受肉編
仲原鬱間
一章
無愛想な医者。目すら合わせてくれない。看護師は可愛い[☆☆☆☆]
看護師さんがいなかったら確実に潰れてる。辞められないようにね[☆☆☆]
地域の老人の集会所。子どもも多く、待合がとてもうるさい[☆☆]
看護師のお姉さんにはとても親身に接していただきました! また来ます!(笑)先生は論外です(汗)[☆☆☆☆]
ちかよるな[☆☆☆☆☆]
設備は貧相だけど診察は的確。近所の総合病院の息子らしい院長がすぐに紹介状書いてくれる。地元民がファストパス取りに行く場所。院長はサイコパス[☆]
同窓生の散々な評判を鼻で笑って、
どこまで、とルームミラー越しに黄色い歯を見せたドライバーは喫煙者なのだろう。乗り込んだタクシーの車内には煙草と、歴代の乗客たちのにおいが染みついていた。
きついメンソールの香りが鼻腔を刺す。カップホルダーに蓋が開いたままのボトルガムを見つけた石川は、気分が悪くなる前に目的地を告げ、今の時代には珍しいウィンドウハンドルを回した。外は、よく晴れた土曜の午後だった。
車窓から眺める公園の芝生は、麗らかな陽射しに青い。緑のフィールドはモデルルームの広告のような理想の家族連れで賑わっていた。ほとんど叫び声のような、子供たちの狂騒が道路を渡って聞こえてくる。
少しだけ、窓を閉めた。子供は嫌いだ。いや、うるさいだけの大して可愛くもない子供と、それが手本とばかりに休日を我が子との遊びに費やす、港区に家を持つ父親が嫌いだ。
石川は上場企業の営業部に所属している。入社して八年目。年収は七百万円ほどあった。
十分な暮らしをしているはずなのに、正しい者の顔をした父親たちを見ていると、後ろ指を指されているような気持ちになる。彼らが無言のうちに見せびらかしているトロフィーは、親の金で有名大学を出て、扱いやすい妻を得て、自分の子を産ませて父の顔をするという実績を解除した報酬だった。
同年代の輝かしい功績から顔を背けるように、石川はスマートフォンの画面に視線を戻した。
同窓が経営する『わたらい整形外科』は、田町駅の東口から徒歩二十分ほどの場所にあった。ピカピカした高層マンションを卑屈に見上げるような、平成一桁生まれの住宅街の片隅。
隠れ潜むように居を構えているのはやはりその性格が原因だろうか。縮小したマップで医院の立地を確認しながら、大学の同期の人となりを回顧する。
渡会自身、徹底して他人に興味がなく、経済学部の石川が一般教養のドイツ語で偶然その隣に座り、ノートを借りるついでに連絡先を聞き出せたのは奇跡に等しい。
タクシーが目的地に到着した。現金の持ち合わせがなく、運賃はカードで支払った。『わたらい整形外科』がカード決済用の端末を導入していない可能性に思い至ったが、そこはきっと、同期の誼で柔軟に対応してくれるだろう。
悪臭の檻から解放された石川は、無意識に腹に手を添えたまま、医院の前に立った。
地域の老医が死んだ後、改装もせずにそのまま使用しているという建物は、外壁を覆う施釉タイルの暗い緑も相まって、家主と同質の陰性の空気を纏っていた。
口コミによると、しみったれたカーテンが下ろされた濁った窓には、夜になるといるはずのない人影が映ったり、赤い手形が浮かび上がったりするのだという。建物まで散々な貶められようだ。
――それでも平均評価星3を保てているのは、散水ホースで植木に水をやっている、噂の看護師のおかげに違いない。
「何の木ですか?」
石川は紺色のカーディガンの背中に声をかけた。
「……さあ。気になりますか?」
水の幕に映る小さな虹を眺めながら、看護師は言葉を返した。胸の名札には、「
「気になる木、って。上手いね、水雫瀬さん。
――ううん、別に。話のきっかけになるかなと思って」
「そうですか」
水雫瀬の視線を追って、石川も樹木を見上げる。高さ二メートルほどの木の、青々とした葉の形はアジサイにも似ていた。葉に囲まれるようにして、ごく小さな白色の花がちぎれ雲のように小集団を作っている。
と、石川の背後からやってきた不気味な黒い蝶が、ボブカットの艶やかな黒髪に留まった。石川はスマートフォンのカメラを起動した。
カメラ越しに、水雫瀬と目が合う。シャッターを切るも、直前で蝶は飛び立った。
