4-3. mellow
ヘレン魔法術大学校の中央校舎のエントランスは少し奥に進むと屋上階まで見上げられる広い造りになっている。下から見ると正八角形になる吹き抜けに螺旋状の階段が組まれていて、どの階のどの教室ともすぐに行き来ができる。そのため学生は待ち合わせによくこの空間を使った。そんな吹き抜けの下でゼラは今日の仕事先が書かれた紙を見ていた。彼女は通り過ぎる学生の挨拶を笑顔で返しながら、その人混みの隙間に目当ての影がないかを探った。少し待って諦めたように紙をしまう。外へ向かおうとブーツが床を叩いたと思えば、はたとそれは止まった。振り返った先にシオンが立っていた。
「お、おはようございます」
シオンは目を合わせることなく気まずそうに言った。ゼラはしばらくぽかんとしていたが、すぐにはにかむように笑った。
「来てくれたの?」
「パートナー、ですから」
「シオン……」
シオンは覚悟を決めたようにゼラに目を合わせて息を吸った。
「あのっ」
「危ない!」
シオンの声を遮るように上から声が振った。ほとんど同時にシオンの周りにガラスが飛び散って中の液体がピンク色を纏って揮発した。スプラッシュポーションだった。咄嗟に防御魔法を展開したゼラは急いでシオンの周りの残留体を振り払って座り込む彼女に駆け寄った。
「シオン! 大丈夫?」
シオンはぼんやりした表情でゼラの目を幾分か見ると、ローブに潜り込むように抱きついた。「え、えっ」
「大丈夫ですか!」
白衣を着た学生が吹き抜けと飛んで降りてきた。胸元には青いルーンが光っていた。
「ごめんなさい。実験で使ってたポーションなんです」
「これ何の効果?」
学生は言いにくそうに口を開く。
「び、媚薬……です」
「はぇ!?」
ゼラは口を大きく開けた。熱を帯びるシオンの頬に手を当てて顔を覗き込む。シオンはそれを避けるようにゼラの腹に顔を埋めた。
「シオン! ねぇねぇこっち向いて」
「いいにおい……」
「やばいシオンがおかしくなっちゃった!」
ゼラは素早く法術杖を取り出して抱きつくシオンごと飛行魔法をかけた。便利な吹き抜けを抜けて上階の北側の研究室を目指す。その間もシオンは強くゼラの身体を掴んで離さなかった。
「エト!」
ゼラは研究室の扉を勢いよく開いた。本を読んでいたエトは眼鏡を上にずらして二人に顔を向けた。
「なぁに……あら?」
ゼラがシオンをベッドの上に寝かせようとした。が、うまく剥がれず向かい合わせで抱き合うようにして体勢が決した。
「なにそのかわいいの。なんか変なポーションにあてられたな?」
「実験用の媚薬被っちゃったんだ。元に戻して」
「あらら。ふーん、甘えん坊タイプね」
エトはベッドの側に座ってシオンの頭を撫でた。
「シオンちゃん、ちょっとだけゼラとバイバイできる?」
「んーん、やだ」
シオンは甘い声で唸った。
「ゼラさんのこと好きなの?」
「うん、すき」
ゔ、とゼラが変な声を上げた。エトは悪戯っぽくにやりと笑う。
「どんなところが好き?」
「ちょっと、エト」
「まあまあ。人はポーションで欲求を持ち上げられると嘘が吐けないから。聞いちゃおうよ」
「えぇ?」
「ほら、シオンちゃん。ゼラさんのどこが好きかな〜?」
小さな子どもの面倒を見るようなエトの声色にシオンの肩の力がふっと抜けた。ゼラの心臓の音を聞くように耳を胸に当てて瞳を閉じる。
「うれしい、いっぱいなの。いっしょにいると、いっぱい……」
陽の色が揺れた。ゼラは呟くように名前を呼んだ。エトは背中側からシオンの肩を持ってゆっくりゼラから引き離す。
「じゃ、ほらゼラさんの目を見て、好きですって言ってごらん」
「ゼラさん、すーき。えへへ」
「よくできました。はいっ」
シオンがゼラを求めて倒れていく瞬間に白い光の流れがその身体をすすいだ。エトの反作用魔法だった。肩から手を離してシオンの顔を覗き込むエト。
「戻ってきたかな〜?」
シオンはきょとんとした顔で目をしばたかせた。と思えば急激に頬が赤く染まっていき、耐えきれなくなったかローブを被って閉じ籠ってしまった。
「ころしてください……」
「あははっ! 可愛かったよ〜。ゼラだってほら……あれ?」
ゼラは目と口を開けたままショートしたように固まっていた。今度はゼラの肩に手をかけるエト。少し揺さぶってみてもまるで反応がない。
「も〜シオンちゃんの火力すぎて壊れちゃったよ。二人して弱いなこのコンビは本当に」
エトは一つため息を吐いた後、腹の底から込み上げた笑いに顔を押さえた。
