に良いところを見せたい気持ちはよくわかる。
推理を終えた石川は備え付けのペーパータオルで手を拭き、今時の小洒落た芳香剤が設置された手洗い場を出た。
と、裏口の方から何やら話し声がした。遠くにいてもよく聞こえる、花菜子の声だ。
「――結緋くんと、かかわらないでください」
開け放たれた扉の影から外を窺うと、昔は喫煙所だったのであろう裏手のスペースで、花菜子と水雫瀬が対峙していた。
「結緋くんがおかしくなってるのって、絶対、あなたのせいですよね」
「そう? ユウちゃんは、昔からあんな感じだと思うけど……」
隣家が落とす薄暗い陰の中に佇む水雫瀬は、いつもの微笑みを浮かべて応じた。
「あなたのせいです……! あなたが結緋くんを不幸にしてるんです!」花菜子は怒りに声を震わせる。
「それ、直接ユウちゃんに言ったら?」
年上の余裕か、調子を崩すことなく水雫瀬は返した。
お門違いだと諭され、花菜子はかっと頬を紅潮させた。叫ぶように、
「あなたには良くないものが憑いてるんです!」
「どんな?」
「血縁じゃない――けどあなたにとても近くて、すごく悍ましいものです!」
「そう……」
水雫瀬は背後を振り返った。動きに合わせ、右手の薬指の指輪が小さく光を弾く。
少し風が吹いただけで、彼女の後ろの空間には何もない。
「その人、まだ生きてる?」髪を耳にかけながら、水雫瀬は尋ねる。
「わかりません……でも、あなたと、あなたに憑いている思念が、全部の原因です。絶対。結緋くんが十年も神隠しに遭ってたのも、あなたたちのせいです」
「かもね」
他人事のように、水雫瀬は言った。
「なら、結緋くんから離れてください! 結緋くんが家に戻らずに異界体ばっか追いかけてるのも、あなたたちのせいで――」
「花菜子ちゃんは、ユウちゃんのこと、好き?」水雫瀬は唐突に問いかける。
「すっ……!」花菜子は更に顔を赤くした。
「む、昔から、お姉ちゃんたちの誰かか私が、結緋くんと結婚するってお祖母ちゃんが……結緋くんは特別な人だから、霊力が強い私たちが良いんだって、」
「じゃあ、いいじゃない。それで。わたしじゃなくてユウちゃんに言えば、解決することじゃない?」
水雫瀬の声は柔らかいが、死人の肌のように冷たい。
「でも、それ、その指輪! 何も知らないフリして!」
「ああ、これね……」
水雫瀬は右手の指輪に触れた。左手についていないだけで、誓いの宝石が飾られたそれは婚約指輪だ。
やはり贈り主は生神なのだ。一触即発のやり取りを見守る石川の視線の先で、水雫瀬は笑顔で首を傾げた。
「花菜子ちゃん、いる?」
花菜子の方へ、右手を差し出す。「わたしは別に、いらないから」
その行為に、傍観者でしかないはずの石川はぞっと肝を冷やした。
凍りついた石川とは反対に、花菜子の怒りは天井を超えたようだった。目に涙を光らせ、
「野良猫で泥棒猫のくせにっ! 巫部の女をナメないでください!」
「ちょ、花菜子ちゃん――」思わず石川が飛び出すのと同時、花菜子の手が指輪に触れた。
――その瞬間、するはずのない潮の香りがした。どこからともなく波の音が聞こえる。燃える夕陽を浴びているような、肌のひりつき。一つに圧縮された状態で押し寄せてくる、夕焼けの海辺の概念。
「星夏!」
生神の声で、我に返った。
日陰に立つ水雫瀬は、相変わらず微笑んでいる。その足元にへたりこむ花菜子は、怯え切った、真っ青な顔をしていた。全身の震えを抑えようとするように、シャツの上から右腕を握っている。
「あら、ユウちゃん。お疲れさま」
「一体、何が……」
「花菜子ちゃんがね、わたしにやばいお化け憑いてるって」
まるで今朝の星座占いが一位であったことを報告するように、水雫瀬は伝えた。