「残念。飛んでっちゃった」真っ黒な蝶は偵察でもするように近くを周回している。
「虫の知らせですかね」
「でもほら、可愛く撮れてるよ。口コミ通りなんだね」
角のない柔和な輪郭に、透明感のある肌。黒々とした楕円形の目、等。誰の目にも好ましく映る、清楚で優しげな雰囲気の女性が、少し驚いたような表情で写真に収まっていた。
石川が画面を見せると、水雫瀬は口元まで持ち上げた右手の下でくすりと笑った。
ノズルを握るすべらかな手の甲を、ちらりと光が掠める。薬指の付け根には、象徴的な宝石が飾られていた。
「石川隼人さん」
石川が口を開く前に、看護師は患者を呼び出すのと同じ調子で来院者の氏名を呼んだ。
「ああ、俺が来るって、渡会から聞いてた?」
「はい、午後に来るから、と。今はまだ、お昼休みですが」
ホースを片す水雫瀬の後ろ姿を、石川はネットオークションでようやく見つけた望みの品に、予算以上の値段がつけられていた時と同じ心境で見つめた。
戻ってきた水雫瀬に、軽く肩を竦める。
「もしかして、素っ気ないのは営業時間外だから?」
「いつもこんな感じですよ」
微笑み、水雫瀬は医院の入り口の扉を開けた。照明が落とされ薄暗い院内は、その奥に潜んでいるのであろう陰の者の姿を鮮明に思い起こさせた。
「診察は十四時から。こっちはまだ昼飯食ってんだよ」
重たい前髪の下からリノリウムの床を睨みつけながら、医者の格好をした渡会貴己はぶどう味のグミのチャックを閉じた。約十年ぶりの再会だが、相変わらずグミや飴を主食にしているらしい。
「あと、予約も受け付けてない。診てほしかったら正々堂々十四時きっかしに来い。生い先短いババアだって律儀に待ってるぞ」
「ゴメンって。頼れるの渡会クンしかいなくてさ」
「ごめんで無理が通るような便利な知り合いになった覚えはない。二日酔いで講義休んだ馬鹿に一回だけノート貸してやった。それしか接点ないくせして面の皮が厚すぎる」
せめて手土産くらい持ってこい。あらぬ方に目線を遣ったまま早口で述べた渡会は、頭をバリバリと掻いた。聞こえよがしに溜息を吐く。
「で、何。医者の貴重な時間押さえといて症状すら伝えないって。余程レアな症例見せてくれるんだろうな」
「いや、それがさ……」
石川は首を左右に回し、近くに看護師の気配がないか確認した。
「ここは泌尿器科じゃないぞ」
「ちがっ……!」
思わず腰を浮かせた時、下腹部に引き攣るような痛みが走った。
刺激しないようそろそろと着席し、宥めるように腹をさする。
まるで異常者でも見るような渡会の怪訝な表情に、自尊心が傷つく。
それでも背に腹は変えられず、観念してジャケットを脱ぎ、シャツの裾を捲った。腹に目を落とし、正直に白状する。
「最近下腹が張って……段々、大きくなってきてるんだ」
「ここは整形外科だぞ」渡会は嘆息した。「看板見たか?」
「わかってるって! でも、何かおかしくて……」
「おかしい、ねぇ……」
渡会は寝癖のついた頭を掻き回して、机に向かった。と同時にバスドラムとハイハット以外使えなくなったドラマーのように両足でリズムの違う貧乏ゆすりを始める。気が狂いそうな速度でボールペンをノックしながら、
「痛みは?」
「普段はない。急に動いたりすると攣ったみたいになる」
「便通は?」
「問題なし」
「ストレス」
「……最近はない、と思う」
ギィ、と椅子を軋ませて、演奏を終えた渡会は患者に向き直った。
「腹水の可能性も考えて、とりあえずエコーで見てみるけど。うちじゃそれ以上診れないから。わかんなかったら他のとこ行って」
顎で示された診察台に、石川は腹を出したまま横たわる。指示された通りにベルトを緩め、下腹が露出するようズボンと下着を下ろす。
「冷たっ」
「ガキじゃないんだから、じっとしてろ」
ぶぴぴ、と使い終わりのマヨネーズのような汚い音を伴いチューブから搾り出されたエコーゼリーは、冷蔵庫内の温度まで冷えていた。渡会はやる気のない風俗嬢のような気怠げな手つきでゼリーを塗り広げ、自分だけ温かいおしぼりで手を拭った。普通は逆だろう。
