第55話 黒鍵

 手紙に添えられていた黒いチューリップを手に取る。贈り物ってこれのことかな。



「忘れられるわけないじゃないですか」



黒のチューリップの花言葉は、私を忘れて。

 僕が花言葉を勉強しているのをわかっていてこんなものを置いておくなんて…本当に罪な人だ。

 ラフィネさんの腕を肩に回し階下のアトリエへと運ぶ。脱力した彼を運べるほど、僕は体も心も成長したらしい。

 思えば近頃はもう、彼の顔を見上げなくても視線が合うようになっていた。勉強を教わっていた時間も、もうずっと前から読んだ本の感想を語り合う時間へと変わっていた。

 今まで気に留めていなかった変化に思いを馳せ、急に胸のあたりがぽっかり空いてしまった気がした。

 火葬を終え、姿を変えたラフィネさんを見て、驚きよりも合点がいった。



「あれはご自分のことを言っていたんですね」



ラフィネさんの骨は漆黒だった。

 彼の意図を汲み、それを黒鍵に加工した。元々あったものと取り替えるようにラフィネさんの骨で誂えた黒鍵をピアノにはめ込んだ。

 しばし黙考して、彫刻刀の箱を持って来る。ピアノの横に膝をつき側面をよく見ると、パープルハートという文字があった。その下に刃を入れて、文字を書き足していく。



   『  Paple Heart

  Arreter et Raffine Histoire 』

                ―アレテとラフィネの物語



 僅かに残った骨粉で何を作ろうかと何日も頭を悩ませた。

 何週間か前に積んでドライフラワーにしていた黒薔薇と件のチューリップを見て、それを粉末状にする。花と骨粉を混ぜたもので小さなブローチを作った。



―――――



 ピアノと使用した花々のモチーフを彫刻したそれを眺めていたら、何日も過ぎていたらしかった。音沙汰のない僕を心配したセルメントがアトリエへ入って声をかけてくれていなければ、食事や睡眠をとっていないどころか、日が経っていることにすら気がつかなかっただろう。

 事情を話していると、自分の中でも起こったことの整理が段々とついてきた。



「ロン・ドルミールは続けるよ。もう僕の店だから、僕が決めていいはずだ」


「スヴニールは前向きだね」



強いよ本当に、と言葉を継ぐセルメント。



「僕はサンセリテを失った時にはもう立ち直れないと思った。それまでの人生で経験したことがないほど落胆したし、サンセリテを失った人生に魅力を感じなくなった。何もかもに絶望してしまったんだ」



この仕事をしていくなかで知ったことは、何度死を目の当たりにしていても死そのものに慣れることはないということだ。だから悲嘆や喪失感、彼の骨を削った自分の手が未だに震える感覚は今もまだ残っているし、一生忘れることはないだろう。だけど



「僕もいつかは死ぬ。その時また彼と会えると考えれば、今からなんて文句を言ってやろうって思えるよ」



少し強がってしまったけれど、嘘ではない。

 出会えて変わったのはラフィネさんだけじゃない。ここへ来て僕は言いたいことを言って、やりたいことを思うままにやって来れた。きっとそれはラフィネさんの自由奔放な姿を傍で見ていたからで。

 他にもロン・ドルミールへ来て様々なことに触れて吸収していった。弟子としても一人の人間としても育ててもらって、何にも代えがたい居場所をくれた。

 感謝の言葉すら伝えさせてもらえないまま死なれたんだ。彼が動揺するほどの文句の一つや二つ死ぬまでに考えておかないと。



「また会える…か」


「生きてる人間には死後の世界のことは知る由もないけれど、幽霊がいることを考えると会える気がするんだ」



現にアレテさんとはあの日会ったのだから。でもその話は心配されると思ってセルメントには伏せておくことにした。

 セルメントはため息交じりに微笑んで「そうだね」と頷いてくれた。

 前にセルメントから言伝を頼まれていた話は断った。この店の存在は公にするよりも、本当にそれを願う人たちだけが、運命の悪戯でひょんなことから知るような幻にも近いひっそりとした店でありたい。



「スヴニール」



平常心を装いながらも震える手でカップを傾けていた僕に、彼は優しく呼びかけた。



「また来るから」



だから絶対彼の後を追うようなことはするなよ、といった強い眼差しに心が支えられる。



「メルシィー」

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