Ⅴ 新しい夢(終)


 俺が不在の間、仕事の代行を頼んだミロシュ・コンティは、グレゴリオ筆記具店で期待以上の働きをしてくれた。

「古書の匂いも好きですが、新しい紙やインキの匂いも、とても気に入りました」

 ミロシュの将来の夢は研究者になることだ。どうやらその研究対象の中にインキの開発も加わったようで、時間が経つと文字が消えたり時間差で文字が浮かび上がるインキを作ってみたいと云い出している。棄児院を出た後は養父母の許から寄宿学校に上がることになっているミロシュは、グレゴリオ筆記具店に勤めることは出来ないが、繁忙期には店の手伝いに来てくれることになった。

 意外なことに、俺の姿を見ると逃げ回る宮廷お抱えの変人音楽家がミロシュをいたく気に入ってしまった。

「想いついた旋律をその場ですぐに楽譜に書き留めてくれる賢い者を捜していたのだ。さあ来たまえ」

 引き抜こうとしたが、ミロシュは丁重に断っていた。変人宮廷音楽家の頭の中には子どもの頃に読んだ神話がこびりついており、その中の挿絵では古代種魔法使いが岩を砕き竜の口を両手で引き裂いている。それがヤッシュの俺から逃げ回っている理由なのだそうだ。

 俺たちの出来る後片付けはこれといってなかった。部外者を大河の向こうに追い払うと、シジッタ地区は再び幻術の下にその街の姿を分厚く覆い隠し、さらには橋を渡ったところに歩哨を立てて、あからさまに区外から街に入る者へ眼を光らせるようになった。シジッタ評議会は黒聖母堂の再建を速やかに進め、今頃はもう着工していることだろう。

 奇跡的にドクトル・クローヴァスの遺体は一部が回収されて、引き渡し交渉の末、こちらに埋葬することが叶った。身寄りのないドクトルの亡骸は、イスドナウ棄児院の敷地内に立つ背の高いクローヴァスの樹の近くに埋められた。棄児院の子どもたちがいつまでも彼の墓に花を捧げることだろう。

 エッケハルルとアウロラの遺体はどうなったか分からない。おそらくあのまま、黒聖母堂の瓦礫と共に地中深く埋もれたのだ。エッケハルルはあの街の出身だし、アウロラも一度はレアキリアの後継者だった魔女だ。その上に新しい聖堂が建つのなら、アウロラは望み通り、レアウロラとして聖地に眠ることになったのだ。

 墓守はかもりだと魔女は云っていた。

 赤光星の魔女の座から外された後もアウロラは、黒聖母への信仰の念を失うことなくシジッタに協力していた。流浪の民ミナオンとなって森に暮らし、魔都を巡回していたアウロラ。もしかしたら、地下の霊廟から持ち出された氷室の新しい隠し場所は魔窟の中ではなく、大河のこちら側にあるのかもしれない。

 


 午後遅く、バルタゼル・メルヒントンがグレゴリオ筆記具店にやって来た。

「やあ」

 何事もなかったかのように、バルタゼルは俺の手に外套を預け、壁際の椅子に腰をおろし、終業時間になるまで俺が働いているところを静かに見守っていた。城の庭でスタニスラフに壊されてしまった箒の代わりに、バルタゼルは新しい箒を俺の為に持ってきてくれた。俺の給金ではとても買えない上等な箒だった。

 店が終わると、外で待っていた彼は俺を誘って運河沿いの遊歩道を歩いた。うろこ模様の水の照り映えに水鳥の親子が浮いている。

「寮で同室になったのが初対面でね」

 バルタゼルが語る学生時代の回想に俺は静かに耳を傾けた。

「寮の部屋は共有の居間を挟んで寝室が二つ。最初からスタニスラフは何も隠しもしなかった。十五歳になっていたが、彼の身体はまだ両性を持ったままだった。自己紹介の後にすぐにそのことを打ち明けられたよ。部屋の反対側で荷物を片付けながら「へえ」とだけ云った。何しろバーシェスに逢うのはそれが初めてのことだったからね」