ホスピタリティに欠けた医者は、仏頂面で機器を滑らせる。画面内では、テレビの砂嵐のような、白黒のノイズが流動していた。内臓がはね返した超音波を可視化しているのだろうが、素人には何がどの臓器を示しているのかさっぱりわからない。
「どう? 変なとこある?」
「……今見てる。黙ってろ」
渡会はじっと液晶を注視している。
不満気に閉口した石川は、お世辞にも綺麗とは言えない、薄く黄ばんだ天井を見つめた。腹の冷たさを紛らわすために、脳裏に美人看護師の姿を思い描く。
水雫瀬の指に光るエンゲージリングを見て、ほんの一瞬「もしや」と思いもしたが、渡会に限ってそれはない。徹底して他人に興味がない男だ。世の男が習性で声をかけたくなるような可愛い看護師と二人きりでも、何の気も起こさないのだろう。
一分と経たない内に、渡会は
「何かやばいとこあった?」
「いや、何もわからなかった」
早くね? 文句を言った石川の腹の上に、使用済みのおしぼりが落とされた。
それしか手段がない石川は、生ぬるい濡れタオルでゼリーを拭う。不快なぬめりはなかなか取れなかった。
渡会は患者を放置してデスクに戻り、椅子にも座らず立ったまま背を丸めて書類にペンを走らせている。
「今日は難しいから、明日の朝イチ。紹介状書いてやるから、総合病院の
「美人?」
「同じ穴のムジナ。外で待ってろ」
渡会は一方的に患者を追い出した。口コミの通り、患者と目を合わせることは終ぞなかった。
石川は来た道を戻り、明るい待合室のベンチに腰を下ろした。冷えた腹を温めるようにシャツの上から摩りながら、もう片方の手でスマホのアプリを開き、タクシーを呼んでおく。
今日で決着をつけるつもりだったのに。明日も病院に赴くことになった石川は憂鬱に息を吐く。ToDoリストには消化できなかった「病院に行く」の一文が残されている。
――でも、まあいいか。
顔を上げる。元号を一つ二つ遡ったような空気の漂う待合には、至る所にあの看護師の心遣いが散りばめられていた。石川が座っているベンチソファにも、中身のウレタンが覗いていたであろう箇所に丁寧な補修の痕跡があり、殺風景な空間を彩るように花の形をした手編みの座布団が敷かれている。
隅の棚には今朝の新聞と、きちんと並べられた雑誌や絵本。バスケットの中には年季入りのぬいぐるみが歴戦の老兵の面持ちで整列している。渡会一人なら絶対こうはならないだろう。
「あ、水雫瀬さんだ。やっほー」
受付に姿を現した看護師に、石川は声をかけた。
「このぬいぐるみたちってさ、水雫瀬さんが洗ってあげてるの?」
「はい。うちは小さな子もよく来るので」
「へぇ。子供は好き?」
小学生の頃に観ていたアニメのキャラクターのぬいぐるみを手に尋ねると、水雫瀬は微笑むように目元を細め、首を傾げた。
「好きだった方がいいですか?」
疑問形で返された石川がベストな回答を考える間に、水雫瀬は会計の準備を済ませた。石川隼人さん、と事務的に来院者の名前を呼ぶ。
「俺は、水雫瀬さんが子供好きだった方が嬉しいな」
「では、そういうことで。嫌いではないので」
石川の願望に沿うように、水雫瀬は答えた。子供好きを自称する女よりは余程好感が持てる。石川は好意的にとらえた。
カウンターには、読み取り用のQRコードが貼ってあった。前時代的な外観から現金のみかと思われたが、意外にも時代の流れに適応しているようだ。
「その指輪、高そうだね」
三割負担の医療費をカードで支払うついでに尋ねる。暗証番号が見えないよう決済端末を覆う手には、依然指輪の輝きがあった。六角形に形取られたダイヤモンドが、一番星のようにきらめいている。
「高そうですね」横を向きながら、看護師は答えた。
「プレゼントなんだ。仕事中は取らないの? もしかして虫除け?」
「実は、取らないんじゃなくて、取れないんですよ」
「ははっ、呪われた装備なんだね」
石川が笑うと、領収書の印刷を待つ水雫瀬は目を伏せたまま口元を緩めた。「ええ、本当に……」
「実は、彼氏募集中だったりする?」
「とっとと帰れ」
いつの間にかぬらりと隣に立っていた渡会が、封筒で肩をぺしりと叩く。
いいところだったのに。石川は医者の手から紹介状を奪い取った。
「じゃあね、水雫瀬さん。また来るね」
冗談半分で手を振った石川に、看護師はにこやかに手を振り返した。