生神は苦しげな空気を滲ませただけで、返答はしなかった。尻餅をついたままの花菜子に歩み寄って、手を差し出す。
「じゃあ、また後でね。何かあったら、内線で呼んで」
何事もなかったかのように、水雫瀬は石川の横をすり抜け、院内に戻っていった。
あの一瞬の間に、何が起こったのだろう。石川はしばらく何も言えずにいたが、少しして、午後の来院者がぞろぞろと入ってくる気配を背中に感じた。
生神の手を取ってよろよろと立ち上がる花菜子に、石川も微力ながら手を貸す。華奢な身体は可哀想なほどに震えていた。
「花菜子ちゃん、大丈夫?」
「すみません、ちょっと、視界がぼやけて……」
生神と石川に付き添われて院長室のソファに座った花菜子は、申し訳なさそうに弁明しつつ目元にティッシュを当てた。
黒い水雫瀬を垣間見てしまったような気もするが、女の喧嘩に立ち入りたくない石川は、とりあえず人生の先輩の顔で可哀想な生神の脇腹を小突いた。
「大変だと思うけど、頑張ってね」
水雫瀬は指輪が外れた瞬間にフリマアプリに出品しそうな勢いだった。それほどまでに拒絶されているのだ。知らないうちに生神と自分を重ねていた石川は、気が気ではなかった。自分を愛してくれていたはずの相手にそんな目で見られていたらと思うと、崖から突き落とされたような気分になる。千穂に限って、そんなことはないはずだが……
生神は曖昧な頭部に驚きの色を広げ、恐縮です、とでも言わんばかりにぺこりと頭を下げた。石川の意図が伝わっているのか定かではない。
落ち着いた頃、花菜子は恐る恐るシャツの袖を捲った。
色白の細い腕には、絞り染めした着物のような、中央に空白のあるドット柄の痣が無数に浮かび上がっていた。群生するフジツボのようにも見える赤黒い大小の円は集合し、外側から腕を握り込む五指を形作っている。
――まるで何者かが、指輪に触れるのを阻止したかのように。
ショッキングな出来事があったのにもかかわらず、花菜子は予定通り、契約者とのオンライン面談に取り掛かった。
流石は人気の動画配信者。数十万の視聴数を稼ぐだけあり、相手を惹きつけ、話を聞き出す話法には目を見張るものがあった。男性契約者の方も、可愛くて愛想の良い女子大生が大変親身に身の上話を聞いてくれるものだから、何から何まで、聞かれてもないことまで語って聞かせていた。
そうして、本日都合のついた九人との面談が終わる頃には、終電すら危うい時間になっていた。
「お疲れ、花菜子ちゃん。大変だったね」
彼女の仕事ぶりを目の当たりにした石川は、成人して初めて女性に手ずから茶を振る舞った。
「ありがとうございます!」渡会の代わりに院長席に座った花菜子は、疲れの影すらない笑顔を見せる。
「いや〜、目がショボショボです!」
「そっち?」
同じ部屋で会話を横聞きしていた石川の方が疲労困憊していた。興味のない話を相手のテンションに合わせて長時間聞き続けるなんて、苦行でしかない。
しかしながら、自分が花菜子と、しかも無料でビデオ通話ができるのなら他の男性契約者と同じ行いをするだろう。客観的に見ることでわかることもあるものだ。気をつけよう。石川は自戒した。
一仕事終えた花菜子は伸びをする。袖口から、集合体恐怖症の人間を震え上がらせる痣が覗いた。幸いなことに痛みはないらしいが、心配だ。
渡会と水雫瀬は、十八時の閉院後に院長室に戻った。ソファで寛ぎっぱなしの渡会とは違い、水雫瀬は院内の掃除や弁当の買い出しで度々席を外したが、水雫瀬がドア横の定位置から動く度に、花菜子はびくりと反応していた。
「――今日視た九人のうち六人の方に、お母様が視えました。皆様、既に亡くなられています」
それでもしっかりと仕事をやり遂げた花菜子は、目をシパシパさせながら報告した。
