二章

「あれぇ? 石川さんスーツ新調しました?」

「まーな。もう三十だし、相応のを着とかないとな」

「とか言って、太ったんじゃないですかぁ〜?」

 ダメですよ不摂生は。営業の二年後輩の田邊の生姜のような手には、野菜スムージーの紙パックが握られていた。

 大きなお世話だ。石川はあんぱんのような丸顔に一瞥をくれる。太りたくて太った訳でもないのに、何て配慮に欠けた発言だろう。槍や砲丸を投擲するのが上手そうな奴にだけは言われたくない。甘いジュースで野菜を摂った気になって偉そうにしているのも気に障る……全部まとめて舌打ちで返事をすると、日傘をたたみながら田邊は肩を竦めた。「高血圧ですか?」

 機嫌を損ねた石川はむすっと黙り込む。しかしながら、新調の理由が急なウエストの増加にあることは事実だった。

 多少無理してへこませたのにもかかわらず、腹回りは最後に測った時より十センチ以上増えていた。だらしのない三十代にはならないと決めて気を遣っていたはずなのに、かなりショックだった。

 一応オーダースーツではあるものの、いつものように店舗には出向かず、自分で採寸した数値を入力する通販を利用した。予期せぬ腹の成長は石川にとって大変デリケートな問題だった。他人の意識が自分の腹に向くことに対しては特に過敏になっており、巻き尺を手にした店員が自分の腹に手を回す光景を想像すると、神経が逆立つ心地がした。

 自己申告の数値を元にして作られたスーツは、上も下も微妙にサイズが合っていない。腹部に起因する違和感を軽減するために高い金を払ったのに、逆に仕事への集中を削ぐことになっていた。

 何もかも、この腹のせいだ。石川は苛立ちを諸悪の根源に向けようとして、やめた。

 腹のことを考えると、不気味なマーブル模様がフラッシュバックする。できることなら、この休日の記憶を失ってしまいたかった。理解不能な事柄の数々が思考のキャパシティを喰らうせいで、仕事が手につかない。まるで悪質なウイルスに身体が蝕まれているかのようだ。

 受け容れ難い事実から目を背けるように、石川は外界に意識を向けた。

「ん? 何だか今日、人多いな?」

「新人の社内研修、今日からですよ。石川さんだって楽しみにしてたじゃないですか。可愛い子いるといいなぁ〜デヘデヘ、とか言って。忘れるなんて、らしくないですね」

「そっか、今日は月曜日か……」

「ええ、本当に大丈夫ですかぁ〜?」

 休日が本来の役割を果たさなかったせいで、曜日感覚は完全に狂っていた。昨晩だって、結局よく眠れていない。不安に対抗するためなのか妙に神経が昂って、空が白んでくるまで意識を手放すことができなかった。身体は疲弊しきっているのに目は冴えていて、多忙な週の金曜日をようやく迎えたような気分だ。

「朝礼の時に一人ずつ挨拶するんですって。傷が埋まるといいですね」

「うるせぇよ」

 一番直視したくない案件に無理やり注目させられて、石川は低く唸った。千穂とのことは、なるべく目に触れないように夢と現実の間に押し込んだ問題だった。

 まさか舌打ち付きで凄まれるとは思っていなかったのか、田邊は一重の目を丸くした。申し訳なさそうに肉厚の肩を窄める。

「スミマセン。そこまで重傷とは」

「……別に。かすり傷だよ」

 とは言いつつ、石川はその傷のことばかり考えていた。石川に傷を与えた犯人はもういない。勝ち逃げされたも同然だった。

「はぁ〜あ、そこそこでいいから可愛くて性格の良い子いないかな〜」

「性格が良いって、例えば?」

「いつもニコニコしてて、ヒステリックにキレたりしない。別に難しいこと言ってる訳じゃないのにさ、意外といないよな」

 そう述べる石川の思考は、同期が経営する医院で働く看護師のところへ流れ着いた。にこやかで優しい、聖母のような雰囲気の水雫瀬は、今現在、石川の理想像に最も近かった。『わたらい整形外科』には二度と近づきたくないのに、彼女がいるせいで決心が揺らいでしまう。連絡先が入手できなかったのが心底悔やまれた。彼女とどんな関係なのか謎のままの、不審な男の連絡先だけが渡会からのメッセージの中に保留されている。

「優しい母親になってくれそうな子が俺の理想なの。できれば専業でさ。俺、家庭環境良くなかったから憧れがあるんだよね。でも、最近会った子はみんな自分にばっか金かけて、子供の面倒見るとか絶対無理そう。流石にメンツあるからご飯くらいご馳走してあげるけどさ、こっちとしてはリターンゼロだし将来性もないし。普通にモヤるよな」