駅に向かうタクシーの中で、石川は水雫瀬の写真を眺めた。清楚で飾らない容姿には、アイドルや女優とも違う庶民的な魅力があった。
渡会の邪魔が入ったが、本当にあの指輪が取り外せないだけの呪いであるならば、石川は今すぐにでも恋人候補に立候補する所存だ。コミュ障の医者の世話を焼く看護師より、家庭で夫の帰りを待つ専業主婦の方が彼女には似合うし、その方が彼女も幸せだろう。石川には彼女の幸福を実現させるだけの財力があり、水雫瀬だって、大それた贅沢は望まないに違いない。
画面上部からマッチングアプリのメッセージ通知が顔を出したが、石川は無視した。アプリをインストールしてから二ヶ月、あんなに必死になって女を漁っていた自分が馬鹿馬鹿しく思えてくる。
写真を送るという口実で連絡先を訊けばよかった。今更思い至って、後悔する。渡会に仲介を頼むという手もあるが、自分の番号ですら出し渋る面倒な奴だ。きっと、水雫瀬本人に訊いた方が早い。
渡された封筒を顔の前まで持ち上げる。表面でのたくる筆跡は、間違いなく大学二年の時に借りたノートに並んでいたものだ。
対人能力も人望もないくせに、親が医者というだけで白衣を着て医者をやれる渡会が心底羨ましい。何も持たざる石川が、社会の荒波に揉まれながら年上を相手に苦労しいしいコネを作り売上を伸ばしている間に。可愛い看護師まで雇って。自分自身は低評価の医者のくせに良いご身分だ。
まさかあんなすぐに匙を投げられるとは思わなかったが、設備の整った大病院で精密検査を受ければ、原因不明の症状の正体も明らかになるだろう。あの時、嫌がる医者の卵から連絡先を聞き出しておいてよかった。直接行って何時間も待たされずに済む。早く終わったら、手土産でも買って水雫瀬に会いに行けばいい。
気がかりなのは、明日石川を診てくれるという渡会の姉・貴子だった。
渡会は自分の姉を「同じ穴のムジナ」と評したが、見てくれには期待するなということだろうか。高身長高学歴高収入と、一応三拍子揃っているがぱっとしない見た目の偏屈な弟を、性別だけスライドさせた姉。考えると、ぞっとした。
総合病院の令嬢に逆玉を夢見る男もいるのだろうが……勝手に想像した渡会貴子の姿をかき消すように、石川は口元に冷笑を浮かべ、首を横に振った。
『嘘つけ。何が同じ穴のムジナだ』
翌日、全ての検査を終えた石川は同窓にメッセージを送った。
渡会の姉・貴子は華やかな目鼻立ちの、まるで女優のような雰囲気の産婦人科医だった。弟と共通しているのは女性にしては高い一七〇超えの長身だけで、性格は明るく社交的。誠実に患者の目を見て会話する彼女は、コミュニケーション能力に難のある弟とは対極に位置する存在だった。
ただ、見るからに高嶺の花な容姿と医師というステータスが災いしてか、今年で三十一になるそうだが男の影はなかった。訊いたところ、結婚も考えていないという。
『嘘はついてない』
しばらくして、渡会から返事があった。
渡会は、自分が美人の姉と同格だとでも思っているのだろうか。鼻で笑いつつ、駅で買った土産を携えた石川はタクシーに乗った。明るい声で目的地を伝える。
検査の結果は日曜午後が休診で暇をしている弟のところに送ってくれるという。レントゲンにCTにMRIまでフルコースの検査を受けて疲弊している石川からすると有り難かった。休日の総合病院の混み合った待合で長時間待たされるよりも断然いい。し、再び『わたらい整形外科』を訪ねるもっともらしい口実を考えるまでもなく、大手を振って水雫瀬に会いにいける。弟と違って気が利く医者だ。
小さく鼻歌を歌いながら、車窓から家族連れで賑わう芝浦公園を眺める。耳をつんざくような子供たちの歓声も、のどかな日常を流れるBGMのように感じられた。
昨日とは打って変わって上機嫌な石川は、水雫瀬のために買った土産を手に、遺跡じみた医院の前に降り立った。不思議な腹の膨らみに対する疑念も、半分忘れて。
その顔の横を、何かの予兆のように黒い影が掠める。昨日と同じ、真っ黒な蝶だった。
鮮やかな翅を持つアゲハ蝶ならば前向きに捉えられただろうが、カラスのような漆黒の翅の蝶は不吉に感じられた。どことなく『死』を連想させる。
