第44話 海の底から、新しい人生

 まだ100回も上り下りしていないであろう階段。

 だけど、すでに目を閉じていても歩くことが出来る。


 それほどに、この家に馴染んできている。


 階段を降り終わると、リビングから光が漏れているのが目に入った。



(汐美さん、起きてるんだ)



 今は深夜2時。

 ほとんどの人は寝ている時間だろう。


 赤ちゃんの夜泣きも聞こえていなかったし、起きているのは意外だった。



 ゆっくりとリビングのドアを開くと、

 とっさに隠したのは、アルバムだろうか。



「どうしたの? 青海ちゃん」

「ちょっと飲み物が欲しくて。汐美さんこそ、何をしてたの?」

「赤ちゃんのお世話をしていて、ちょっと休んでただけよ?」



(嘘だ)



 あまり長く一緒に過ごしていない葵生でも簡単に看破できるほど、汐美は嘘が下手だ。

 嘘を吐く時は必ず露骨に目を逸らして、貼りついたような笑みを浮かべる。

 


「汐美さん」

「なに? 青海ちゃん」

「『早乙女葵生』。それが僕の本当の名前」



 息を呑む音が、はっきりと聞こえた。


 汐美の顔色が、みるみる白くなっていく。



「……記憶が?」

「うん。戻った」

「そうなのね……」



 一瞬目を伏せた後、突然パンと手を叩いた。



「じゃあ、お夜食に何か食べない?」

「ううん。今、そんな気分じゃないの」

「えー。ちょっと付き合ってよ。私お腹空いちゃって。お茶漬けなんだけど、何味がいい?」



 無理に明るく振舞っているのは、明らかだった。



「さっき隠したアルバム、本当の青海――娘さんのものですか?」

「そんなことどうでもいいじゃない」



 汐美の目をのぞき込むと、少し虚ろになっていた。

 まるでここではないどこかを見ているかのように、葵生の目には映っている。



「じゃあ、僕の話を聞いてほしいの」

「……思い出した過去のこと?」

「そう。とっても大事な話」

「そんなこと、どうだっていいじゃない。記憶を思い出しても、あなたは私の娘よ」



 葵生は思わず、息を呑んだ。

 汐美の言葉が、どれだけ嬉しいことか。

 だけど、ここで終わらせてはいけない。



「僕も、今でも母親みたいに思ってる。記憶を思い出しても。だから、聞いてほしいの」

「うれしいわ。これからもずっと親子。この話はそれでおしまいでいいじゃない」

「違う」



 葵生は、金色のミサンガを握りしめて、呑気に寝ている赤ちゃんを一瞥した。



「ちゃんと話さないと、赤ちゃんと向き合えない」



 なんだそんなことか、と言わんばかりににっこり笑う汐美。



「大丈夫よ。赤ちゃんのことも、青海ちゃんも、私がまとめて面倒をみてあげるから」



 まるで、陶器でできた仮面のような笑みだった。



「青海ちゃんは生きてくれているだけでいいの。全部全部、私がやってあげる。だから安心して。何も迷うこともないの。お母さんがいるんだから」

「悩まない人生なんて、存在しない。記憶喪失する前の僕は悩まない人生を進もうとしたけど、未来も捨てちゃった」



 未来を捨てないと、悩まない人生にならなかった。

 別に、それが悪いとは葵生は思っていない。

 そうしないと生きられない人間なんて、ごまんといるだろう。


 だけど、未来があるのに悩みがない人生なんて、きっとどこにもない。



「僕は今、未来に生きようと思ってる。だから悩みたい。汐美さんと一緒に、悩みたい」

「……そうなの」



 それから、汐美は何も話さなかった。

 何を考えているのか、ずっと天井のシミを見つめている。



「汐美さん……」

「ねえ、青海ちゃん」

「葵生です」



 一瞬の間。

 葵生は目を逸らさなかった。



「……葵生ちゃん」

「はい」

「聞かせてくれる? あなたのこと」

「うん」



 それから、葵生は話し始めた。


 どんな家庭に生まれたのか。

 どんな人生を歩んだのか。

 ケンの事も、女体化したことも、何もかも包み隠さず話した。


 話しを聞き終わった汐美は、かなり困惑していた。



「……話してくれてありがとう。正直、まだ受け止めきれないわ」

「そう」

「でも、うん。大丈夫。葵生ちゃんは私の娘よ」

「……うん」



 息が聞こえるだけの静かな時間。

 先に口を開いたのは、汐美だった。


 

「そうね。じゃあ、今度は私の話を少ししましょうか。年の分だけ長くなっちゃうから、ちょっとだけね」

「うん」



 話し始めたのは、夫との馴れ初めだった。

 幼馴染として出会って、幼稚園から高校までずっと一緒だった。

 高校卒業と同時に結婚した。

 

 夫は家を継いで漁師。

 汐美は漁協で働いていた。


 子宝にも恵まれて、産まれたのが青海――本当の青海だった。


 順風満帆で、幸福な生活。

 それは長く続かなかった。


 ある日、夫は交通事故で亡くなった。

 死ぬなら海の上で。

 それが口癖だったのに、陸の上で肉の塊になった。


 そこまで話し終わった汐美は、お茶をすすった。



「あの、娘さんは――」

「ごめんなさい。今はまだ話せないの。まだ、受け止めきれてないから」

「そう、ですか」

「……私のこと、嫌いになっちゃった?」



 首を横に振る葵生。

 


「母親として失格よ?」

「さっきも言ったけど、僕の母親は小さいときに死んじゃった。それから父親が狂って、働かなくなって、平気で暴力を振るうようになった。それと比べたら、汐美さんは仏みたい」

「ふふ。微妙な気分ね」



 汐美さんはまんざらでもなそうにハニカんだ。



「じゃあ、体の傷は親から……?」

「違う。これは、僕の大事な人がつけてくれたもの」



 心の底から愛おし気に、噛み痕をさすった。 


 汐美からの生暖かい視線を感じて、葵生は顔を上げた。



「本当に似ているわ、その仕草」

「そうなんですか?」

「ええ。あの日も、あの子――」



 汐美は、そこで言葉が詰まった。

 突然泣き始めて、口から嗚咽おえつと掠れた「ごめんなさい」を漏らす。


 その間、葵生は背中をさすり続けた。


 ふいに、本当の青海が死んだ日のことを思い出してしまったのだろう。



(多分、海で死んだんだ)



 陰口で断片の情報だけは聞いたことがあった。


 葵生の推測に過ぎないけど、おそらくは当たっているだろう。



(四十九日の日に、僕を拾った)



 四十九日は死後、区切りとなる重要な日だ。

 来世の行先が決められる日。

 

 そんな日に、死んだ娘と同じ年ぐらいの少女を拾った。


 汐美から見れば、まるで娘が生まれ変わったみたいに見えただろう。



(あ、寝ちゃった)



 泣き疲れたのか、汐美はテーブルに突っ伏したまま眠ってしまった。


 寝室から毛布を掛けてあげると、寝顔が少し柔らかくなる。



(赤ちゃん)



 今なら、少し向き合える気がする。


 ベビーベッドの横に立って、恐る恐る指を近づける。

 すると、赤ちゃんは小さな手で握ってくれた。


 弱々しくても、しっかりと。


 きっと、無意識の行動なのだろう。

 だけど、葵生は嬉しくて、胸を締め付けられた。



「……笑未えみ



 葵生が考えた名前。


 葵生の存在に気付いたのか。

 ゆっくりと目を開けた笑未は、無邪気な笑みを向けてくれた。






――――――――――――――――――――――――――――――

次回、最終回です

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る