極短小説・隠滅

宝力黎

極短小説・隠滅

「笠井さん、もう時間?気をつけてね」

 隣家の、今年で八十になるという杉山美枝が雨の中で声をかけた。ゴミを出しに来たのだ。笠井礼治は共同駐車場に駐めたクルマに乗り込む前に片手を上げて老婆に応えた。

 礼治の住まいがある由宇天寺は古い寺のある旧住宅街だ。道も細い。そこをあとに通りに出た。午前五時半の第三産業道路はまだ空いている。まばらなクルマの中を同じ速度で急がずに行く。ゴールド免許の礼治は勤務先の井貝・遠辺共同ゴミ処理センターを目指した。

 井貝市と遠辺町が共同で運営する処理場の朝は早い。午前六時になると専用の収集車に乗った作業員たちは受け持ち区域目指して出かけていく。礼治もその一人だ。

 作業は運転手と、降りて収集車にゴミを乗せる者の二人一組で行う。日ごとに交代するが、今日の収集役は礼治だ。二十台にも分かれてチーム別に担当区域を回り、終わるのは昼過ぎが多い。天気の日もあるが当然荒れる日もある。この日は、数日前から予報されていたとおりに酷い荒天だった。朝から降っている雨は次第に雨脚が強まり、作業を終える少し前には豪雨となった。

「ひゃあ!すげえ!」

 そう声を上げながら礼治は助手席に飛び込んだ。ワイパーは動いているが、前は見えづらい。

「あと少しで終わりなのにな」

 同僚で今日の運転役を務める岡林孝明は顔をしかめ、フロントガラス越しの空を睨んだ。

「まあ仕方ないさ。あとは俺んとこの――由宇天寺の西だけだから、さっさと終わらせて上がろう」

 依存は無いとばかりにクルマは動き出した。

 普段の平日ならば混む中央通りだが、人影どころかクルマの姿も少ない。叩きつけるように落ちる雨は午後いっぱい続くと言われていた。その中央通りを左に入って少し行けば区域だ。

 細い道は多いが、雨で人は歩いていない。土砂降りの中でも作業は順調に進んだ。回収コースの最後は礼治の家がある一帯だ。一年前、結婚を機に無理をして買った中古住宅だ。

「かみさん、専業だっけ?」

 尋ねる岡林に礼治は「いや」と首を横に振ったが、それ以上なにも言わなかった。

「おまえんちの傍のゴミ置き場が一番厄介だよ!」

 岡林は笑いながらも注意深くハンドルを回した。置き場の前に止められないので、数メートル離れた場所に停車した。礼治は急いでクルマを降り、作業に掛かった。十数件が使うのでゴミの多い日は大変だが、土日をまたぐわけでは無い木曜日は割合に少ない日だ。

「ふー!終わった!後は由宇天寺さんの裏を集めたら仕舞いだ」

 カッパのフードをとらずに礼治は言った。

「あそこは社員寮が立ち退いてからゴミも少ないから」

 岡林は笑い、礼治の家の前を通り過ぎた。


「いつからですか?」

 若い警察官は興味なさげに尋ねた。

「木曜の――仕事から戻ったらもう」

「出かけるまでは家にいたのに、突然いなくなったんですか?」

「はい……」

 礼治は項垂れた。げっそりとやつれて見えるが、もとからそういう人物かもしれないと警察官は思った。

「それで、ご実家ですとか心当たりは?」

 礼治はコクリと頷いた。

「全部当たりました。誰も判らないって言うんです。それで、もうどうしていいか判らなくて警察に頼もうかと」

 警察官はペンを置き、頷いた。

「ご承知おき頂きたいんです」

 事務的な物言いに、礼治は視線を落とした。

「勿論不明人届けは受理しますが、これといって健康に問題も無い大人ですよね?その場合は《一般家出人》の扱いになるんです。子供さんなんかと違い、自分で移動した可能性の方が高いわけで。ご本人が隠れようとすれば隠れる方法もあるんですよね。隠れたい人を探し出す捜索はさすがに警察も人手の関係で出来ませんし。そうしたケースでは大体見つかるのって……言いにくいんですが犯罪がらみのことが多いんですよ。被害者だったり――時には加害者だったりね」

 定型文のようにそう言い、署名欄への記入を求めてきた。礼治が所轄署を出たのは午後九時過ぎだった。


 二週ほどあとのこと――。

「笠井さんはもう出かけたんだね」

 ゴミを出しに来た杉山美枝が声をかけると、ゴミ置き場の整理をしていた高橋冴子は腰を伸ばして振り返った。

「とっくにだよ。本当に働き者だよね」

「そんないい人のなにが気に入らなくて消えちゃったかね、あの若い奥さん」

 半透明のゴミ袋を並べ、美枝は腰を叩いた。

「杉山さんも知ってるでしょ?あの奥さん、旦那さんが出かけてる間は遊び回ってたんだから。それこそ朝から夜遅くまでさ」

「亭主が汗してるってのに、ね」

 二人は向かいにある礼治の家を見上げた。

「おおかた他に男でも出来たんじゃ無い?いまもテレビで言ってたよ。自分を大事にする時代だって」

「自分だけ大事にするような人間を大事にする人間なんかいやしないさ。新しい男か知らないけど、そいつから大事にされると思うのかね?でも、なにせ突然だったからビックリしたよ」

 二人は顔を見合わせ、肩をすくめた。


 昼過ぎになって礼治は帰ってきた。どの戸建ても車庫を置くほどの広さは無い。礼治はゴミ置き場の傍の、共同で使っている駐車場にクルマを入れた。見通しの悪い道だが、ふと見ると数人集まっている。その中には子供も見えた。

「どうかしたの?」

 声をかけると全員が振り向いた。

「笠井さん、犬だよ」

「犬?」

 覗き込んだ礼治が見たのは、口から血を流して動かない中型犬だった。

「ここは細いし、見通し悪いからね」

 美枝は呟いて手を合わせた。

「はねられたのよね。可哀想に」

 冴子も美枝に倣って手を合わせ、念仏を唱えた。

「おばあちゃん、この犬、どうするの?」

 美枝の曾孫で小学校一年の光輝が言った。

「どうって……」

 美枝は困惑の表情を浮かべた。

「さっき警察と保健所に電話したんだけど、どっちも同じこと言うのよ。警察は保健所の、保健所は警察の仕事だって、いい加減よね」

 冴子は呆れてそう言った。

「ここに置いておくの?なんかかわいそうだな」

「そうはいかないよ」

 話し合っていると、礼治はぼそりと呟いた。

「見えないようにしてゴミに出すしか……」

 冷えた声だ。その眼差しには犬の死骸への哀れみはかけらも無い。美枝と冴子は礼治を見た。

 ハッと我に返った礼治は笑って言った。

「だめだめ!本当は規則違反だから!本気にしちゃだめだよ」

 やっぱり警察に来てもらうしか無いんじゃないかな――そう言い残し、礼治は家に入っていった。美枝と冴子は手を取り合って顔を見合わせ、怖々と礼治の家を見上げた。

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極短小説・隠滅 宝力黎 @yamineko_kuro

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