「ワ、こじらせてますねぇ〜」

「は?」

 訊き返すと、田邊は「いえ〜別にぃ〜」と言葉を濁した。そういえば、と取引先の話に舵を切る。

 先日第一子が誕生したという担当者に贈る祝いの品を決めかねているうちに定刻になり、朝礼が始まった。

 新卒の男性社員が懸命に自己紹介をする間も並んだ新顔を品定めしていた石川だが、水雫瀬に勝る者はついに現れなかった。

 それでも天秤は水雫瀬への未練よりも己の精神の保全に傾き、石川は現実から逃れるように、歓迎会と称して新人の女子数名を飲みに誘った。


「すみません、彼氏いるって言って断ったら印象悪いかなって……」

 石川の中で暫定一位だった女子は、飲み会の半ばでそう弁明した。

「先言ってくれたら誘ったりしないって」

「ちょっと石川さん。そんなこと言ったらそういう目的で誘ったみたいになっちゃうでしょ〜」

 ごめんねぇ、この人仕事できるけどこういうとこあるの。田邊がフォローするが、石川は納得がいかなかった。「別に、そういう意味で言ったわけじゃないし」

 新卒の女性社員たちは苦笑いを浮かべるばかり。彼氏持ちだろうと、職場の飲み会では愛想良く振る舞うべきだろう。これから一緒に仕事をすることになる仲間なのだから。金を出してもらう分際ならなおさらだ。それを知って遠慮しているのか、彼女は石川がいくら酒を勧めても飲まなかった。

 ノリが悪すぎる。石川は憮然と口を閉ざした。

 その後、田邊がオススメのB級映画の話を始め、くだらない会話に女たちは大層盛り上がった。本指名が取れずに一生ヘルプで食ってるキャバ嬢みたいな場つなぎだけが取り柄の、新規開拓もできない営業のくせに。惣菜売り場でコロッケを揚げている方が余程お似合いだ。

 石川は用途をなくした口に、ハイボールを流し込んだ。しかし、諸々のことを忘れるために注入したアルコールも、発散できないのではかえって逆効果だった。

 無意識に腹に手を置く。新卒の女も、水雫瀬も。ちょっと顔の良い女はすぐに他の男が持っていく。見てくれさえよければ受け身でいても声がかかるのだから、良いご身分だ。汗水流して働かなくても、他人の金で幸せに与れる。男に頼ることができるのは女の特権だ。

(何が『連帯責任』だ)

(千穂だって、俺の金で幸せになるつもりでいたじゃないか)

(無責任は千穂の方だろ)

 解散後、石川は駅へ向かう一団にも加わらず、一人で夜の街を歩いた。

 何も考えずに足を動かしたい気分だった。浜松町駅から目黒の家までかなり距離があるが、歩くのが億劫になったらタクシーを呼べばいい。

 時刻は二十一時を少し過ぎたところ。大門通りはまだまだ賑わっている。

 とりあえず歩き始めた石川は、寺の門の向こうに見える東京タワーに惹きつけられた。たまにはいいだろうと、進行方向にランドマークを見ることのできる寺の脇道に足を踏み入れる。街の明かりを遮るように両側に木々が立ち並ぶ夜道を行く者は、石川だけだった。

 行く先にまばらに並ぶ赤色は、道に背を向けて列を作っている、小さな地蔵の頭巾や前掛け。芝公園内の寺は名前こそ聞いたことがあるものの、何のご利益があるのだったか。由緒正しき寺なのだろうが、今は不気味で仕方がなかった。このルートを選んでしまったことを、早くも後悔していた。

 葉叢のざわめきに混じって、寺の方から囁くような、微かな音がする。過去にどこかで耳にしたことがある音だが、思い出せない歯痒さが一層不安を掻き立てる。

 なるべくそちらを見ないように早足で歩いていると、突然スマホが振動した。足を動かしながら薄目で画面を確認すると、登録はしていないが見覚えのある番号だった。

「生神です。夜分にすみません。ご体調はいかがでしょうか」

「ああ……」

 耳に流れ込む純度一〇〇パーセントの好青年の声に、胃がもたれる心地がした。

 努めて考えないようにしていたのに、生神はまた石川の日常に異界体とかいう異物を持ち込むつもりなのだろう。身なりや所作から匂わされる社会的信用をブラックカードのようにチラつかせながら、さも当然のような顔をして。まるで石川の方が常識知らずだとでも言うように。

 微妙な返事の意味を取りかねているのか、逡巡するような間を置いてから、生神は「今、お時間大丈夫でしょうか?」と伺いを立てた。

「何だよ」

 石川は食傷気味に、溜め息付きで応じた。「心当たりなんか……」

高間たかま千穂ちほさんについてです」

 石川がさりげなく後ろに隠そうとしたものに、生神は初手で言及した。

「調べたのかよ」

「申し訳ございません。こちらで少々調べさせていただきました」

「許可もなしに気持ち悪いことすんなよ」

 すみません。生神は素直に詫びた。

 知らないうちに身の回りを嗅ぎ回られて良い気はしない。他人に知られたくない傷ならなおさらだ。学校で清き交際について学んだばかりのような若造に、過去の女性問題をほじくり返されるのも腹が立つ。

「千穂とは別れた。もう関係ない」自分にも言い聞かせた。

「……高間さんとは、婚約されていたとか」

「別れたって言ってるだろ。俺にはもう関係ねえよ」

 千穂は死んだのだ。過去に婚約していようが、一方的にそれを破棄されていようが、当事者死亡で決着したことに再論の意義はない。

 それに千穂の父親にも、関わるなと断絶を言い渡されている。彼岸の千穂が親の意思に反して元婚約者の夢枕に立ったりでもしない限り、顔を合わせることもない。死が二人を分かった今、縁は完全に消滅しているのだ。

 生神が言葉を探す間の沈黙があった。更なる追及を予想し石川は身構えたが、生神はそれ以上詮索することなく引き下がった。

 石川は小さく舌打ちをした。訊かないということは、全て把握済みなのだろう。二人の間にあったことも、千穂の死すらも。

 勝手に調べるくらいなら開き直って全部独断でやればいいものを、わざわざ本人に確認してくるところが鬱陶しかった。言い訳もせず、その潔さを免罪符にしようとしているところも心底不快だ。

 ――そもそも、生神は本当に信頼に足る人物なのか。

 AIが捏造したデタラメなソースの文章でも、体裁さえ整っていれば正しく見えるものだ。高いスーツを身に纏い、丁寧な言葉を使っていたところで、生神の台詞の内容は相当に胡散臭い。大人びた服装だって、成人しているかすら怪しい実年齢を誤魔化すためのものだろう。顔の造形すら定かでない相手を信じろという方が無理な話だ。

「石川さん、」心の内を読んだのか、生神は切実とも取れる声音で呼びかけた。

「何だよ。切るぞ」

「異界体との契約について改めてお伝えしますので、どうか聞いてください。

 異界体は、任意の【条件】に当てはまる人間を契約者として選定し、契約者には何も知らせずに契約を持ち掛けます。契約に合意したと見做される【行動】が何であるかも、人間側には知らせません。その【行動】を取った瞬間に契約は効力を発揮し、契約者には契約内容を履行する【義務】が生じます。しかしながら、契約内容を知らされていないのでは、定められた【義務】も履行のしようがありません。知らないうちに不履行と見做され、例外なく【罰則ペナルティ】が科されます。【罰則】が下されてようやく、人間にも異界体の存在が認識できるようになる……認識できた時点で既に、異界体との契約は最終段階なんです。

 教えてください、石川さん。僕は、石川さんが受けている【罰則】には、高間さんが関係していると踏んでいます。貴方と高間さんとの関係が、契約を解除する鍵かもしれない」

 生神にとってはそれが事実であるのかもしれないが、常識を語るように意味不明なことを並べ立てる様は宗教勧誘と同じだった。綺麗な目をして、別の世界の神を信じているのだ。

 無宗教で正月くらいしか神の存在を信じない石川の住む世界に、当然、生神が信仰している神はいない。それなのに、生神はあたかもこの世の真理であるかのように異界体なる高次元の存在について語る。善性が人の形を成した、正しい者の代表であるかのような生神と話していると、矛盾で気が狂いそうだった。

「何が【罰則】だ……俺は何もしていない」

「人間の世界では罪に問われないことにも罰を与えてくるのが異界体なんです」

 かろうじて言葉を絞り出した石川に、生神は頭だけ別世界に迷い込んだ精神病の患者を宥めるように言った。

「お願いします、石川さん。信じ難い内容であることは重々承知しています。ですが、貴方自身の協力がなければ、契約を解除することができません。どうか、高間さんについて、石川さんご自身からお聞かせくださいませんか」

 ――発狂してしまう前に、石川は電話を切った。

 スマホを持った手を下ろすと、どっと疲労が押し寄せた。

 石川は立ち入り禁止のロープが張られた入口の脇、石灯籠の足元に腰を下ろす。腹が邪魔で上手くしゃがむことができず、後ろにずれた重心に引っ張られ、尻から接地した。

(俺は何もしてないのに、どうして罰を受けなきゃならない)

 酔いの回った重たい頭を抱える。――それなのに生神は、過去のことを掘り返して罰だの何だのと。まるで、千穂の死の原因が石川であるかのように。

 千穂は、自ら別れを選択したのだ。石川が差し伸べた手も取らなかった。

 時折車が通り過ぎるだけで、寺の横の通りに人の気配はない。春の夜の柔らかな風が吹くと、どこかから囁くような音が聞こえてくる。

 それは、立ち並ぶ小さな地蔵たちが持つ風車が回る音だった。

 ――水子供養の寺だ。音の正体に気づくと同時に思い至って、石川はぞっと肌を粟立たせた。

 ぐにゃりと世界が歪み、不気味なマーブル模様が再来する。眼前の景色と重なるようにして、白黒の混沌は緩慢に混じり合う。

 視線を下げる。窮屈そうにベルトを持ち上げる腹部。生神は千穂が関係していると言ったが、これは、この腹は、千穂のせいなのか。

(千穂は、俺を恨んでいる)

 そう考えると、全て腑に落ちる気がした。

 ――連帯責任。彼女の言葉が蘇る。自分で選んだことなのにもかかわらず、千穂は石川を恨み、悪質な嫌がらせをしているに違いない。

(千穂が勝手に決めて、勝手に死んだだけじゃないか。こんな道理の通らないこと、あってたまるか……)

 石川はスマホを持ったままの手に力を込めた。戦うべきは異界体などではなく、千穂の怨霊だ。生神とかいう得体の知れない存在には頼らず、独力で対処しなければならない。

 とりあえず、帰ったら塩を撒こう。そう決心した時だ。

「あのっ、」

 突然上から降ってきた声に、石川はびくりと身体を震わせた。

 視界の端に映るピンクのランニングシューズの爪先から目線を上げると、黒いキャップを被った女が、心配そうな顔つきで石川を見下ろしていた。

 安堵と少々の苛立ちに、はぁ、と息を吐く。

「何? 酔っ払ってるけど、大丈夫だよ」

「いえ、そうじゃなくて! ん? いや、そうでもあるんですけど!」

 大学生くらいの彼女は、ころころと表情を変えながら慌ただしく首と手を振った。動きに合わせ、明るい毛色のポニーテールが軽やかに揺れる。

 若い女に情けなく座り込んでいるところを見せる訳にもいかず、石川は腰を上げた。微弱な電流が走るように、ぴきりと腹が痛んだ。出かかった舌打ちを堪える。

「ごめんね、驚かせて……って、あれ?」

 ブランドもののキャップの下、隣国のアイドルのような完璧な造形の小顔には見覚えがあった。先週、まだ平和な生活を送っていた時に動画配信サイトで見かけた――

「もしかしてCanカン*Canaカナちゃん? 『Can*Canaふしぎちゃんねる』の」

「えっ。ご存知なんですか!? そうです! Can*Canaです!」

 嬉しい! 有名配信者はぱっちりとした瞳を輝かせ、石川の手を取らんばかりに喜んだ。

 Can*Canaは持ち前の天真爛漫さと、心霊現象にも一切動じない肝の座りっぷりのギャップが人気のオカルト系配信者だ。他の人気チャンネルのゲストとして肝試しに参加する動画が有名だが、彼女自身も強い力を持つ霊能者として、自らのチャンネルで除霊の様子を配信していたりする。

 霊能者としての実力は確からしいが、オカルトという眉唾なジャンルなこともあり、石川を含めた視聴者の多くは心霊スポットやそこで起こる怪奇現象の怖さよりも、出演者のリアクションや現役女子大生の可愛さを楽しんでいた。動画を編集する側もそれを意識しているし、事実、Can*Canaは芸能人と並んでも遜色ないほど可愛かった。