石川は近くを飛行する蝶がこれ以上接近しないよう手を振り回した。人間の動きに驚いた蝶は高度を上げ、視界から消えた。
――その直後、石川の背後に黒塗りの高級車が停車した。
後部座席のドアが開く。よく磨かれた革靴の長い足から順にスマートな動作で出てきたのは、皺一つないブラックスーツに身を包んだ長身の男だった。
……超イケメンだ。洗練された所作で取り出したスマホを確認する彼の姿を見て、石川は思った。しかし、次の瞬間にはどうして自分がそんな感想を抱いたのかわからなくなり、困惑する。
視力が左右共に一・二ある石川がいくら目を凝らしても、彼の顔にピントが合うことはなかった。モデルのようにスタイルの良い身体ははっきりと見えるのに、首から上を見ようとすると急に解像度が下がる。まるで顔にモザイクをかけられた犯人のようだった。髪の色と肌色が混じった不鮮明な塊から、成人しているか疑わしいくらい若いことと、芸能人のように顔が整っているという印象だけが伝わってくる。
エンジン音を響かせ、高級車が走り去った。取り出した時の動きを逆再生し、青年はスマホをポケットに戻す。
異様な頭部が、石川の方を向いた。石川は目を逸らしたが、遅かった。人気若手俳優のいいとこ取りをしたような顔だな、という感想から始まる情報の圧縮ファイルが、斜を向いた頭の中に作成されていた。
「こんにちは。貴方が石川さんですか」
警戒を強める石川に、青年はプロの調律師にチューニングされたような正しい音程、かつ耳障りの良い声で尋ねた。石川は回答を保留した。
石川の心の内を読んだのか、それともこういった反応をされることに慣れているのか、青年はちらりと苦笑いを浮かべた――という雰囲気だけが、横目で彼を一瞥した石川の脳内に伝わった。
「突然申し訳ございません。僕は――」
「ユウちゃん」
聞き覚えのある声がして、石川はそちらに目を向けた。くすんだガラスの扉を開け、医院の入り口から水雫瀬が姿を覗かせていた。
「
青年が口にしたのが、水雫瀬の下の名前らしかった。ランドセルを背負っていた時期が被っているかも怪しいのに、随分と親しげに呼ぶものだ。
「昨日ぶり、水雫瀬さん。もしかして、この人と知り合いなの?」
こんな得体の知れない不気味な男と水雫瀬が懇意の中だったらどうしよう。そうでないことを祈る石川をよそに、看護師はアルカイックな笑顔で答えた。
「まあ、そうですね」
どちらかといえばそう。完全に他人ではないが特別親しいわけでもない。五段階でいえば四番目くらいの、煮え切らない回答だった。
「何その微妙な感じ。あ、これお土産のお菓子ね。可愛いクッキー缶。女性に人気なんだって」
「ありがとうございます」
身分不詳の存在を怪訝に一睨し、石川は水雫瀬に擦り寄った。
巧妙に隠したつもりの下心を牽制するように、献上品の入った紙袋の取っ手を持つ右手に、小さな宝石がちらりと光った。
折り畳み椅子に姿勢よく腰掛けた生神は、経緯を説明する順番を渡会に譲ったらしかった。だが、渡会は生神のことも、生神が同席している理由を視線で問うている石川のことも完全に無視し、無言でPCを操作していた。
もしかすると焦燥を帯びたようなクリック音は何かの信号で、渡会はどこか別の星の生き物と交信しているのかもしれない。だから人と話すのが得意ではないのかもしれない。待機時間に辟易した石川が馬鹿馬鹿しい想像を始めた時、控えめなノックの音がした。
紙コップが乗った盆を携えて入室した水雫瀬は、渡会の分はデスクに置き、二人の来客にはそれぞれ手渡した。持ち手付きのホルダーが装着された容器の中身は、よく冷えた麦茶だった。ちょうど喉が渇いていた石川は、礼を言って口をつけた。
喉を潤しつつ、生神と水雫瀬の会話に神経を尖らせていたが、特別な関係にある男女の間で交わされるような密なやり取りはなく、善意で差し出されたものに感謝を述べるという、常識的な応対があっただけだった。
「検査の結果だけど」
麦茶を飲み干し、渡会は話し始めた。渡会が言葉を探して量の多い髪を掻き混ぜる間に、水雫瀬は慣れた手つきで空のコップを回収し、話が本筋に入る前に部屋を出ていった。
パタン、と静かに扉が閉まる音。
「……もしかして、何かやばいの見つかった?」