 運河の先の海から夕凪が吹いてくる。バルタゼルはくすっと笑った。

「戸惑ったことは確かだよ。ほとんどの雌雄同体は棄子として、棄児院に集められるものだときいていたから余計にね。どうすればいいのか分からなかった。でも寮の中で一緒に暮らすのだから、なるべく普通に接するように心がけた。けっこうな努力が要ったものだよ。なにしろ眼の前に、彼というか彼女がいるのだ。彼は自分のことを魔法使いだと自称していたし、まことにそのように振舞うのだがね。スタニスラフは朝が弱くて、しばしば寝所に押しかけて朝食に間に合うように起こしてやらなければならなかった。最初は優しく声をかけ、しまいには寝台から転がり落としてやった。好きにならずにはいられなかったよ。十代の学生の中には小柄で女の子にしか見えない顔立ちの者もいたし、学寮の中には奇をてらって女装している奴だっていた。でもそんなものとは全く違っていた。いくら魔法使いだと彼が云っても、その美しさは幾分か魔女の美なのだ。或る日、はっきりと自覚した。わたしは彼のことが好きなのだと」

 在りし日を懐かしむバルタゼルは終始穏やかな顔をしていた。

「彼なのか彼女なのか。どちらでもいい。好奇心で彼から衣を剥ぎ取ろうとする上級生や同期の連中から随分と彼のことを護ってやったものだよ。あの頃のわたしはスタニスラフの騎士気取りだった。彼に近づく者を排除するのが使命だと張り切り、他の者には指一本触れさせるまいとした。喧嘩には自信もあった。わたしが彼を護るのだと毎日気負っていた。スタニスラフの方がわたしよりもずっと強いことも知らずにね。或る晩のことだ。あまりにも毎晩のように寮内で派手に決闘をしているものだから、しまいにスタニスラフが室から出てきて、わたしを押し退けるなり邪魔くさそうに魔法杖の一振りで全員をなぎ倒してしまったのだ」

 その夜のことだ、とバルタゼルは俺と歩調を合わせながら告げた。

「室に戻ると、スタニスラフはわたしの眼を見て云った。どちらの身体も持っているが、わたしは魔女ではなく魔法使いだと。それでもいいならと」

 バルタゼル、君がそれでもいいなら。

 雲を透かして夕陽が幾筋もの光の梯子を街の上にかけている。運河の色が濃くなった。

「彼の方からわたしに応えてくれたのだ」

 魚の影がたゆたっている水面を眺めながらバルタゼルは微笑んでみせた。

「信じられぬほどだった。言葉に出来ぬほど嬉しかった」

 伯爵家から送り届けてもらった折、馬車の中でバルタゼルは俺を揶揄って笑っていたが、結局、あちらの方が嘘だったというわけだ。

「オーラミュンデ伯爵は養子のスタニスラフを両性のままにしておいた。しかし伯爵は本人が手術を受けたいと望むならそれに反対するような方ではなかった。たいていは十代のうちに性を自覚する。どちらの性を選んだとしても、その時がきたら、わたしは病院に付き添うつもりでいた。彼が目覚めた時に病室にいて彼の手を握っていてやろうと。結局スタニスラフは今に至るまで手術を受けることはなかったがね。その理由は亡母との約束と云っていたかな。そこは彼の大切な想い出のようなので、あまり深くはきかなかった。それよりも肝心なことは他にある。彼が魔女だろうが魔法使いだろうが、わたしが愛するのは彼だ。わたしのスタニスラフ。それ以外のことは何ひとつとして重要なことではない」

 俺は黙ってきいていた。バルタゼルが俺にそんな話をする理由が俺には何となく分かっていたからだ。とうの昔に決意したことなのだろう。覚悟の深さをのぞかせて、バルタゼルは自分の足許に伸びる影を見ていた。

「彼が魔女になることを選んでくれたなら。そう考えたことが皆無だとはいわない。それなら、わたしが伯爵家に婿に入ることも出来ると。でも結局、わたしは彼さえいれば倖せだった。学校が休暇に入ると、彼といろんな処に行ったものだよ。円形闘技場で箒競技を観戦し、湖では小舟に乗り、山登りをして山小屋に泊まった。オーラミュンデの城にも泊まったし、わたしの屋敷にも遊びに来てもらった。学生時代は誰にとっても特別なものだが、スタニスラフと共に過ごせたことでわたしは一生分のかがやく宝を得た。夕立に打たれて走って帰り、暖炉で身体を乾かしながら炎を見詰めていた彼の横顔。濡れた髪の一筋、まつ毛の一本まで、わたしの大切な彼だった。魔女であろうが魔法使いであろうが、スタニスラフが何者であろうと構わなかった。そこに彼がいて、わたしが触れることが出来るのだから」

