第9話 名もなき影の中で
修道院の朝は、いつも冷たい。
陽が昇る前に鐘が鳴り、湿った空気が廊下を這うように満ちていく。
古びた石壁が低く鳴動し、無数の祈りが反響して、まるで空洞のような響きを残した。
その中で――セリィだけが、少し離れた場所で膝をついていた。
彼女の居る席は、昔と同じ窓際。
けれど、そこに座る者はもういない。
隣の席には花の代わりに冷たい埃が積もり、朝の光が薄く差し込んでも、温もりの色はどこにも落ちない。
祈りの輪の中で、彼女だけが外側にいた。
誰もが目を伏せ、声を合わせるその中で、彼女の祈りだけが孤独に沈んでいく。
まるで、冷たい井戸の底に投げ込まれた声のように。
それでも、セリィは手を合わせたまま目を開かない。
その仕草は、誰よりも静かで、誰よりも深かった。
祈りはもう、神へと届かない――それを、彼女はよく知っていた。
けれど、それでも祈る。
それはもう赦しを請うための行為ではない。
誰かを救うための祈りでも、奇跡を乞うものでもない。
ただ、生きているという証として。
冷たくなった心臓が、まだ動いていることを確かめるために。
彼女の祈りは、もう言葉ではなく呼吸に近かった。
吐いて、吸って、また吐いて――
それが、生の残響だった。
――また、祈ってるのか。
アッシュの声が、頭の奥でかすかに揺れた。
まるで夜明けの前の風が、胸の中を撫でるように。
彼の声音は冷たく、それでいてどこか焦燥を滲ませている。
――もう神に届かねぇって、わかってるだろ。
「ええ、知ってるわ。」
――じゃあ、なんで。
「……たぶん、癖みたいなものよ。昔から、誰かのために祈ることしか知らなかったの。」
――今は、その“誰か”もいないだろ。
「いるわ。あなたが。」
短い沈黙。
その静寂の中に、微かな息の音が混じった。
アッシュが何かを言いかけて、飲み込んだのがわかる。
セリィはわずかに微笑んだ。
彼が言葉を止めるとき――それは、彼の心が揺れている証拠だった。
外では、灰のような雪が降っていた。
この修道院のある高地では、冬の訪れは早い。
降り積もることのないその灰色の雪は、風に乗って宙を舞い、空気の中で溶けて消える。
どこか、誰かの祈りに似ていた。
触れた瞬間に壊れてしまう儚さと、それでも降り続ける強さ。
「まるで、過去の祈りみたいだわ。」
そう呟くと、アッシュが低く笑った。
――ロマンチックな比喩だな。あんたにしちゃ珍しい。
「そう? あなたに影響されたのかも。」
――俺はそんな甘い言葉、知らねぇよ。
「嘘ね。あなたは、誰よりも優しいもの。」
一瞬、息が止まったようだった。
アッシュはいつも否定する。
けれど、セリィがそう言うたびに、彼の中の何かが確かに疼いていた。
その痛みが優しさだと、まだ彼自身は気づいていない。
日が沈む頃、修道院の空気はさらに冷えた。
灯火を整えるため、小さな作業部屋にセリィはいた。
そこに、ひとりの若い修道女が立ち尽くしている。
壁に映る炎の影を怖がるように、肩を震わせて。
セリィが気づくと、その娘は慌てて顔を伏せた。
けれど――逃げなかった。
「……どうかしたの?」
声をかけると、娘は震える手で小さな花を差し出した。
それは昼間、セリィが礼拝堂に供えた白い花だった。
誰かが落とし、それを拾ってきたのだろう。
「これ……戻しておきます。」
セリィは静かに受け取った。
「ありがとう。でも、あなたが置いてくれていいのよ。」
娘はためらいながらも一歩踏み出し、祭壇に花を戻した。
その仕草はぎこちないが、確かな意志があった。
そして、小さく言葉を落とす。
「……あなたの祈りは、きれいです。」
それだけ言って、娘は去っていった。
足音が消えたあとも、その言葉の余韻だけが部屋に残った。
セリィは胸に手を当てる。
微かに温かい――それは、誰かの声を受け取った証だった。
――変わったな、あんた。
「何が?」
――昔なら、泣いてた。神に見放されたって。
「泣くほどの涙は、もう残ってないわ。」
――そうかよ。
アッシュの声がかすかに震えた気がした。
それは怒りでも悲しみでもなく、ただ痛みに似た響きだった。
彼女には聞こえていた。
彼が言わなかった言葉の続きを――
“それでも生きてるじゃねぇか”、という、あの小さな声を。
夜が降りた。
鐘が三度鳴り、修道院の廊下に灯がともる。
その光は長い影を作り、静寂をさらに深くした。
セリィは窓辺に立ち、掌を合わせる。
もうそれは祈りではなかった。
願いでも、信仰でもない。
ただ、生きるための行為だった。
冷たい風が窓を叩く。
外の世界は、まるで凍てついた呼吸そのもののようだ。
それでも、彼女の中には確かな熱があった。
――俺たちは、まだ生きてるんだな。
「ええ、そうね。」
――……皮肉な話だ。
「いいえ。これはきっと、始まりよ。」
彼女の瞳に、灰色の月が映っていた。
その光は冷たく、けれど不思議と優しかった。
夜の静寂の中、二人の心だけが微かに重なり合っていた。
世界が凍えるように静まっても、
風がすべての声を攫っていっても、
祈りの残響だけは――確かに、そこにあった。
その夜、誰にも知られぬ場所で、
二人だけの小さな祈りが、音もなく続いていた。
灰の祈り I’m kusozako. @08491
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
フォローしてこの作品の続きを読もう
ユーザー登録すれば作品や作者をフォローして、更新や新作情報を受け取れます。灰の祈りの最新話を見逃さないよう今すぐカクヨムにユーザー登録しましょう。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます