4-1. tear
目覚めると魔法学校の医務室の天井が見えた。ぼんやりと眺めているうちに視界の端から黒い影がこちらを覗き込んだ。所々に見える明るい緑色がシオンの記憶の中を巡った。
「気付いたね」
「エト先生……?」
彼女は白衣のポケットから手を引き抜いてシオンの額に当てた。
「もう平気になったかな」
「あ、あの、わたし」
「ゼラが慌てて運んできたよ。結構頑張って魔法使っちゃったね。心臓どくどくになってた」
シオンは自分の左胸に手を当てた。穏やかなリズムで肌が押し返された。。
「……ゼラさんは?」
「次のお仕事に行ったよ」
「え」
シオンが急いで起き上がろうとするのをエトは片手で制した。
「シオンちゃんは休憩。無理しない」
「でも」
「ゼラなら心配いらないよ」
シオンは息を解いて俯いた。眉尻が重く垂れ下がる。エトがベッドの際に座った。白衣が毛布に溶けるように広がった。
「急な要請だったけど、頑張ったね」
「全然、そんなこと……」
「んー? 心臓は嘘つけないんだぞ?」
エトは優しく笑いながら首を傾げた。シオンの小さな手が乳白色の毛布に皺を作った。
「どれくらい魔法を使ったの?」
「片手で数え切れるくらいです。ゼラさんに、助けてもらってやっと」
「なるほど」
どこか飄々とした緑の瞳は窓から見えるヘレンの市街地に向いた。
「亡くなった子もいたんだってね。いきなり厳しいところに当たったもんだ」
「私がいたせい、ですかね……」
「それはないよ。心停止の状態じゃ魔法が効かないんだ。多分心拍を戻せなかったんだと思う。ゼラ、悔しかっただろうね」
シオンの瞳が一つ瞬いて横に流れた。エトはシオンに顔を向けた。
「花園院はゼラが育った場所なんだよ」
「え、そうなんですか」
「ゼラには両親がいないからね。ガーデンの姓はあそこの子ども達しか持ってない」
シオンは口を開けたままエトの顔から少し下がったあたりをぼんやりと見つめた。解かれた焦点が少しずつ元に戻る。
「だから、お母さんって……」
「ん?」
「いや、なんでも」
エトは立ち上がって背筋を伸ばした。耳の飾りが擦れる音がした。
「故郷が襲撃されたってこともそうだし、子どもがたくさんいるところだからね。早くしないとって焦ってたのかもね」
「ゼラさん一人だったら、もしかしたら……」
エトは片手でシオンの両頬を挟み上げた。口を奪われたシオンは上目を使ってエトを見た。
「二人を選んだのはゼラだよ。シオンちゃんは望まれてそのルーンを結んでる」
「でも」
シオンの目の高さにエトの顔が降りてきた。
「良い巡り合わせと悪い巡り合わせはどちらも少しずつ順番にやってくるんだ。僕にも救えなかった教え子がいる。それも一人じゃない」
頬の赤い模様がじっと紫色を見つめる。
「救えなかった命を嘆くよりも救えた命を尊ぶ方が大事。これからシオンちゃんが助ける人はみんな今生きてる人なんだから。シオンちゃんはできる子だよ」
エトはシオンの頭を優しく撫でた。
「じゃあ僕は研究室に戻るよ。進んだらまた魔法の話聞かせてね」
シオンは手を振って去っていくエトの後ろ姿を見送った。しばらく毛布に酸素を落としてゆっくりとベッドから出た。ベッドの傍にモノクルと髪飾りが並べて置かれていた。モノクルのチェーンの正して右目に掛けると、鈍った視界が仄かに揺れて整った。自然と出たため息の後、シオンは顔を上げて医務室を出た。
校舎にはまだ学生がいた。シオンはその隙間を縫いながら中央校舎のエントランスを抜けた。噴水のある中央広場に見覚えのある二人組がいた。シオンが気付くとほぼ同時にベージュの髪が跳ねてこちらに向かってきた。パメラだった。
「シオンちゃんだ! 今日も学校いたの? 授業ないのに」
「あ、学外で任務があって……」
パメラは驚いて瞼を持ち上げた。
「もう任務に出てるの!? すごい」
「す、すごくなんかないです」
シオンは輝くパメラの瞳から目線を逸らした。それは噴水の足元に敷き詰められた白い玉石に着地する。無数にある小さな石のどれかに助けがないか探すように、瞳が細かく動いた。ラゼルは遅れてパメラの横まで歩いてきた。
「なんか顔色悪い? 大丈夫?」
ラゼルの声が上から降った。
「いえ、全然。あの、行くところがあるので、また」
シオンはローブの袖を掴んで走り出した。
「あっ……行っちゃった」
「誘われるのめんどくさいって」
「む」
パメラはラゼルの足を思い切り踏ん付ける。
「いでで、やめなさい」
「シオンちゃんはそんな子じゃない」
パメラの目はシオンが走り去った方へ向く。
「図書館の方だ。勉強しに行くのかな」
「お前と違って真面目だな」
再度パメラの足がラゼルにかかった。
「いてえっつの。踏むな」
「私もそんな子じゃない」
「はいはいわかったから」
ラゼルは大きな手でパメラを抑えた。パメラは諦めてもう一度図書館の方角を見る。
「少し具合悪そうだったし、無理してないかな」
「任務って、考えられるとしたらゼラさんと街に出てんだろ。そんなの大変に決まってる」
「シオンちゃんは自分で認めないけどさ、やっぱすごいよね?」
「あぁ、お前よりは遥かにな」
ベージュの髪は静かに風に靡かれた。ラゼルは横目でパメラを見る。
「踏めよ」
「そろそろ痛いかなって」
パメラは腰に手を当ててふっと笑った。
花園院が魔物に襲撃されたという知らせはヘレン中に広がった。それから数週間が経った日の午後、ちょうど陽が沈んだ頃にカラットの扉の鈴が鳴った。ショーケースの品物を整えていたルイスはカウンターから顔を出した。来客は黄色の魔法使いだった。
「お、どうしたのこんな時間に」
「シオン、大丈夫? 心配でお見舞いに来た」
ルイスは首を捻った。
「朝普通に出かけて行ったよ? まだ帰って来てないし」
「え? 休んでるんじゃないの? 今日お仕事で街に出る予定だったんだけど、来なかったからお休みしてるのかって思って」
「忘れてるとかは?」
「シオン、魔法使いの格好で出て行ったんでしょ?」
「うん。学生服にローブ」
ゼラは腕を組んだ。陽の色の目が瞼をなぞった。
「もしかして授業だったのかな」
「帰ってくるの待つ? お茶でも淹れようか」
「いや、この後一回学校戻らなきゃだから。でもお茶はもらう」
ルイスは呆れたように笑ってカウンターの奥に消えると、すぐにアールグレイの匂いを引き連れて戻って来た。木のカウンターにティーカップが置かれた。
「わーい、ありがとぉ」
「溢さないようにね」
ん、とゼラは笑って頷いた。ルイスはしゃがみ込んでショーケースの作業を再び始めた。
「ルイスさんって、何歳のシオンまで知ってるの?」
「ヘレンに来たのが八年前だから、七歳とかかな。シオンちゃんが学校に行ってたのは覚えてる」
「昔も今みたいな感じだった?」
「そうだね。小さい頃から大人しかったよ。いや大人しかったってより子どもらしさが全然なかったかな」
「子どもらしさ?」
「ゼラみたいにわがまま言わない」
ゼラはティーカップを置いて口を尖らせた。ルイスは冗談だよと笑った。俯くゼラの顔がティーカップの中の宝石に写った。木で組んだ店の壁が家鳴りを生んだ。湿った短い残響の後にゼラの黄色い髪の隙間から声が漏れ出た。
「集落でいじめられてたって、本当なの?」
ルイスの手が止まった。
「本人から聞いたの?」
「試験の時に話してた。仕事ができないやつは厄介者扱いされてたって」
ルイスはラピスラズリの首飾りを持って立ち上がった。
「悪い習慣だよ。僕だってその体質が嫌いで集落を出たんだから」
「ルイスさんも厄介者だったの?」
「そんなわけない。長老の孫だよ? 内輪の人間はいじめられないよ」
「シオン達は違うの?」
ルイスは少し目を泳がせてからゼラに目を合わせた。
「これはシオンちゃん本人は知らないことだから話さないでね」
ゼラは黙って頷いた。
「シオンちゃんのお母さんは元々集落の人間じゃないんだ。ある日シオンちゃんを抱えてボロボロの身なりでやって来た。助けて欲しいってね。どこから来たのか、なんでボロボロだったのかはわからない。彼女が話そうとしなかったから。集落の人達は追い返そうとしたよ。外の人間なんて受け入れるような場所じゃない。それを爺ちゃんが押し切って受け入れたんだ」
青い宝石はルイスの手元で静かに磨かれている。
「その時シオンちゃんは一歳くらいで、お母さんも今のシオンちゃんくらいの少女だった。流石にそれを追い返そうだなんて、爺ちゃんはできなかった。まあ僕でもそうするよ。シオンちゃんは物心つく前だから、クローゲルが故郷だと思ってる」
「どうしてそのこと教えてあげないの」
「それは彼女のお母さんがそうしてたから。集落に来る前のことは誰にも話してない。シオンちゃんにもね。きっと知らない方がいいことなんじゃないかな」
「そうなんだ……」
アールグレイから浮き出す湯気の量が減ってきた。ゆっくりと吐いたゼラの息が黄金の湖面を撫で揺らした。
「僕がクローゲルを出た後のことは詳しく知らないけど、あの様子だとずっと酷い扱いされてたのかなぁ」
「あんなに良い子なのに。健気だし、たくさん頑張れるし」
「ゼラはそれがシオンちゃんの良いところだと思う?」
「え、ちがうの?」
ルイスは手元を見たままゼラに言った。
