第34話 一ヵ月のヴァイオリンレッスン
「あの、クロシェットさんはなぜ絵ではなく音楽の道に?」
パトリシアさんの家系は代々絵描きのはずだ。音楽を始めるきっかけはなんだったのか、少しだけ興味があった。
「良く聞かれるわ」
「気を悪くさせてしまったらもうしわけありません…好奇心で聞いてしまいました」
いいのよ慣れてるから、と彼女は小さく笑った。
「絵具は汚れるから大嫌い。手に着くと爪の間に入ってしまうし、エプロンをしていても何故かいつの間にか服も汚れてしまっているし…とにかく絵を描くのが嫌いでね。それに私の絵は人に見せられないくらい酷いのも理由のひとつかしら」
微苦笑するクロシェットさんは「だから」と続けた。
だから絵以外に何かしたいと考えたのだ、と話が続いていくのかと思ったら…
「家出したの」
茶目っ気たっぷりにとんでもないことを言う人だ。
驚いてサンドイッチを落としそうになる僕を、姉妹はクスクスと笑う。
「絵描きの家系なのに、その才を継いだのは妹だけ。幼い頃の私は、親族みんな絵の才能がある妹を可愛がるんだろうなって思ってしまって。それが何だか寂しく、そして悔しくてね。そうなるくらいなら出てってやるって勝手に思っちゃったのよね」
思っちゃったのよねって…。
「それでどうなさったんですか」
家出をしようと決意した時、彼女は本宅に居たそうだ。まだ日常的に別宅で過ごすようになる前の出来事だったので、家出をするなら別宅だと思い至ったらしい。そこでさっそく誰もいない別宅へと向かったのだと言う。そこなら知っている場所で安心だし、両親も見つけやすいと考えたそうだ。
「ずるいでしょう?。大事にされていることがわかっているから、必ず両親は私を探しに来てくれるってわかってて計画してるのよ?」
家出をすれば、両親がシャルロットではなく自分のことだけを考えてくれると思ったのだと話すクロシェットさん。
「今だからこうしてシャルロットの前でも話せるけれど、当時は自分の嫉妬と不安が恥ずかしくてしばらくこの子と口をきけなかったの」
「そうだったの?」
「そうだったの」
クロシェットがシャルロットに対して抱いていた後ろめたさを、当時のシャルロットは全く感じ取っていなかった。それどころか「そんなことあったっけ?」と言いた気な顔をして今も姉の話を聞いている。彼女がまだ幼かったこともあるだろうが、絵に夢中だったことで周りの人の心の動きに鈍感になっていたのかもしれない。
「それじゃあしばらくお一人で別宅に?」
「それが…」
列車の乗り継ぎは記憶をなんとか辿ってなんとか乗り越えたが、駅から別宅へ向かう途中で迷ってしまったらしく、森の中を彷徨うことになってしまったらしい。
「一人で心細くて、家に帰ろうにも道がわからなくて涙がこぼれてしまった時、手を差し伸べてくれた人がいたの。その人が私にヴァイオリンを教えてくれた先生だったの」
妖艶さのある美しい女性で、怪しげな雰囲気を纏う様は物語に出てくる森の魔女のようだった。そんな女性に少しの恐怖を覚えてしまったクロシェットは、怯えて足が竦み動けなくなって優しく差し出された手まで振り払ってしまった。
嘆息したその女性は、背負っていたケースからヴァイオリンを我が子のように慈しみのこめられた眼差しで取り出し、身動き出来ずに怯えるクロシェットに向けて弾き始めた。水たまりに波紋を作り、ミルククラウンのように飛び跳ねる雨の雫のようにとても楽し気な音色だった。
「お姉ちゃんったら、その音色の虜になっちゃって。一ヵ月も本宅にも別宅にも帰らずにその先生の元でヴァイオリンを教わったんだよ」
「悪気はなかったのだけれど、人生で初めて見て、聞いて、そして触れるヴァイオリンというものに夢中になってしまって」
習ったのはその一ヵ月だけだったそうだ。もう何度も別宅へクロシェットを探しに来ていた両親と偶然鉢合わせた彼女は、先生から贈られたヴァイオリンと共に本宅へと帰ることとなったそうだ。
「ではその後もその女性にヴァイオリンを?」
クロシェットは目を伏せながら首を横に振った。
後に森へ出掛けてみても、その女性に会うことは叶わなかったそう。
「本宅よりこの別荘に長く滞在するようになってからも、時々森へ出掛けて先生を探しているのだけれど、全く見つけられないの」
また会いたいと遠い目をするクロシェットさんは、ヴァイオリンを教えてくれた恩師の名前すら知らないと言う。
「でもね、ほらここを見て?」
ケースから取り出したヴァイオリンの
「『Onde』って書いてありますね」
「ええ。このヴァイオリンに名づけられたものかもしれないけれど、先生のお名前かもしれないと思って…」
「だからお姉ちゃんはその先生のことをオンドさんって呼んでるんだよね」
頷きながらクロシェットさんは文字の刻まれた部分を指先でそっとなぞった。
「オンド先生は自分でヴァイオリンを作っていたようだから、もしかしたらこれはサインなんじゃないかって。画家だって絵に自分のサインを残すでしょう?。そういうものなのかなと想像して、勝手に呼ばせてもらっているの」
彼女曰く、ヴァイオリンを教わっていた部屋は作りかけのヴァイオリンが沢山吊るされた工房のような場所だったと言う。彼女の推測は確かではないかもしれないけど、間違いでもない気がした。モルガンさんも自分のおもちゃの目につきづらい場所に自分のサインを入れていたし、『Onde』がヴァイオリンではなく恩師の名前だと考えるのは自然だ。
記憶が曖昧なのだと微苦笑する彼女はため息を吐いて、ヴァイオリンを教えてくれたお礼もまだ言えていないのだと嘆いた。
「いつかまた会えるといいですね」
「ええ」
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