「契約者ご本人様に確認したところ、ご両親の所在が不明だというお一人を除いた五人の方が、生まれた時にお母様を亡くされているとのことでした。お母様が視えない方も途中から確認するようにしたんですけど、どうやら、全員っぽくて……」
「それは、分娩時に?」渡会が質問する。
「亡くなられたお時間は厳密にはわかりません。答えてくださった方も、出産が原因だったとしか」
花菜子に席を取られた渡会は来客用のソファに腰掛け、渋い顔で腕を組む。忙しなく両足を揺らしながら、
「医療が進歩した今の時代でも、報告されているだけで年に二十人から四十人の妊産婦が妊娠及び出産が原因で死んでる。俺たちの世代だと、出生率が今より高かったこともあるけど、一年で百人近く。分娩時に限らずとも、産後一年以内に自殺する母親も少なくはない……」
「【条件】としては十分考えられます」
生神はAIを使って文字起こしした面談のテキストデータを確認している。
「最初に母親の『縁』が視えたのが、二番目に面談を行った契約者の方。三人目以降は視えずとも確認してもらうようにしましたが、今ちょうど、一番最初に面談した方から連絡が来ました。生まれた直後に、お母様を脳出血で亡くされているとのことです。九名中八名の確認が取れました」
「石川は?」
渡会に問われ――石川は、自らの過失を認めるように頷く。
「花菜子ちゃんに視えないなら、俺に未練はないんだろうけど。俺を産んだせいで死んでるよ」
父親がすぐに再婚したせいで、後妻を実の母親と思って育った。産みの母親の存在を知ったのは、弟との待遇の差に明らかな隔たりを感じ始めた思春期になってからだ。
本当の母親は産前、ノイローゼの兆候があったという。恨んで纏わりついているのなら、自分を殺した息子ではなく、自分を忘れて他の女と結婚した夫の方だろう。花菜子が背後に母親の姿を見なかったのも当然だ。
(死ぬくらいなら、産まなきゃよかったんだ)
人殺しの自覚が、心の底の暗闇から石川を睨みつけている。
母に加えて、千穂まで。子供を産んだせいで死んだ。間接的ではないにせよ、千穂も、赤子の父親である石川が死なせたようなものだ。子供さえ宿らなければ、彼女は死ななかった。
人殺しになんて、誰が望んでなろうか。だが、石川は生まれた時から人殺しで、まるでそうなることが最初から決まっていたかのように、千穂も殺した。
母親のいない自分を排斥したりしない、自分だけの家族が欲しいと、幸せになりたいと、そう願っただけなのに。
「石川さんは悪くないですよ」
表情を読み取った花菜子がフォローしてくれるが、彼女は千穂の死因を知らない。石川は力なく首を横に振った。
「出産時に母親が亡くなっている――言い換えれば、『母親の命と引き換えに生まれた』」
「まさに取引だな」渡会は毒でも煽るように麦茶を飲み干した。
「じゃあ、これを【条件】に代入したら、契約内容は――『母親の命と引き換えに生まれてきた者』は、『性行為をした』あるいは『新しい命を生み出そうとした』ならば、ホニャララせよ、ホニャララしなかった場合、『妊娠』せよ?」
「そうなります」生神は重々しく首肯した。
「確度を上げたいので、花菜子さんは明日以降も面談をお願いします」
「はい、頑張ります……!」
花菜子は胸の前で拳を作る。徹夜する勢いの生神を前に断るわけにはいかないのだろうが、彼女がまたあの労働に従事せねばならないと考えると、少し心が傷む。
「他に有効そうな共通点は見つかっていませんが、人数が増えれば新たなものが出てくるかもしれません。契約者全員を視る心づもりでいてください」
頼りにしています。生神に言われて花菜子は目を輝かせたが、ふと、不安な顔つきになる。「あの……」
「渡会先生、さっき『妊娠』って仰ってましたけど、『妊娠』ってことは、お腹の中に子供がいる状態ですよね」