「頑張ることは殴られないためのおまじない。言うことを聞くのは貶されないためのおまじない。集落がかけた魔法があの健気さなら、僕はそれを解いてあげたいって思うよ」
ゼラの唇が震えた。瞼が不安定に瞬く。紅茶の揺れは静かになった。
「頑張れることは素敵なことだよ。でも頑張るしかないっていうのは苦しいかもしれないね」
「……そっか」
ゼラは残った紅茶を一息に飲み干すと、肩から落ちかけたローブを綺麗に羽織り直した。
「もう行くよ。ご馳走様」
「うん、気をつけてね」
「ありがとう」
「できたら」
入り口に向きかけたゼラの顔がルイスに戻る。
「シオンちゃんのこと救ってあげてよ、魔法使いさん」
ゼラは開きかけた口を一度結んで俯いた。包帯の巻かれた手が金色のルーンを掴む。
「もちろん。パートナーだからね」
ヘレン魔法術大学校の本校舎の北側の隅にエトの研究室がある。陽が落ちると学生も少なくなって一帯は静かだ。こじんまりとした部屋には木棚がいくつも並んでいて大量の魔法術書とポーションの実験器具がしまわれていた。ガラス玉の灯りが照らす机をゼラとエトが囲んでいる。
紙の上に鉛筆が走った。組んだ足を元に戻してエトは机に肘をついた。
「ん〜、なんでだろうね。琥珀色の光は出るけど、その後がだめになる……。心が少し不安定なのかな」
「花園院の任務以降ずっとなんだ。軽傷の人を相手に使っても私の助けが必要で。結局一回もノクスなしで成功できてない」
本に文字が足されていく。エトは頭を抱えた。
「うーん、それだとあの仮説が検証できないな。一時的なものだと良いけど……心配だね」
ゼラは膝を揃えてその上に手を置いた。
「今日さ、お仕事に来なかったんだ。カラットにもいなかったし」
「朝に図書館で見たよ」
「え!?」
「最近はずっと図書館にいるよ。回復術の理法術書抱え込んでさ。今日はゼラとの約束の時間まで勉強してるのかと思ってたけど」
「早く言ってよ! まだいるかな」
「まあもう夜だからねぇ、どうだろう」
「行ってみる」
ゼラは座っていた椅子を片付けて研究室を後にした。静かな廊下を鈴虫の声が通り過ぎた。ゼラのローブが風を切った後に花の香りが舞った。中央校舎から出て図書館棟へ向かうと月明かりで白んだ道を歩く人影が見えた。ほんの一瞬、頭のあたりが紫色にきらりと光った。
「シオン!」
ゼラの声が夜に響く。人影は歩みを止めて空を見上げた。ゼラは彼女の前に勢いよく降り立った。モノクルの奥で見慣れた紫が揺れた。
「ゼラさん……」
「よかった。心配したよ〜」
シオンが両手で抱える積み上がった理法術書がゼラの目に止まる。
「こんな時間までお勉強してたの?」
「……ごめんなさい」
髪の垂れるシオンの顔にゼラの手が伸びた。シオンは肩をすくめて目を瞑った。ゼラの手が頬を包むと、少しずつシオンの瞼が開いてその奥の潤んだ瞳に光が走った。
「立派だね」
え、とシオンの声が漏れた。夜にもかかわらずひまわりの花が開く。
「お仕事のことは大丈夫! 今日は大きな事なかったし。だからシオンも無理しないで」
「どうして……」
「ん?」
シオンの頬に大粒の涙が轍を掘った。理法術書が地面散らばる。ゼラは戸惑うように視線を振った。
「どうしたのシオン」
「どうして叱らないんですか。どうして、叩かないんですか……?」
「し、叱る? 叩く?」
シオンはゼラの手首を掴んで下ろした。
「立派なんかじゃないです。凄くもない。できる子でもない。ゼラさんが笑ってくれる理由なんて一つもないです」
「そ、そんなことないよ……!」
ゼラはローブの袖を掴んだ。それもすぐにシオンに振り払われる。
「そんなことあります」
シオンは散らばった理法術書をまとめて抱え直した。そのままゼラを避けて歩き出す。ゼラは行く道に立ち塞がってシオンの両肩に手を置いた。
「待って」
シオンの目は赤く充血していた。
「私、シオンの力になりたいよ」
「もう十分なってますよ。何度助けられたか」
「魔法じゃなくて! もっと、シオンの心を知りたい」
ゼラは涙の滲む声をシオンにぶつけた。まっすぐな陽の色を彼女の瞳が受け取ることはなかった。唇が震えた。
「知ってほしくない」
ゼラの息が止まる。
「私の心なんか……ゼラさんに、知ってほしくないです」
黄色の髪が風に揺れた。紫の蝶は月に育てられた風に乗って、あっという間に手の届かないところまで行ってしまった。胸元の金色は夜の麓にできた暗い穴の底に吸い込まれていった。
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