「いや」渡会は、頭からPCの画面に突っ込まんばかりの姿勢で応えた。
「見つかったけど、見つからなかった」
「は?」
「端的に言うと、『謎』。何もわからなかった」
謎かけのような物言いをして、渡会は備え付けの大型モニターに白黒の画像を表示させた。
「昨日のエコーの結果。骨とか超音波を強く反射する組織は白く映る。逆に、血液とか超音波を透過する液体は黒く映る」
「じゃあ、これ何?」
「だから、謎」
石川が指差す先、上辺が凹んだ曲線を描く放射型の画像一面に、白黒のマーブル模様が広がっていた。まるで墨を流したように、白と黒が混沌と入り混じり、歪み、捩れ、渦を巻いている。
「これがレントゲン」骨盤の手前に。
「CT」腹部の断面に。
「MRI」胃の真下に。
異なる手法で撮影されたにもかかわらず、全ての画像に一様に、生理的な嫌悪感を催す不気味な模様が映り込んでいた。
――腹の中に、「何か」がある。
宥めすかすように腹に添えた手の下、皮膚の奥に、得体の知れない何かが渦巻いている。脳内に広がったイメージに、全身の毛穴から汗が吹き出す。ねっとりとした分泌液は、嫌な臭いがした。
「謎って……医者だろ、お前」
冗談キツいぞ、と続けようとした口が、笑いの形を作り損ねてひしゃげた半円形になる。
「医学的に説明できない。だから謎。医者の俺にはどうにもできません」
お手上げとばかりに、渡会は肩の高さまで持ち上げた手をひらひら振った。
「匙は投げられました」
「いや、投げんじゃねえよ」唇が震える。「医者だろお前。何とかしろよ」
「開腹手術してほしかったらやってやる。でもその代わり、十割負担。何がどうなっても俺は一切責任を取らない。同意書も遺書も書いてもらう」
「いやいやいや、何で遺書? 展開がおかしいだろ……」
目の錯覚か、画像の中のマーブル模様はゆっくりと流動しているように見えた。無機的な色をしているくせに、妙に生々しい。
こんなものが腹の中に存在しているなんて、有り得ない――混乱の中で、石川はある可能性に思い至った。天啓を授かった者の顔つきで、「ああ!」
「まさか詐欺じゃねえだろうな? CGか何かで偽造したんだろ。悪い医者だなあ!」
渡会は呆れたように溜め息を吐いた。
「おめでたい頭だな。お前に嫌がらせすんならもっと別の方法でやるわ。下半身に脳が搭載されててもわかりやすいように」
「何だと!? このクソ陰キャが――」
石川は怒りのままに立ち上がり、医者の胸ぐらを掴んだ。下腹部に引き攣るような痛みが走るが、構ってはいられなかった。半分ほど中身を残した紙コップが床に落ち、リノリウムの床に内容物をぶちまける。
「そんな性格だから星1つけられんだよ! 社会不適合者が医者やってんじゃねぇよ!」
「返す言葉もないけどお前も相当だぞ。ペイハラ。ペイシェントハラスメント」
「お二人とも、落ち着いてください」
生神が間に割って入った。揺さぶられるばかりの渡会を解放し、石川の肩に手を置く。
付帯する情報だけをつぶさに伝えてくる低解像度の顔が眼前に迫り、逃れようとした膝から力が抜ける。石川はストンと椅子に尻をついた。手は震えていた。
悪い夢でも見ているような心地だった。早鐘を打つような心臓の鼓動は嫌というほど感じられるのに、自分を取り囲んでいる全てのものが頼りなく、信用ならない。床に撒かれた麦茶のにおいが、不都合な現実を覆い隠すように漂っている。
「石川さん」
床に膝を立て、生神は患者の名を呼んだ。掃除が行き届いているとはいえ、年代物の床はとても綺麗には見えない。麦茶の飛沫も散っている。
「何だよ……」騎士のように跪いた青年の顔が正体を現すことはない。
「僕がここに来た理由を説明します。信じがたい内容かも知れませんが、どうか聞いてください」
「医者が投げた匙を拾ってくれるんだと。感謝しろよ」
僅かに開けた窓の隙間から外の空気を吸いながら、渡会が言った。
真っ直ぐに石川を見つめる、決して像を結ばない顔。腹の中身と同様に、目には見えているのに実体の知れない矛盾が、誠実そうな印象だけを伝えてくる。
「何なんだよ、一体」
「――全て、『
生神は断言した。