「あ、ハイ。契約者の症状がそれっぽいからそう言ってるだけだけど、そうデス」
渡会ははじめての英会話のようにぎこちなく返答する。
花菜子は眉を八の字にして生神を見た。
「昼間に、契約の目的は考えなくていいって、結緋くんが言ってましたけど……『妊娠』って、それ自体がゴールじゃないですよね……?」
花菜子が言わんとしていることは、石川にも察せた。
「便宜上『妊娠』と表現しているだけで、実態がそうであるかは不明です。何せ男性の身体ですので。お腹の中身につきましても、レントゲンにもCTにも映らないので、わかりません」
でも、と何かを言いさした花菜子は、X線すら迷子になってしまいそうな生神の頭部を前に口を噤んだ。
生神は顎に手を当てた。手の形が、顔の輪郭を形取る。曖昧なもやの中では、仕事のできる人間の頭脳が高速回転しているに違いない。
「――石川さん。なるべく早く、そしてなるべく長い期間、休暇を取得されてください」
「は? 急にそんなこと言われても困る。有給にも限りがあるし、取引先だって……」
「承知の上です。会社には、こちらからもお話しさせていただきます。金銭的な補償もいたします」
――明けて月曜日。重たい腹を隠しながら出社すると、すぐに部長がやってきて、明日から三ヶ月の休暇が承認されたことを告げた。
まさか生神が。展開の速さに驚いたが、流石に一日で引き継ぎを済ませることは到底できず、今週いっぱいの猶予を願い出た。しかし、上から達されたことだからと取り合ってもらえなかった。
「大丈夫ですか石川さん。急に三ヶ月もお休みなんて、そんなヤバい病気なんですか?」
「いや……迷惑かけてごめん」
「石川さんが素直に謝ってくるとからしくなさすぎる……取引先のことは大体頭に入ってるので、ご新規さんだけ教えてください。後は何とかしますから」
負担が増えて迷惑なはずなのに、そんな素振り一つ見せずに業務を引き継いでくれる田邊の存在が有り難かった。
田邊とのやり取りは瞬く間に伝播し、午後になる頃には、石川が重病で長期休暇を取得するという話が部内に広まっていた。顔見知りの社員が次々と石川のデスクを訪れ、労りの言葉をかけ、ささやかな菓子類を置いていった。
病気ではない。まだまだ働ける。それなのに、自分ではどうしようもない身体の問題のせいで制約を受ける。苦労を重ねてようやく築き上げた、自分の居場所なのに。休暇から無事に戻ってこられたとしても、この場所が残されているとは限らない。
見回りの警備員に帰宅を促されるまで、石川は引き継ぎの資料を作るふりをして自分のデスクにしがみついていた。
終電近くのがらりとしたフロアで、机を整頓し、荷物をまとめる。重い腹に手を添えて立ち上がると、夜を透かした窓に自分の姿が映った。
異次元の存在との契約によって歪められ、別人のようになったシルエット。こちらをじっと見つめる、虚な目。
ふと、異動になった女性社員の姿が思い出された。
そうして土曜日の朝。生神に命じられた通り自宅にひきこもり、昼も夜もないような平日を過ごしていた石川は、ようやく外の空気を吸うことができた。
憂鬱さと一緒に旅行用のキャリーケースを引きずり、指定された場所に赴く。生神曰く、温泉地のホテルを一棟貸し切り、そこに『治療』の名目で契約者を集めるのだとか。何とも規模の大きな話だった。生神の財源は一体どこにあるのだろう。
バスターミナルの乗り場には、数名の先客がいた。目立たないように服装を工夫しているが、シルエットでわかる。石川と同じく、大きな腹を抱えた男たち――異界体・ビッグダディとの契約者だった。