 彼は歩みを止めた。俺も止まった。俺はきっと昔のバルタゼルのような顔をしている。そんな俺のことを、バルタゼルは包み込むような眼をして見ていた。

「スタニスラフは、昔屋敷にいた幼子のことを憶えていた。どうしているのかとずっと気にしていたよ」

 そこに運命の綾を見て取ったのは俺だけではないのだろう。

「長子のわたしは近々、親が決めた許嫁と結婚することになっている」

 運河に小さな波が立った。バルタゼルの視線はねぐらへ還る鳥の影を追っていた。

「跡目を継ぐと自分で決めた以上、いつまでも彼の傍にいたいと願うのは学生っけの抜けない夢想であるし、男の義務をわきまえない我儘というものだ。これ以上引き延ばしていては許嫁にも気の毒だ。とても感じのいい魔女なのだよ。きっと仲良くやれるだろう」

 スタニスラフの騎士は全てを語り終えると、「じゃあ」と俺の肩を叩いて、通りを流している空中馬車を口笛で呼び止め、それに乗り込んだ。


 バルタゼル・メルヒントンが男らしくけじめをつけて去った後、俺は黒蝶貝橋の欄干に凭れて、暮れてゆく空を見上げていた。金星がもう出ている。

 俺の夢は何だろう。

 一つはもう叶った。記憶の中の母に逢うこと。想っていたようなかたちではなかったけれど、愕いたけど、それでも逢えなかったよりはいい。不確かなまぼろしをずっと追いかけているよりはきっといい。その幻影は、今では哀しいほど優しいものに姿を変えて俺の胸に落ちている。


 青い花を摘んで。青い花は倖せを呼ぶのだから。


 羽根のような金色の雲が山脈に沿って低いところを流れている。最初の魔女。赤光星の魔女。選ばれた魔女たちの哀しい訴え。可哀そうな子どもたちをこれ以上この世に生み出さないで。

 でもね、俺は生まれてきてよかったと想ってるよ。

 空には一粒の真珠のような月が出ていた。

 棄児院育ちだけど、いつだってけっこう楽しくやっていたし、気のいい仲間も大勢いる。大空だって虹だって雨だって、この世に生まれて存在しないと見ることは出来なかった。可哀そうな子どもがもしいたら俺が救けてやれるし、迷い込んだ迷宮では素敵な魔法使いにも逢えたんだ。

 俺は可哀そうなんかじゃなかったよ。だから安心して、レアキリア。レアシルヴィア。お母さん。

 執事のマグヌスさんから場所を教えてもらい、スタニスラフの生まれた屋敷に行ってみた。古い屋敷は主がいなくなってから何年も経っていたが時々手入れをされているのか、空き家ながらも原型を留めて建っていた。古雅な庭を持つこの屋敷の何処かでスタニスラフと俺が産声を上げたのだ。

 没落する前はさぞや華やいでいたと想われる立派な屋敷は、宵闇の風の中、季節の花の香りに包まれていた。水の枯れた噴水の台座に腰を下ろして、俺は半ば野生化した庭を眺めていた。小さな花がそよそよと揺れている。

 俺は長い時間そこにいた。空が濃紫色になって金銀の星が光るようになってからもずっと、見覚えのある懐かしい庭にいた。



 湖面を蒼く照らす月の光が、伯爵家を雪の国のお城のように照らしている。静寂の銀河には星々が散っている。スタニスラフはもう休んでいたが、俺が彼の許に近づく気配に寝所で眼を覚ました。

「セルヴィン」

 気だるげに半身を起こしたスタニスラフは、俺の姿を暗闇に認めて困ったような顔をした。

「見舞いに来てくれたのか。バルタゼルがなにか余計なことを」

 俺はスタニスラフの上に覆いかぶさり、彼の唇に指先をあてた。しーっ。

 これは俺が決めたことだよ。

 月明かりだけが届いている。湖の底のように静かな夜だ。

 スタニスラフの肩に頭を寄せて、夜風に揺れる森の葉ずれの音をきいていた。俺がまだ知らないことをスタニスラフは知っていて、今からその扉を開けてくれるのだ。

 目覚めたらきっと新しい日々が始まるのだろう。この長い夜が明けたら。

 庭に青い花が咲いている。夜の間も閉じることのない花だ。俺はあなたから眼を離さない。その青い眸で俺を見て。




[完]

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