「異界体は、人間には観測できない。でも、神や霊とも違う、人間には認知不能な高次元の存在です。石川さんの症状には、それが関係している」
「何言ってんだよ。そんなの、信じられるわけないだろ」
「お気持ちはわかります。ですが、石川さんのそのお腹は、異界体との『契約』によるものです。異なる次元にいる異界体に由来しているから、僕たち人間に中身を観測することはできません。ただ、そこに在ることしかわからない」
生神はモニターに表示されたままの検査結果に顔を向けた。
「異界体は、条件を満たした人間と、勝手に契約を締結します。ですが、その内容は人間側には知らされません。この次元にいる僕たちに認識できるのは、契約を交わした人間が、何も知らずに契約に違反した時に与えられる【
「そんなこと……」
「じゃあ、契約不履行の罰がこのサイケデリックなマーブル模様ってことか。確かに高次元のものを低次元から観測することは無理だよな」
早口で述べながら戻ってきた渡会は、椅子に腰掛けるなり貧乏ゆすりを開始した。ストレートネックまっしぐらの姿勢で画面を注視しながら、
「医者として訊くけど、これメス入れたらどうなるの」
「わかりません。試すこともおすすめしません」
そっか。渡会は一瞬だけ、玩具を取り上げられた子供のような顔をした。
「おい……おかしいぞ、お前ら。正気かよ」
意味不明なことを宣う生神も、好奇心を隠そうともしない渡会も、石川にとっては異常者だった。医者だろうが、スーツを着てネクタイを締めていようが関係ない。
「意味のわからねえこと言うなよ。【罰則】とか言われても、俺は何もしてねえし。それに内容すら知らせずに契約するとか、反則だろ」
「異界体は意思疎通ができている前提で人間と契約を結んでいます。あらかじめ定められた行動を取った時点で、契約に合意したと解釈されたり、契約不履行と見做されたりします。契約者となる人間に何一つ伝わっていないことを、彼らは知りません」
「じゃあ、どうすればいいんだよ」
「僕が対応します」
生神は言った。
「僕は、条件さえ揃えば異界体と交信することができます。認識に齟齬があるだけで、異界体は悪意があって不当な契約を持ちかけているわけではありません。交渉の余地はあります」
「早い話、生神君がその異界体と話し合って不当な契約を結ばされた哀れな債務者を救済してくれるってことでオッケー?」
「相違ありません」
生神と渡会は滞りなく話を進める。だが石川は困惑に恐れ、怒りがない混ぜになった不完全な表情を浮かべる他なかった。
神や霊とも違う、高次元の存在。異界体――今までの人生で一度も聞いたことのない未知の概念が、この部屋ではまるで一般常識のように扱われていた。
二人がぐるになって画策した、悪質なドッキリに付き合わされているとしか思えなかった。どうしてこんな真面目な顔で、当たり前のことのように話せるのだろう。
「石川さん。ご不安かとは存じますが、ご心配には及びません。先方との交渉は、僕に任せてください」
生神は再び、石川と目を合わせた――らしかった。
「しかしながら今すぐにというわけにはいかず、石川さんが契約を結んだ異界体とコンタクトし、交渉するためには、こちらに知らされていない契約の内容をできる限り厳密に予測しなければなりません。そのためには、なるべく多くの情報が必要です。
症状を自覚されたのはいつ頃ですか。その前後に起こった出来事や取った行動を、思い出せる限り教えてください」
「二ヶ月前、くらい……」
呆然と、石川は答えた。この異常な状況に適応することを、脳が拒絶していた。こんなの、危ない宗教勧誘と何が違うというのだ。
「一応、半年前まで遡った方がいい。二ヶ月でこの大きさになるとは考えにくい」
「今でなくとも構いません。連絡先をお伝えしますので、思い出した時にメールで送っていただけますか?」
石川は「ああ」とも「うん」ともつかない曖昧な音を、力の入らない唇の隙間から漏らした。
情報を遮断するように目を閉じても、不気味なマーブル模様は瞼の裏に張り付いて、アメーバのように絶えず流動を続けている。まるで、半年という時の流れを、ぐちゃぐちゃに溶かしたかのように。
――幸せって、誰も口には出さないけど、連帯責任なんだよ?
