少女は少年の帰りを待つ
少女はどれほど自分が兄にとっての重荷になっているかを痛いほど理解している。
生まれつき病に侵された身体。兄の支えなしでは、一日たりとも生きていけない自分。
その存在が、どれだけ兄の人生を縛りつけ、足枷となっているのか――嫌でも感じざるを得ない。
「いつか見捨てられても仕方がない。それが当然の結果だ」
そんな言葉を胸の中で何度も繰り返し、覚悟を決めているはずだった。
それでも――。
今もこうして生きていられるのは、兄であるブランが全てを犠牲にして、自分を支え続けてくれているからだ。
彼の献身的な愛情。それはヴィオレにとって何よりも大きな救いであり、同時に消えない罪悪感を抱えさせる原因でもあった。
「私は兄さんの人生の足を引っ張っている――」
その思いが、ヴィオレの心を締め付けて離さない。
彼に感謝している。心の底から感謝している。それは紛れもない事実だ。
けれど――。
感謝だけでは拭いきれない、自分への憎しみと後悔が彼女を苛み続けていた。
兄の笑顔を見るたびに、それを台無しにしているのが自分だと思うたびに、ヴィオレの胸には鋭い棘が突き刺さる。
彼にとって、自分は何の役にも立たない。むしろ、いなければもっと幸せだったはずなのだ――と。
ヴィオレには、両親の記憶がない。
物心つく頃にはすでに孤児院での生活が始まっていた。
その日々は退屈で、そして鬱屈としたものだった。
孤児院を管理している老夫婦は、いつも嫌そうな顔をし、病に伏せた自分を疎んでいることがひしひしと伝わってくる。
だが、それでも文句など言えるはずもなかった。
ここが唯一の居場所だっだから。
――兄がいなければ、病に伏した自分は路上で命を落としていただろう。
そんな暗い日々の中で、唯一の救いだったのが――あの草原で過ごしたひとときだった。
『ヴィオレ、ついたぞ』
小さな背中に自分を背負いながら、丘を登り切った兄。
彼の肩越しに見えたのは、どこまでも広がる青空と、風に揺れる一面の草花だった。
『わあ……』
生まれて初めて、この世界が美しいと思った瞬間だった。
それを目にしたとき、自分はこの光景を見るために生まれてきたのだと――そう思ったほどに。
だが、その幸せはあっという間に過ぎ去り、また退屈で辛い日々が戻ってきた。
孤児院にいる子どもたちが、次々と魔力の色を明らかにしていく中で、自分たちもいずれそうなるのだと聞かされていた。
そして、魔力の色彩が「未来の可能性」として評価される世界では、親がいなくとも、魔法使いとしての価値があれば生き延びるチャンスがあった。
だからこそ、ヴィオレとブランは孤児院に受け入れられた。
だが――兄の魔力の正体が判明したあの日、すべてが壊れてしまった。
白の魔力色素。
その色彩を見た瞬間、孤児院の老夫婦の顔が、子どもたちの表情が変わった。
嘲り、嫌悪、そして、見下し――。
「役に立たないどころか、害にしかならない……」
その言葉が、今でも耳に焼き付いている。
兄が追い出されたのは、まだ十歳にも満たない年齢のときだった。
だが、ヴィオレにはまだ「利用価値」があったのだろう。
兄だけが追い出され、自分は孤児院に残された。
――でも、そんな場所に自分がいる理由なんてなかった。
ヴィオレは痛む体を押して、孤児院を飛び出した。
遠くに見える兄の背中をただ追いかけて。
「死ぬなら、兄の腕の中で眠りたい」
そう思った自分は、ひどく身勝手で、嫌いだ。
それでも、彼の背中を見ていると、なぜか痛みすら忘れられる気がした――。
だから――
「……ヴィオレ、大丈夫か?」
ブランの優しい声が耳元で響く。
ヴィオレは泣きじゃくりながらも、首を横に振ることしかできなかった。
兄の身体が傷だらけなのは知っている。
毎夜、ボロボロになった服を脱ぐ彼を見てしまったことがあるから。
その傷がどれだけ深いものか。
そして、そんな危険な仕事をしている理由が、自分にあることも――。
――兄さん、もう危険なことはしないで……
本当は、そう言いたかった。
だが、そんなことを言えるはずもない。
兄が自分を救おうと、全てを捧げていることを知っているから。
だからこそ、兄が帰ってこなかった朝は、怖かった。
時計の針が進むたびに、ヴィオレの胸を不安が覆っていった。
その不安が、いま彼女の心に深い爪痕を残している――。
「……ヴィオレ、家に入ろう。身体が冷えるから」
ブランの優しい声が彼女の耳に届く。
胸に顔を埋めたまま、ヴィオレは小さく頷いた。それを確認したブランは、彼女をそっと抱きかかえ、家の中へと足を進めた。
部屋の中はいつものように静かで、差し込む陽の光が二人の影を床に映し出している。
ブランは慎重に歩を進め、寝台までヴィオレを運ぶ。そして、彼女を優しく寝かせようとしたが――。
「……離れたくない……」
ヴィオレはブランの胸にしがみついたまま、その腕を強く握りしめる。
ブランはそんな彼女を落ち着かせるために、そっと背中を撫でた。
それは、幼い頃からの兄妹だけの「おまじない」。
「大丈夫だ。俺はここにいるから」
言い聞かせるように声をかけながら、彼は何度もヴィオレの背中を撫で続ける。
やがて――。
ヴィオレの呼吸が少しずつ安定し、震えていた手がようやくブランの背中から離れる。
「落ち着いたか?」
ブランが優しく問いかけると、ヴィオレはわずかに頷き、顔を上げる。その瞳にはまだ不安の色が残っていたが、先ほどのような張り詰めた緊張は消えていた。
「大丈夫だよ。俺は必ず、この家に帰ってくるから」
ブランは柔らかな笑みを浮かべながら、優しく語りかける。その言葉に、ヴィオレの表情が少しだけ緩むのを感じた。
だが――。
彼女の瞳には、消えきらない不安の影が宿っている。
それを見て取ったブランは、そっと彼女の手を握りしめ、優しい口調で問いかけた。
「ヴィオレが考えてること、兄ちゃんに話してくれないか?」
その言葉には無理強いするような力はない。ただ、ヴィオレの心を軽くしてあげたいという、彼の純粋な優しさが込められている。
ヴィオレは一瞬言葉を詰まらせた後、視線を伏せ、小さな声で口を開いた。
「……私は、私が兄さんの負担になってることが、とても辛い……」
震える声で紡がれる言葉は、長い間心の奥底に閉じ込めてきた思いだ。
「兄さんの人生の足枷になってる自分が、死ぬほど嫌いなの……」
その言葉に、ブランは思わず息を飲む。
「兄さんの身体が傷だらけなの、知ってるんだ。それに……夜も全然眠れてないことも。私の治療費のために、いつも無茶をしてるのも、全部……」
ヴィオレの声は次第に震えを増し、滲んだ涙がぽたりと落ちる。
「……だから、私は兄さんにこれ以上負担をかけたくない。私がいなければ、兄さ
んはもっと自由に生きられるのに……」
その言葉は、自分を責める彼女の苦しみそのもの。
ブランは彼女の思いを受け止め、胸が締め付けられるような痛みを感じる。
だが、その痛みを隠しながら、彼は優しくヴィオレの手を握りしめた。
「ヴィオレは兄ちゃんとの約束を覚えてるか?」
ブランの問いに、ヴィオレは少し迷ったようにしながらも、静かに頷いた。
「絶対にお前を病から救うって約束だ」
その言葉は、あの丘の上てクレアと誓った、魔法使い《ウィザード》の誓いにも含まれているブランの願望。ブランの中で、それは何よりも大切な目標であり、どんな困難があっても決して諦めないと誓ったもの。
「兄ちゃんはな――」
ブランはヴィオレの瞳を真っ直ぐに見つめながら、言葉を続ける。
「お前がいない世界で自由になんてなりたくない。そんな世界で生きたいなんて、全然思わない」
その声には、迷いのない信念が宿っていた。
「ヴィオレがこうして生きて、この家で帰りを待ってくれてるから、俺は毎日頑張れる。どんなに辛くても、どんなに苦しくても、家に帰ればヴィオレが待ってくれてるって知ってる。それだけで俺は前に進めるんだよ」
その言葉に、ヴィオレの瞳が揺れる。
――兄は、自分のことを「負担」だなんて思っていない。
その事実が、胸に広がっていく。
「だから、俺は絶対にヴィオレを救う。その約束を果たすまで、何があっても諦めない」
ブランの瞳とヴィオレの瞳が重なる。
そこに映るのは、お互いを想い合う深い絆。少年の揺るぎない信念が、少女の凍りついていた心を少しずつ融かしていく。
ヴィオレの頬に、また一筋の涙が流れ落ちた。だが、その涙は先ほどまでの悲しみや罪悪感に満ちたものとは違っていた。
その涙には、安堵と信頼、そして新たな希望が込められている。
「ヴィオレがいるから、俺は強くなれるんだ」
ブランはヴィオレをそっと抱きしめながら、静かに言葉を紡ぐ。
「だからこれからも、一緒に――二人で頑張ろう」
彼の声には、決意と温かさが混じり合っていた。その声に背中を押されたヴィオレは、震える肩を落ち着け、小さく頷く。
「……うん」
それは、どんな飾り気もない、素直な答えだった。だが、その小さな一言には、どれほどの覚悟と想いが込められていたことか。
ブランの腕の中で、ヴィオレは目を閉じる。
――どんなに厳しい状況であっても、兄さんと一緒ならきっと乗り越えられる。
そう信じる気持ちが、彼女の胸に静かに灯る。そして、冷たい影に覆われていた彼女の心は、いつしか温かな安らぎで満たされていた。
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まず初めに、私の拙い文章を読んでくださり、ありがとうございます。
ゆっくりと書いていく予定です。
時々修正加えていくと思います。
誤字脱字があれば教えてください。
白が一番好きな色。
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