新たな仲間の登場に気がついた契約者たちが、スマホから顔を上げ、石川の方を見る。四十年配の幸薄な派遣社員風の男に、大学名入りのエナメルバッグを肩にかけた血色の良い茶髪の学生。色黒でゴールドのチェーンを首に巻いた、ギラついた経営者然とした男。画面越しの虚勢しか張れなさそうな、色白の肥満体……ビッグダディは、ありとあらゆる種類の男を孕ませていた。
好色で知られるゼウスでさえ女を選ぶ。これでは最早無差別というより無節操だ。【条件】に合致し、たまたま禁を犯した男に片っ端から不気味なマーブル模様の種子を植え付けていったのだろう。
被害者の数人と視線がかち合ったが、挨拶を交わす気にはなれなかった。石川は申し訳程度に頭を傾け、無言のまま列に加わった。
これだけ男がいたら一人や二人話好きな奴がいても良さそうだが、契約者たちは終始無言を貫いていた。妊娠にも似た奇病という、まさしく腫れ物のような腹の膨らみが気安い接触を躊躇させているのだろう。お互いの腹を探ろうとするような気配だけが、列の間で行ったり来たりを繰り返していた。
定刻通りバスが到着するまでに、石川の後ろには二人の契約者が増えた。遅刻者はいないらしかった。乗務員の案内に従って男たちは順番に荷物を預け、あらかじめメールで通知されていた座席につく。
車内は広々とした三列シートで、石川は運転席側、隣席とは通路で隔てられたC列の一番後ろの席だった。ブランケットと枕を横によけて着席し、遠慮なくシートをリクライニングさせる。
生神からのメールによれば移動時間は一時間半ほどとのこと。契約者の体調を気遣ってゆとりのある車両を用意してくれたのだろうか。ストレスのない、快適な旅になりそうだった。
道中で乗客を拾いながら、バスは約三十ある席をほとんど埋めた状態で東名高速に乗った。
休憩のアナウンスが入るまで、車内に会話はなかった。
腹が重いだけで体調は安定している契約者たちは、うっかりセンシティブな発言をしてしまわないよう注意しながら、ガニ股気味でよちよちと降車していった。
「まるで修学旅行みたいですねぇ」
用を足すべく下車し、車内に戻る前にバスの横で肺の換気をしていた石川は、声の方へ顔を向けた。
メロンパンを手にした、休日の父親のような無難な服装の男の腹は膨れていた。
「本当に。メロンパンとか買っちゃって」人付き合いの方法を思い出し、石川は少し救われた思いで彼に応じた。
「前にね、妻がここはメロンパンが有名だって言ってたんです。じゃあ食べとかなきゃな〜、って」
「まったく、食い意地の張った妊婦だ」
石川が言うと、男は一拍間を置いてから、安心したように笑った。眼鏡の位置を戻しながら、
「そりゃあ、お腹の子に栄養回さないといけないですからね!」
「ぶっこんできますね〜」石川も口角を上げた。やっと息継ぎができたような気がした。「でも、そういうの嫌いじゃないです」
草食動物のような雰囲気の契約者は、
リフレッシュした契約者たちは、休憩前より少しだけ緩んだ面持ちでバスに揺られた。景色を楽しむ余裕もできたのか、山道に入ってからは窓の外を指差しながら隣人と会話をする声も聞こえてきた。
「まさか、あれ?」
「え〜すごい」
「最高じゃん」
緑の中に聳え立つ温泉付きのホテルを前に、契約者たちは男子高校生のような顔で感嘆の声を漏らした。出張で利用するようなビジネスホテルとはグレードが違う。長期休暇を言い渡されやや消沈していた石川も、高揚せずにはいられなかった。
「皆さん、長旅お疲れ様です」
ホテルの玄関には、見覚えのあるブラックスーツの青年がいた。生神だった。彼の顔と初めて対面する契約者は自分の視力を疑うように目を矯めつ眇めつしているが、石川にとってはもう慣れたものだ。
「遠いところをお越しくださりありがとうございます、石川さん。こんな山奥までお呼び立てして申し訳ございません」