 屈託ない笑顔に、石川は荒んだ心が浄化される心地がした。

 同時に、神仏に感謝する。除霊を生業としている彼女との出会いはまさに運命だった。天は石川を見捨てていない。

「あの有名なCan*Canaちゃんがこんなところでどうしたの? もしかして、俺にやばいの憑いてたりする?」

「はい! やばくはないですけど、三人視えます!」

 さりげなく尋ねると、霊能者は元気な新人バイトのようにハキハキと答えた。

「ええ、三人も?」石川は笑おうとして頬を引き攣らせる。「ちょっと〜冗談やめてよ〜」

「冗談じゃないですって! 私の動画、ちゃーんと観てくださってます〜?」

 Can*Canaは仔リスのように片頬を膨らませる。石川の背後を指差し、

「二十代くらいの女の人と、それからご夫婦ですかね。五、六十代くらいのアベックがバッチリいらっしゃってますよ!」

 アベックて。突っ込もうとした石川の口は中途半端な形で凍りついた。

 ――千穂と、千穂の両親だ。確信が持てた。

「お知り合いの方ですかね〜? あなたとご縁があるように見えます」

「……あのさ、Can*Canaちゃんって、今ヒマだったりする?」

「何だかワケありな感じですね!」

 顔色から察したのか、Can*Canaは両手をパチンと打ち合わせた。動画と同じように、手で作った「C」を頬に当てる。

「心霊系のお困りごとなら、このCan*Canaにお任せください!」


 Can*Canaこと巫部かんなべ花菜子かなこは、メニューにクリームソーダを見つけるや否や、脇目も振らずにそれを注文した。

「そんなに遠くからでも視えるんだ?」

「はい! もちろん視えますし、気配でもわかります。良くない霊は目立ちますからね〜」

 リモート鑑定もできますよ! 撮った写真の色調を調整しながら、花菜子は自信たっぷりに言った。

 霊視ができる動画配信者なんて、胡散臭さで言えば生神とさほど変わらない。だが、何の変哲もないクリームソーダにも子供のように大喜びし、すぐさまSNSに投稿してしまうような彼女が嘘を吐いているとは到底思えなかった。

 真偽のほどはさておき、石川が抱えている問題の最適解とも言える彼女とこのタイミングで巡り会えたのは幸運という他ない。花菜子がランニングコースにしている公園内を通ることになったのも、神仏の導きなのかもしれなかった。

 スマホを操作する花菜子を見守りながら、石川はホットコーヒーを飲み下した。ほどよい苦味に酔いも覚め、ようやく悪夢の出口に辿り着けたような心地がした。昼間は女性客で賑わっているであろうカフェのパステルカラーの内装に、不安が和らぐようだ。

「ごめんなさい、お待たせしてしまって」

「いいよいいよ。ちゃんと投稿できた?」

「バッチリです!」

 花菜子が見せてくれた投稿写真には、対面に座る石川の手がちらりと写り込んでいた。いわゆる「匂わせ」だが、石川は黙っておくことにした。

 花菜子は涙袋に乗せたラメをキラキラさせ、石川の顔を覗き込んだ。

「何?」

「石川さん、顔色良くなりましたね。さっきは、何だかバッドな感じでしたけど」

「実は、嫌なことが立て続けに起きててさ。絶賛困り中だったの。でも、花菜子ちゃんと出会えて本当に良かったって感じ。まさに地獄に仏だよ」

 調子を取り戻した石川が笑みを浮かべると、花菜子は「それは良かったです!」と自分の方こそ僥倖とばかりに顔の下で両手を合わせた。

 商談の成功を確信し、石川は身を乗り出す。

「でさでさ、花菜子ちゃんに相談なんだけど、ぜひ除霊をお願いしたいというか。お化け関係で困っててさ。心霊現象っていうか。お金なら出すから」

「それはもちろんです! でも、私の方から声をかけたのに、お金をいただくなんて……何だか当たり屋みたいで、申し訳ないです」

「当たり屋って。そんなことないよ。現に助かってるわけだし。除霊の相場がどのくらいかわからないけど、お礼くらいさせてよ」

 う〜ん、と困った顔をする花菜子は、十分信頼に値する。少なくとも、石川はそう思った。

 妙案を思いついたように、花菜子は「あ!」と声を上げた。

「じゃあ、このクリームソーダで! 甘いもの大大大好きなので、それでお代ってことで!」

「本当に? なら、もっと頼んでいいよ。全部俺の奢りで」

「やたっ! ありがとうございます!」

 無邪気に嬉しがって、花菜子はメニューを開いた。「ではでは遠慮なくごちになります!」即決でチーズケーキを注文する。

「夜遅くにそんなに食べちゃって大丈夫なの?」

「意地悪ですねぇ。石川さんと会う前にちょっと走ったのでゼロカロリーです!」

 運ばれてきたチーズケーキの写真を撮り、「おいし〜」を連呼しながら幸せそうにスイーツを食べ比べる花菜子は、動画のイメージそのままの、誰もが思い描くような理想の女子大生だった。石川は、彼女が余計な知恵をつけずに、純粋なまま成長してくれることを切に願う。

