タワーマンション (一年前)
▼空に突き出たペントハウスは、まるで地上の楽園のようだった。
室内には最新鋭のホームシアターがあり、映画館のような迫力ある映像が流されている。隣接するワインセラーには、世界各国の厳選された一品が収められていた。
健康維持のためのジムスペースには、各種トレーニング機器が完備され、別室にはサウナやジャグジーまでもが備わっている。
都市の景色を一望できるプール付きのテラスには、三人の大人がのんびりと座り、南国のような日光浴を楽しんでた。
「今日は最高やな」
アロハシャツを着た竜一は、プールサイドのチェアに腰かけ、イタリア製のタバコをくゆらせた。「最高のアート日和や」
「日蝕でっか。こっからやったら、ええ感じで見えはるやろな」
テーブルに置かれた紅茶を一口飲みながら、和服姿のご婦人が答えた。
竜一はウンと頷く。
「……いや~、最高の眺めですな。いつか私もこんな所に住んでみたいものです」
一拍遅れて、かっぷくの良いスーツ姿の男性が、手を擦り合わせながら感嘆の声をあげた。
竜一よりも十歳以上は年上だろうか。ひたいに汗をにじませている。
▽〈竜一 +210㎉〉
▼「ここも飽きたからそろそろ売るつもりやねん。どや、社長さん買わへんか? 安うしとくで」
と竜一は冗談めかしてスーツ姿の男に言った。
「いえいえ滅相もありません。欲しいのはやまやまですが、先立つものがなく……」
そう言うと、社長と呼ばれたスーツ姿の男はハンカチで汗をぬぐった。「これほどの素晴らしいお住まいなのに、手放されてしまうのですか?」
「そやな」
竜一はそっと葉巻を灰皿の上に置いた。
「ワイはいっぺん〝タワーマンションに住む〟っちゅう経験をしたかっただけやからな。まぁ、あとはただの資産運用やで」
周囲をほどほどの強さの気持ちのよい風が吹き抜けていく。どういう建築構造になっているのか、風は強すぎず弱すぎない。
竜一はチェアに横たわると足を組んで投げ出した。
「体の加減はどないですの?」
ご婦人が和服の裾をおさえながら竜一にたずねた。
「医者にあれこれ止められとるけど、今は好きなもん食って好きなことしとる。そっちの方がストレスなくて調子ええみたいや」
と竜一は寝そべったまま腕を曲げ、力こぶを作ってみせた。
それを見たご婦人はゆっくりとうなずく。
「竜一はんは、だらだらと長う生きるより、太うて短い人生を選ぶお人やね」
カチャ
ドアを開け、背の高い男がヌッと現れた。
竜一の息子、三島龍二だ。
彼は無言で頭をさげると、小さなトーストセットを三つテーブルに置いて、再び部屋の奥へと戻っていった。
「精悍な息子さんやね」
ご婦人が目を細めてテーブルの上をながめた。トーストには様々なトッピングが乗せられている。
「『自分の力で成功したる』って息まいて、一人暮らしして一丁前にプロボクサーなんてやってんねん」
竜一は片方の眉を下げて部屋の奥を見た。
「ほんまに」
そう言うとご婦人は、妖艶なしぐさで大粒のサクランボを口に運んだ。
男性二人はその姿にしばし見とれている。
ご婦人は出された軽食を食べると、ためらいながらおずおずと風呂敷包みを差しだした。
「三島はん、おそうなってしもたんやけど……今度、うちが正式に老舗料亭〝幸災〟を継ぐことになったんやわ。それで……」
「おう。みなまで言うな、わかっとる。悪いようにはせぇへんから全部まかせときぃ」
竜一がそう言うと、ご婦人はパッと顔を輝かせた。
「これやから好きやねんなぁ……ほんまに頭が上がらへんわ。三島はん、これからもよろしゅうお願い致します」
「おう」
すぐ横で二人のやりとりを聞いていた社長が、慌てたようにカバンから大きな封筒を取り出した。
「ご一緒するような形になってしまい大変恐縮ですが、西区の開発案件もお引き受けいただけないでしょうか? このプロジェクトは地域の雇用創出に大きく寄与しますし、もちろん環境にも配慮しています。多少のリスクは伴いますが、成功すれば莫大な利益が見込まれますし……」