「いや、それは全然いいんだけど。これ、全部生神君が手配してくれたの?」
「流石に全部ではありませんが、皆さんに心安らかに過ごしていただけるよう、使えるものは全て使いました」
ごゆっくりお過ごしください。生神はホテルマンのように恭しく礼をした。
石川も他の契約者に続いてフロントでチェックインを済ませる。カードキーと一緒に、『生活のしおり』と題された冊子を渡された。
「石川くん、何階?」エレベーターホールで、仁村に話しかけられる。
「四階。どうせなら露天風呂があるフロアが良かったな」
「僕は三階。お食事会場がすぐ下なのはいいけど、せっかくだし眺めのいい部屋に泊まりたいよね〜」
部屋は抽選なのかな。仁村は同じフロアの契約者と共に三階で降りていった。三階組は、他の契約者よりも心なしか腹回りが大きかった。
貸し切られたホテルでは、契約者には一人一部屋が与えられていた。契約者の数は、一週間前の一二九人から更に増加したという。他の便はまだ到着していないが、二百近い客室数を誇るホテルも、明日には一階から六階までほぼ満室となるだろう。
割り当てられた四階の客室に入るなり、石川は整えられたベッドに背中から倒れ込んだ。広々としたツインルームが、今日から石川の城だった。
腹さえ出ていなければ最高なのに。複雑な心境で四肢を投げ出し、落ち着いた色合いの天井を見つめた。
ふと思い出して、手に持ったままの『生活のしおり』を開く。ホチキス留めではなくきちんと製本された小冊子には、ここにおける生活のルールが記されていた。
まずはじめに、本部からの通知を受け取るため、手持ちのスマートフォンを館内ネットワークに接続すること。立地上電波が届きにくいため、インターネットを利用する場合は一階ロビーに設置のPCを、外部と通話する際はフロントでテレホンカードを借り、同じくロビーにある公衆電話を使用すること。
期間内は、基本的にホテルの外に出ることは禁止。やむを得ない事情で外出を希望する場合は本部まで――今回の件を取り仕切る生神の番号と、常駐の医者に繋がる緊急ダイヤルは予備の番号も含めて登録必須とされていた。ここが圏外であることは間違いないので、石川は自身のスマホをホテル名のネットワークに繋ぎ、二つの連絡先を電話帳に入力しておく。
ルールは、ホテルの出入りや外部とのやりとりに関してはやたらとうるさかったが、それ以外は緩く、消灯時刻も起床時刻も、部屋間の移動も特に定められてはいなかった。契約者だけだから、修学旅行と違って他の宿泊客に配慮する必要もない。追加事項がある場合はメールで知らせるとのことだった。
部屋のテレビではVODが見放題。温泉をはじめとする敷地内の施設は営業時間内であればいつでも利用可。食事は全て無料で、ルームサービスは部屋に備え付けの内線から。掃除や洗濯も全てホテル側がやってくれるとのこと。インターネットが使えないことを除いては、まるで楽園のような生活だった。
初日は十四時から医者の回診があるらしく、一番乗りでやってきた石川たちには自室待機が命じられていた。
(まさか渡会じゃないだろうな)
石川を診察した縁もあり、渡会は今回の件に関しては全面的に手を貸すつもりなのだろう。出発前に確認すると、自分も行くとの返信があった。個人的な興味関心が見え隠れしている感は否めないが、院長の出張には水雫瀬も同伴するに違いない。花菜子との件で優しい看護師の裏を見てしまったような気もするが、水雫瀬のことは依然好ましく思っている。異界体という概念が蔓延する『わたらい整形外科』において、彼女だけが高次元とは唯一無縁の安全地帯だった。