 店内には、穏やかなピアノ曲が流れていた。

「……花菜子ちゃんには三人、俺の後ろに視えてるんだよね?」

 フォークを置いた花菜子は、石川の背後を――誰も座っていない、無人のテーブルを目に映した。「はい」

「若い女の人と、還暦くらいの男の人と女の人です。お三方は親子のようにも見えます」

 ――やはり。石川は確信を強めるが、一つ、不可解なことがあった。

「その人たちって、死んでる人? 幽霊ってこと?」

 千穂の父親とは、昨晩話をしたばかりだ。

 まさか、と嫌な考えが過ぎる。薄暗い部屋で首を吊る、老人の後ろ姿が見えた気がした。

 不安な考えを否定するように、花菜子は首を横に振った。

「いえ、若い女の人は亡くなられていますが、もうお二人は生きていらっしゃいます。生き霊を飛ばされている感じですね」

「生き霊を飛ばしてるって、俺を呪おうとしてるの?」

「必ずしもそうではないです。強い感情を向けるあまり、意図せず生霊となって相手に障りを与えてしまう方もいらっしゃいます」

 障り。聞こえた言葉に「罰」と同じ響きを感じ取り、石川は憤りを覚えた。

 別れを言い出したのは千穂で、死んだ責任もその選択肢を選んだ千穂にあるはずだ。それなのに、何も知らない彼女の両親は娘の肩を持ち、理不尽にも娘の元恋人を恨んでいる。

 被害者は彼女ではなく、突然婚約を破棄された石川の方だ。逆恨みも甚だしい。

 黙り込んだ依頼者に、花菜子は気遣わしげな眼差しを向ける。

「祓ってほしいってことは、何か悪いことが起きちゃってる感じですよね?」

「うん。ちょっと、体調がね……」

 言葉を濁すと、花菜子はしょげた犬のように眉を下げた。「つらいですよね」

「私が石川さんに声をかけたのは、比較的新しい、強い未練が見えたからなんです。その、既にお亡くなりになっている女の人の」

「未練?」

「はい。強めの未練です――元カノさんですかね?」

 言い当てられ、石川は言葉を失った。

「……どうしてわかったの?」

「Can*Canaがつよつよの霊能者だからです!」

「それはわかってる」石川はつい口調に滲み出た焦りを慌てて取り繕った。「じゃあ、質問を変える。花菜子ちゃんには一体何が視えてるの?」

「イメージ的には『感情の糸』みたいな感じですかね。『縁』にも近いですけど」

 花菜子は平仮名を空書きするように、薄桃色のネイルの指先で宙をなぞった。

「霊能者名乗ってるのでお化けが視えると思われがちなんですけど、私に視えているのは、霊魂というより思念なんですよね。思念と言っても、ほぼほぼイコール感情というか。ドラマとかの人物相関図を想像してもらうとわかりやすいかもです。その人に向けられている感情の種類とか大きさとか、誰のもので、どっちの世界から来ているのかとかが、毛糸みたいにカラフルな感じで視えちゃいます。特に未練とか、強く執着しちゃう系のマイナスな感情を向けられてる人には、相手が生きていようが死んでいようがい〜っぱい糸が絡みついているので、遠くからでもよく視えるんです」

「だから、俺のこともわかったんだ」

「いかにもです!」

 肯定され、石川は薄ら寒いものを覚えた。脳裏に浮かんだのは、排水溝の網に溜まった大量の髪の毛だった。死後の世界から伸びてくる千穂の未練が黒く長い髪となって、遠くからでも視えるくらい石川の身体に纏わりついている。花菜子に見えている光景を想像するだけでぞっと背筋が怖気立つ。

「……実は、元カノと良くない別れ方をしちゃってさ」

 花菜子に隠し事は通用しないだろう。石川は正直に打ち明けることにした。

「はい、そんな感じがします」石川の背後に視線を据えたまま、花菜子は頷く。「何があったか、訊いちゃっても大丈夫そうですか?」

「うん……婚約してたんだけど、一方的に破棄されたというか。急に、連絡つかなくなっちゃって」

「そうなんですね?」

「メッセージ送っても無視だし。半年経って、昨日ようやく連絡がついたと思ったら元カノのお父さんが出て、元カノが死んだ、って。もう自分たちに関わらないでくれ、なんて言われちゃうし。俺、そんなに恨まれてるかな?」

 心境を吐露すると、花菜子は緩慢に首を振って否定した。「大丈夫ですよ」

「確かに未練ではありますけど、恨みってほどダークな感情ではありません。元カノさんも元カノさんのご両親も、怒りとか悲しみとか、どうすればいいかわからない、遣瀬ない感情をちょっと多めに石川さんに向けられているだけです。