社長はテーブルの上にずらずらと、封筒から出した資料を広げた。
「共同出資の件やろコレ、おもろそうやんか。わいのネットワークをつこて成功させたるわ。地元が賑やかになるんやったらワシもひと肌脱ぐで」
竜一は資料を見ながら、ふーっとタバコの煙を吐き出した。
「ありがとうございます。さすが三島さん」
社長は汗をぬぐいながら深々と頭を下げた。
▽〈竜一 +310㎉〉
▼二人のお客が帰ると、奥から龍二が出てきた。
奥でトレーニングでもしていたのか、パンプアップした筋肉が彫刻のように浮き出ている。龍二はプールサイドに腰をかけた。
竜一の方はアロハシャツを脱ぎ捨ててプールに入ると、さんさんと降りそそぐ日の光を浴びながら気持ちよさそうに泳ぎ出した。
「おとん、あの人ら大丈夫なん?」
龍二は足をプールに垂らし、水面に浮かぶ煌めきをかき混ぜながら口を開く。
「大丈夫や。女将は身内のようなもんやから守ったるけど、社長の方はいざとなったら切りゃあええ」
竜一は水面に顔と腹だけを浮かばせながら、ニヤリと口元をゆがめた。
太陽に影がさし始めた。
雲ではない。
日蝕だ。
「おてんとさんが隠れよる」
龍二はサングラスをかけ目を細めながら空を見上げた。
「それじゃあかんで。ボクサーなんやから目は大事にしときぃ」
竜一はプールから出ると黒い遮光板を息子に手渡した。そばには天体観測の本まで置いてある。
「オトン、マジメやなぁ」
と龍二は苦笑した。
「現代アートはfeelよりthinkや」と竜一はわけしり顔で言った。「ヨーロッパの貴族階級の趣味は、芸術と研究なんやで」
「……食材がぎょうさん入っとったけど、自炊でもしとるんか?」
龍二は興味無さそうにキッチンの方を指差すと、赤いトロピカルドリンクにささったストローを咥えた。
「ああ、あれな。専属の調理人を雇っとるんや」
「ほんまか! 外食とかはせぇへんの?」
「もうレストランで食べるディナーには飽きてしもたんや。客としてレストラン行くより、経営者としてレストラン運営する方が、ずっと楽しく感じんねん」
「……やっぱりオトンは桁がちゃうな」
龍二は心底感心したような声をあげた。
▽〈竜一 +70㎉〉
▼太陽は、徐々にその輪郭をぼかしながら、姿を変えていく。
竜一は遮光板をのぞきこみながら口を開いた。
「新人王とったんやってな。どんなもんかと思てたけど、才能あるやんか」
「まぁ、な」
龍二は照れくさそうに鼻をかいた。
竜一はそんな龍二に愛おしそうな眼差しを向ける。
「とうぶん続けるつもりなんか?」
「そやな。まずはランキング上げていって、東洋太平洋に挑戦やな」
龍二はそう答えると手すりにつかまって、目の前に広がる大空と白い雲を見渡した。
▽〈龍二 +150㎉〉
▼「まぁええことや。若いうちは何にでも挑戦してみたらええ」そう言うと、竜一は側にかけてあったバスローブを羽織った。「困ったときは遠慮せえへんと言うてや、いつでも助けたるさかい」
竜一と龍二は連れだって部屋の中に入っていった。床に敷かれた柔らかい絨毯の上を歩いていく。
廊下のつきあたりの扉を開けると、ガラリと雰囲気が変わった。
その部屋はモダンなアート作品で、ぎっしり埋め尽くされていた。壁には価値ある絵画が何枚も飾られ、屏風には細やかな絵が描かれている。
竜一は白い手袋をつけて、ガラスケースの中に並ぶ陶磁器や織物のあいだから、一つの弦楽器をとりだした。
「それはじめて見るわー。さいきん買ぉたんか?」
龍二が聞くと、竜一はにんまりと笑顔を浮かべた。
「グァルネリのヴァイオリンや。こいつはごっついで。サザビーズのオークションでは九億の値がついとるからな」
竜一はそのヴァイオリンを抱えて窓際へ行くと、日蝕をバックに写真を撮り始めた。
龍二もサングラスをかけると、笑顔で一緒にガッツポーズをとる。