ゼラが屋上に上がると街を一望できる南東側の縁にシオンの姿があった。背中が小さい分、頭についた蝶が大きく見える。
「シオン」
ゼラが名前を呼ぶと彼女は顔だけをこちらに向けた。
「ゼラさん……」
ゼラはシオンの隣に座った。足をぶらぶらと浮かせて街の遠くの方を見る。
「謝りたいことがたくさんあります」
「私も」
「ゼラさんにはないです」
「あるってば」
ゼラは息を解いて笑った。
「この間は、酷いこと言ってごめんなさい。ゼラさんのこと嫌いで突き放したわけじゃないんです」
「それはさっき思い知った」
シオンは恥ずかしそうにローブで口元を隠した。
「それも、ごめんなさい……」
ゼラは縁を掴むシオンの手を上から包んだ。
「ゼラさんが優しくしてくれるの、本当はすごく嬉しいんです。笑顔も好きなんです。でも、魔法で何も結果を残せないのがすごく不安で苦しくて。きらきらしてるゼラさんにそんな私のことで負担かけたくないし。一人で考えてるうちに、どんどんわからなくなってしまいました」
「……私も、苦しめてごめん」
シオンは小さく首を横に振る。
「私が笑える理由、シオンに言われてから考えたよ」
シオンの目がゼラの横顔を捉える。陽の色もそれに合流した。
「私はさ、シオンと一緒にいれるのが嬉しくて仕方ないんだ。家族もいないしずっと一人だったけど、シオンとはずっと昔から一緒にいるような気がするくらい、隣にいると安心する。それでね、思ったんだ。それがシオンの魔法なのかもしれないって」
「私の、魔法?」
ゼラは一つの手紙をシオンに渡した。
「花園院の子ども達から」
「かたっぽめがねのおねえちゃんへ……」
「絶対シオンのことだって思ったけど、私に届いたから渡しておこうって思って。読んでみて」
シオンは中の便箋を開いて子ども達のよれた文字を目で追った。たくさん心を温かくしてくれてありがとう、大好き、また会いたい、一緒に遊ぼうね。そんな言葉が並んでいる。
「私が魔法使いになってすぐの時、私と同じくらいの男の子を治したことがあるの。大雨で土砂崩れがあって、お父さんとお母さんが巻き込まれて亡くなったんだ。男の子は軽傷だったから私の魔法で体の傷は治せた」
ゼラは包帯の巻いた左手を澄んだ風景に透かした。
「その子にもう大丈夫、痛くないよって言ったんだ。そしたら何も大丈夫じゃない、って。パパもママもいないんだぞ、痛くないなんて嘘だ、ってさ。どれだけ傷を綺麗にしても心は魔法じゃ元通りにならないんだ」
便箋が風に揺れた。
「生まれ育った場所を魔物に襲われて、お友達がたくさん痛い思いして、中には二度と会えなくなった子もいて、それなのにそんな手紙が届いた。シオンは何も結果を残せてないって思ってるかもしれないけど、すごいことしてるんだよ。それを伝えたかった」
「……心を治す魔法、ですか」
「まあ、魔法なのかどうかはエトも仮説を立ててるんだけどさ。兎にも角にも検証が足りないからいっぱいサンプル持ってこいだって」
「つ、次こそ、成功させますから」
「無理はだめだよ。また心がぐるぐるになったら頼ってね。シオンへの優しさはよくできたことへのご褒美じゃなくて、一人で泣かないようにするためのおまじないだから」
ね、とゼラは優しい笑顔を向けた。シオンははにかんで便箋を大事に畳んだ。はっと思い出したようにポーチを探る。
「ゼラさんに渡したいものがあるんです」
「渡したいもの?」
シオンはゼラの手首にセレクタ・フロッセのミサンガを通した。
「え、何これ〜可愛い!」
「この間、友達のお店で作ったんです。何にしようか考えたら、真っ先にゼラさんの顔が浮かんで。プレゼントしたいなって思って」
「えへ、ありがと。嬉しい」
「あの」
シオンは恥ずかしそうに上目を使う。
「私もゼラさんと一緒にいれて嬉しいです。お母さんみたいに優しくて、お姉ちゃんみたいに頼もしくて、時々妹みたいに可愛くて」
空は晴れているがゼラの瞳は太陽よりも輝いた。シオンは彼女のローブの袖を掴んで身体を寄せた。ゼラは虚をつかれたように目を開く。
「これは、ポーションのせいじゃないですから」
「……うん」
二人はお互いの鼓動に耳を立てる。最初はずれていたものがだんだんと同じリズムになった。弱酸性の太陽の下で二つのローブが小さな祝祭のマーチを踊った。
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