 だから、石川さんのご不調は必ずしも霊障ではないというか。無意識だけど実は激重ゲキオモな心配事への不安が身体に出ちゃってるんじゃないかな〜って思います」

「心配事?」石川は首を捻る。「そんなのあるかな……」声は僅かに震えていた。

「たとえば、『子供』とか」

 しとどに汗をかいたグラスに残された氷が、微かな音を立てた。

「元カノさんから伸びている糸で、行き先が見えないものがあるんです。石川さんの方に行くかと思いきやそうでもなくて、ふわふわ漂ってるみたいな感じになっているのが一本。他のと同じで未練的なものは感じられるんですけど、加えて庇護欲というか、母性的なものが感じられます。だから、『子供』。石川さんが増上寺あそこにいらっしゃったのも、だからですよね?」

「……違う。知っててあそこにいた訳じゃない」

 にわかに喉の渇きを覚え、石川はびしゃびしゃのグラスに手を伸ばした。指の隙間から水滴が溢れるのにも構わず、冷えた液体を喉に流し込む。

 グラスの底がテーブルにぶつかる音。

「そうなんですね、私、てっきり……」

「その、子供って、死んでるの?」

 尋ねると、花菜子は申し訳なさそうに頭を左右に振った。「すみません、わかりません」

「七つまでは神のうち的な感じで、物心つく前の子供、特にまだ自我のはっきりしていない小さな子は視えづらくて。自他の見分けがついて、感情を向ける対象を認識できるようになるまでは、基本的に私の目には映らないんです。行き先が途切れている糸を見て、何かそこにいるんだな〜、くらいしか。いっぱい集まったり、よくないものと結びついたりすると視えるようになるんですけど……」

 お役に立てなくてごめんなさい。花菜子はぺこりと頭を下げた。

「でも、心配はご無用です。元カノさんやそのご両親と一緒で、百パーセント悪いものではないことは確かです。だから、石川さんが感じていらっしゃるお身体の不調も、元カノさんたちの事を無意識に気にされていらっしゃるからだと思います」

 花菜子はそう言ったが、石川はかぶりを振って否定した。

 酒の抜け切らない頭で、何気なしにあの道を選んだ。自身の仮説を裏付けるように花菜子に出会えたことで、天の采配に感謝すらしていた。

 だが今は、そこに導かれた必然に対する恐怖の方が大きい。

 子供、赤子――意識しないよう必死に抗っても、腹の膨らみは存在を主張する。心配のしすぎで済むはずがない。

 濡れたまま太腿の上に置かれた手が、細かく痙攣する。赤ん坊を抱いた千穂が、幽冥からこちらを睨んでいるような気がした。

 千穂は、あの時できた子供を堕したのだ。仕事を辞め、婚約者という財布を失った身に子供の世話は重荷でしかない。この世に生まれてくることのできなかった赤子と一緒になって、石川のことを恨んでいるのだ。

 ――そうでなければ、理屈が通らない。

「石川さん、大丈夫ですか?」花菜子の声。

 顔を上げ、ああ、と気の抜けた返事をする。

 花菜子は平行に描いた眉をハの字にした。「やっぱり、不安ですよね……」

「元気出してください、石川さん。もし石川さんがキツめに祟られるようなことがあっても、このCan*Canaがバッチリ祓ってみせますから!」

 花菜子は石川を元気づけるように、胸の前で両手を握った。照明の光を星のように宿した瞳で、真っ直ぐに依頼者を見つめる。

 筋書き通りの救いを得た石川は、胸の代わりに腹を撫で下ろす。

「ありがとう、花菜子ちゃん。女神みたい」

「えへへ、ぜひぜひチャンネル登録お願いします〜!」

 屈託のない笑顔につられて、石川は自然と笑みを溢す。天真爛漫な花菜子を見ていると不安の影が薄まるようだ。

「花菜子ちゃんって、本当につよつよの霊能者なんだね」

「お姉ちゃんたちとは違って神様とか精霊はからっきしですけど、人間相手なら負けなしですよ! 問答無用で祓っちゃいます!」

「まじ最強じゃん。てか、お姉ちゃんいるんだ」

「四姉妹で、私は末っ子です! 残念ながら動画には出演してくれないんですけど、みんな私よりつよつよですよ〜!」

 誇らしげに花菜子が言った時、店員がテーブルを訪れた。まもなく閉店の時間とのことだった。

 がらりとした店内には、もう石川と花菜子しか残されていなかった。

「ごめんね、こんな遅くまで付き合わせちゃって」

 時刻はあと数分で二十二時になろうかというところ。石川はやたら大掛かりな心霊スポットの除霊動画を思い出しながら、

「どうしよう、祓うのって……」

「あ、じゃあ今やっちゃいますね」

 花菜子は少しだけ身を乗り出し、石川の額に手を翳した。

「――はい、終わりました」

「え?」

「私の力が強すぎてあまりに呆気ないから、動画じゃかなり盛ってるんですよね。いかにもな服着ていかにもなセット揃えたりとか。ほとんど意味ないんですけどね。何もかも、まとめて焼き尽くしちゃえば同じことですし」

「もう、何も憑いてないの……?」

「バッチリです!」

 満点の笑顔を浮かべた花菜子は、半円の形にした右手を頬に当てた。

「石川さんに絡みついていた糸は全部消えました! 石川さんに起こってる悪いことも、すぐに収まりますよ!」



 ――指輪は……うん、いいかな。

 就寝前、花菜子から送られてきたスタンプに何を返そうかベッドの上で迷っているうちに、石川は夢の中に迷い込んでいた。

 過去の記憶をなぞった夢は、カフェの席に座った千穂がモンブランにフォークを差し入れたところで一時停止していた。

 偶然ジュエリーショップの前を通りがかった時に、それとなくをした帰り。千穂が次にどんな表情でどんな台詞を口にするのかも、石川は覚えている。

「普段つけるわけでもないしね。指輪買うお金あったら、もっと二人で楽しめることしようよ」

 記憶の通りの言葉を再生して、千穂は数十万円する指輪に比べたら些細な値段のモンブランを食べ始めた。目元に淡い笑みを浮かべ、静かに口に運んでいる。

 その様子に目を細め、石川はホットコーヒーに口をつけた。

 千穂は、コスパの良い女だった。

 いつも身綺麗にしているが、何十万円もするようなブランドものは買わないし、欲しがらない。その日だって、「指輪って高いよな」と何気ないふうを装って言った石川に、「だよね」と同調した。

 家庭的で、経済的で。いい相手を捕まえることができたと思う。喧嘩と言えるほどの意見の衝突もほとんどなく、千穂はいつも石川が望む通りの返事をくれた。

「千穂ちゃんさえ良ければ、俺たち、付き合っちゃわない?」

 ――うん、いいよ。

「付き合ってもう六年かぁ。お互いにいい年だし、そろそろ結婚とかしちゃう?」

 ――そうだね。しよっか、結婚。

「俺さ、お嫁さんには家を守ってもらいたいタイプなんだよね。千穂だって、どうせ結婚したら仕事辞めるでしょ?」

 ――うん……今のままでキャリア積むのも限界あるよね。潮時かな……

 同期入社の千穂は、高校の同級生だった。属しているグループが違うせいで在学中は面識がなかったが、化粧を覚えすっかり垢抜けた彼女は、石川の基準を十分満たした。

 結婚相手として選ぶのであれば、見栄えのする派手な子より彼女のような大人しく控えめな子が相応しい。男慣れしていないのも可愛かった。

 順当にいけば石川は、運命の導きで再会を果たした高校の同級生と結婚し、ずっと望んでいた自分だけの、幸せな家庭を築くことができるはずだった。

 ――結局、隼人は自分のことしか考えてなかったんだね。

 しかし、妊娠がわかったとき、千穂はそう言った。

「何言ってんだよ。千穂のことだってちゃんと考えてるし、産みたいなら産めばいいよって言ってんじゃん」

 ――私は隼人がどうしたいか訊いてるの。産みたいなら産めばって、どうしてそんな他人事でいられるの。隼人の責任はどこにあるの。

 蓄積されていた不満が涙と一緒に堰を切ったように、千穂は一方的にまくし立てた。

 ――仕事だって、本当は辞めたくなかった。

 ――周りに迷惑かけながら仕事続けるより、結婚して専業になった方が隼人も私も幸せだって信じてた。

「俺のせいにするなよ。本当に続けたかったんならそう言えばよかっただろ」

 回想の中で反論すると、目の前でモンブランを食べていたはずの千穂が、突然フォークを振り上げた。

「もういい」

 陶器と金属がぶつかる固い音。皿の上で潰れた毛糸玉から、鈍く光る銀の枝が生えていた。

 音もなく手を下ろした千穂は、あの時と同じ、責めるような目で石川を睨みつけている。

「幸せって、誰も口には出さないけど、連帯責任なんだよ?」

 千穂の目から、涙が一筋溢れる。

「自分だけ幸せになれると思わないで」

 スポンジケーキを貫通したフォークが傾き、食べかけのモンブランは土台からべしゃりと横転した。

 ――気がつくと、石川は棺に横たわる千穂を見下ろしていた。

 真っ暗な空間に、ただ白木の棺桶が置かれている。白い花に囲まれた血の気のない千穂の顔を、石川は他人事のようにぼんやりと覗き込んでいる。

 ぱちりと、死んだはずの千穂が目を開けた。

「私は払ったよ。隼人は?」

 千穂は瞬きもせずに、石川を凝視している。

 再度開かれた口内の、がらんどうの闇。


 隼人は、何で払ってくれるの――?

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