それにしても、失礼なまでに人を疑ってかかる渡会が、隠し事の塊のような頭の生神をすっかり信用しきっているのは妙だった。好意を露わにしている花菜子はさておき、初対面であの顔と異界体を信じろというのは無理がある。
当時高校生だった水雫瀬が生神から指輪を受け取っているから、もしかすると十年前は普通の、というより大変上等な造りの顔を見せびらかして歩いていたのかもしれない。十年ぶりに異界から帰ってきた恋人の顔に、犯罪者のようなモザイクがかかっているなんて気の毒な話だ。異界体なるものと関わると、本当にろくなことがない……
ふと沈黙が気になって、石川はテレビをつけた。午後のニュース番組では、家族連れをターゲットにしたレジャー施設が特集されていた。
円満な家族が顔いっぱいに笑顔を広げ、水遊びを楽しんでいる光景を見ていると、心が痛む。
あのまま何事もなく千穂と結婚し、千穂が命を落とすことなく子供が産まれていれば、石川もあの幸せな世界の仲間入りをしているはずだった。
努力して誰もが名前を知っている大学に入学し、同じように努力を続けて上場企業に入社することができた。運命的な再会を果たした高校の同級生と交際を始め、婚約までした。それなのに、どうしてそこで止まってしまったのだろう。何も間違っていなかったはずだ。
――いや、最初から間違っていたのかもしれない。
この世に生まれると同時に殺人を犯した人殺しで、欠けた人間だから。全てが上手くいかないのかもしれない。現に異界体とかいう謎の高次元存在に目をつけられ、知らないうちに契約を結ばされている。
ごろりと寝返りを打った。現実を直視してしまわないよう閉じた瞼の裏に、同じバスに乗ってホテルにやってきた仁村や、他の契約者の顔が浮かぶ。一週間前に花菜子の活躍によって導き出された仮定が正しければ、彼らは皆、石川と同じように母親の命と引き換えに自分の命を得ている。純粋な気持ちで誕生を祝われることなく、実母の死の影を常に引きずっている。
彼らは、どのような人生を歩んできたのだろう。最初から大事なものを欠いた自分の境遇に、どうやって折り合いをつけて生きてきたのだろう。
もし母親が生きていたらと考えたことは、一度や二度ではない。家庭を顧みなかった父親も、少しくらいは愛情の片鱗を見せてくれて、石川少年が冷遇されることもなかったかもしれない。
(――千穂、)
死の理由を知ってからというもの、彼女のことが前にも増して頭から離れない。
石川の心の底に澱んだ罪悪感が、何度断ち切ろうとしても彼女の死の責任を石川に結びつけようとする。結婚の約束を一方的に破棄し、経済的にも現実的でないだろうに出産することを選び、彼女自身の選択が元となって死んだのにもかかわらず。
(俺は、何も悪くないのに)
ただ幸せになりたかった。幸せになるために必死に努力をした。塾に通い詰めて大学に受かり、自分で生きていく力を身につけるために一人暮らしを始めた。愛のない親からの仕送りだけでは足りず、勉強の合間にバイトをしながら、GPAは常に3以上を保ち続けた。自己分析を怠らずに就活に励み、有名企業に入社した後も、営業マンとして日々精進し、成績トップの地位を築き上げた。
千穂にだって、彼女のことを思って最大限誠実に接していたはずだ。それなのに、石川の努力は実らなかった。
人生が上手くいかないのは、この腹も含めて全て、母親が死んだことが原因のように思えてならない。
憂鬱な考えを振り切るように身を起こし、石川はVODのマイリストに観たい映画を追加する作業を始めた。
千穂との初めてのデートで観た映画の主演の男女は、七年経った今でも、サムネイルの中で幸せそうに笑っていた。
受肉編 仲原鬱間 @everyday_genki
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