「そろそろやな」
竜一はスマホを開くと〝日蝕イベント・¥5000000争奪戦〟と書かれたサイトにログインした。
【あと少しでゲーム開始です。みなさん楽しんで下さい】というメッセージと共に、今撮った写真をアップする。
瞬く間に一万、二万と閲覧数が増えていく。
「イベントって、あの賞金百万円のやつやんな?」
と龍二が横からスマホを覗きこんだ。
「せやせや。都内に数ヶ所、ワイのコレクションを展示してんねん。制限時間内に全部回れたモンの中から、抽選で五人に百万円をプレゼントや」
「全部で、五百万か~!」
龍二が大袈裟に手を広げると、竜一は笑って言った。「はした金や」
スマホの画面には、コレクションの写真と、それぞれの位置情報が表示されていく。
〝マルク・シャガールの油絵〟 35°40'16.8"N 139°45'56.9"E
〝マルセル・デュシャンの絵画〟 35°42'36.1"N 139°48'42.0"E
〝アンディ・ウォーホルの版画〟 35°39'37.8"N 139°43'45.4"E
〝エドワード・スタイケンの写真〟 35°43'44.5"N 139°43'11.3"E
〝ウェブレン・ルソーの肖像画〟 35°41'44.0"N 139°42'04.8"E
スタートの合図が鳴った。
それと同時にSNSは激烈な盛り上がりを見せはじめる。
大勢の人たちが興奮したコメントや写真を上げ、偶然コレクションの近くにいた者からは、現場の様子を捉えたショート動画が次々と投稿されていく。
竜一はゾクッと身を震わせた。
スマホの画面いっぱいに映し出されているのは、我先にと争いながら右往左往する人間の姿だ。
▽〈竜一 +770㎉〉
▼「羽振りええなぁ。どんだけ稼いどんねん」
龍二は苦笑しながら言った。
「金を稼ぐのは悪いことやないで。日本人は金持ちを拒絶しがちやけどな。公共サービスが安く使えるのは、高額納税者がおるからやし、ホテルのスイートルームをなくしたら、そのぶん普通の部屋の料金が上がるんやで」
「そらそやな」
「龍二。このイベントの目的はな、世界的に有名な芸術品をみんなに見てもらうことやねん。普段はどれもが遠い国にある縁遠い品やからな。理想は日本全体をもっと豊かにして、みんながアートに触れられるようにすることやけど、今はこれで精一杯や」
そう言うと、竜一は窓に近づいた。
太陽がその光を失っていく中、彼は満足そうな表情で下界の景色を見下ろしていた。
▽金と権力を手に入れることで、竜一氏は捕食者の頂点に君臨したようですね。
若いころからの努力が実を結んだわけです。
さぁ。
ここでは、彼をプロファイリングしていきましょう。
竜一氏は物の価値をその実用性ではなく、希少性やステータス性で判断しています。
他人がおいそれと手に入れられない物だからこそ〝本当に価値がある〟と考えているのです。
彼が所有する高級マンションには、様々なオプション設備が付いていますが、彼にとってもっとも重要なオプションは〝羨望の眼差しでこちらを見上げる人々〟です。
そうです。
庶民が豊かになることなど、本心では全く望んでいないのです。
〝大多数の者が、暗闇と貧困の中を這いずり回っている〟という現状こそが、彼にとってベストの状態です。
もし庶民が悲惨な暮らしから脱してしまえば、自身は何も変わらなくても、幸福ではなくなるのです。
はい。
そうです。
これが彼という人物です。
考えようによっては、竜一氏が昇りつめたのが、ヤクザの親分程度で良かったともいえますね。
彼がもし国家元首ほどの権力を持っていたら、自分のプライド㎉を満たすために、戦争や核兵器の使用に踏み切っていたかもしれません。
『国の威信を取り戻す』などという大義名分・建前のもとに。
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