――自分だけ幸せになれると思わないで。
白黒の混沌の中に、久しく耳にしていない声が響く。
(俺は、何もしていない。何も悪くない)
頭痛がした。(俺は、何も間違えてない)
「大丈夫かよ」渡会の声がした。神経質に頭を掻き回す、バリバリという音。
「……すみません。僕の配慮が足りませんでした。石川さんの負担にならないよう、もっと気を遣うべきだった」
「いや、生神君は悪くない。連絡先は後で俺から伝えとくから……ま、うん。何卒、よろしく頼む。
――おい石川。立てるか。今日はもう帰れ。明日仕事だろ」
気がつくと、石川は自宅のベッドに倒れていた。テーブルには、渡会が持たせてくれたのか、経口補水液のペットボトルが置いてあった。
身体を起こし、室温のそれに口をつける。液体は乾き切った口内を潤し、喉を通って体内へと染み込んでいった。
十五階の窓から望む景色は、現実味に欠けた、赫赫と燃える夕暮れ。
カーテンを閉め、リモコンで室内の照明をつけた。昼白色の光に照らされた十二畳のワンルームは、いつも通り整然としている。
ほっと息をつきかけて、頬を抓る代わりに、恐る恐る下腹に触れた。腹は依然膨らみを保っている。
石川は思い出したように枕元に落ちているスマホを拾い、メッセージアプリを起動した。渡会からの安否確認は無視し、画面を下方向へスクロールする。
『頭冷えた?』『真面目に話し合おうよ』。 半年前の日付のトークルームは、既読無視の状態で停止していた。
(俺は何も悪くないのに、何が『
じわりと怒りが込み上げてきた。
文句を言ってやろうと、発信ボタンを押した。無限に続くかと思われるような呼び出し音。しかし結局、相手は出なかった。
舌打ちをして、ベッドに身体を投げ出す。
その直後、着信があった。表示されている名前は、「
迷わずスマホを耳に当てた。怒っていることを伝えるため、あえて無愛想な声を出す。
「……何だよ。拗ねてんのかよ」
「君が、石川君か」
聞こえてきたのは、低い、疲憊し切ったような老人の声だった。千穂の新しい恋人とは到底思えない。そもそも、千穂にそんな相手を作れるはずがない。
「ええと……どちら様で?」
「千穂の父だ」
「ああ、お父様でしたか!」悪い印象を持たれないよう、営業モードに切り替える。「失礼しました! はじめまして、僕は――」
「いい。君に挨拶をされても、意味がない」
千穂の父親は、諦念の滲む声音で自己紹介を遮った。
「意味がないって……」
「千穂は死んだ。もう二度と、私たちに関わらないでほしい」
――責任を感じられても、迷惑だ。
ぶつりと不快な音を残して、通話は途切れた。
千穂が、死んだ。
事実を認識した瞬間心に生じたのは、驚きや悲しみよりも、不条理に対する怒りだった。
受けた罰則の責任を求める相手は、もういない。
(連帯責任、なんて言ったのは、千穂だろう)
(どうして、俺だけこんな目に)
石川は拳を振り上げた。
しかし、自分の腹を殴りつけることはできなかった。
握った拳が枕に沈む、腑抜けた音がした。
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