第7話 決別
「ねぇ、お姉様。あのハンカチ、ちょっと貸してくださらない?」
「はい」
私が手渡すと、妹は眉根をぎゅっと寄せた。
「これじゃないわ」
「ハンカチは使えればいいでしょう。それで十分じゃない」
「そうだけど……」
うじうじはっきりしない妹を放って、私はさっさと部屋を後にする。後から気づいた妹が慌てて追いかけてくる。足早になっても、必死でついてくる。
「わたし、デニス様がお姉様にあげたハンカチがもう一度じっくりと見たいの」
「あなた、前は地味なハンカチって言ったじゃない。じっくり見る必要なんてないでしょう」
「うっ、今は気が変わったの!」
「あ、そう。でも嫌よ」
「どうしてよ! きゃっ」
前を見ずに歩いていた妹が壁にぶつかった。今のうちだと私は全速力で逃げ出した。「いたーい」と妹が泣き始めたが、気にしなかった。
母がデニスの名前入りだと余計なことを言ったので、妹がハンカチを自分のものにしようと事あるごとに私に貸してほしいと頼んでくるようになった。貸してほしいというのは、つまりちょうだいという意味で、一度貸せば絶対返ってこない。今までもそうだった。
あれは妹の嫉妬心を煽る武器だ。絶対に渡すまいと私は鍵付きの引き出しにしまっていた。
しかしこうした私の努力も無駄になる。
「イルゼ。ちょっとくらい、デニスにもらったハンカチ貸してあげなさい」
母である。レイラは泣き落とし作戦で母の同情を買ったのだ。私は毅然とした表情で母を見上げた。
「嫌よ。レイラに貸したら、二度と戻ってこないもの」
「そんなことないわ!」
「信用できない」
真顔で即答すれば、妹は頬を引き攣らせた。
「どうしましょうね……」
「今度お母様と百貨店に行って、同じものを買ってもらえればいいわ」
「嫌よ!」
「じゃあ同じものをデニスにねだればいいわ。お姉様と同じものが欲しいから買って私にプレゼントしてくださいって言えば、デニスならきっとくれるはずよ」
「そんなことできるわけないでしょう!」
「どうしてよ」
妹はぷるぷると肩を震わせる。どうやら自分から頼むのはプライド的にだめらしい。面倒くさいやつ。
「イルゼ。どうしてもだめなの?」
「ええ、だめ」
「お姉さんなんだから、少しくらい、妹に貸してあげてもいいでしょう?」
「じゃあお母様。お母様は伯母様に結婚指輪を貸してほしいと言われたら貸すの?」
「それは……」
言い淀む母にほら見ろと目を細めた。
「私にとってあのハンカチはお母様が今左手の薬指にはめているのと同じ価値を有しているんです。私がハンカチをレイラに貸すならば、その間、お母様も伯母様にお父様との結婚の証である結婚指輪を預けてください。もしレイラがなくしたとか、返さないというならば、お母様も同じ目に遭ってもらいます」
これでどうだ、というように条件を突きつければ、母は付き合いきれないとため息をついて「レイラ。諦めなさい」と妹に言った。妹は「やだ!」となおも食い下がったが、母はもう私たちに関わりたくないとどこかへ行ってしまった。
涙を浮かべ私を憎らしそうに見る妹にふっと微笑んでやる。
しょせん親の権力に縋るしかない弱い生き物なのだ。
しかし私の見立ては甘かった。妹の性根は腐っており、手に入らないくらいなら壊してやるという性質だった。
「――見て、デニス様。これ」
妹の手には鋏で切り込みを入れたと思われる、無惨なイニシャル入りのハンカチ――デニスからもらったハンカチが握られていた。あまりの変わりようにデニスは絶句している。
「偶然お姉様の部屋に入って、机の上を見たらこれが置いてあって……そしたらこの有様で……」
妹はどうやらメイドを買収して、私が紅茶の缶詰を鍵の隠し場所にしていたことを突き止めたようだ。そして盗むよりも、もっとも最悪な手法で私の心を踏みにじろうとしている。
「とても大切だとおっしゃっていたのにこんなふうにして……わたし、信じられませんわ」
正直、ここまでやるのかと思った。こんなことをしてまで妹はデニスの心を手に入れたいのか。こんな男のために。
「……イルゼ。きみはそんなに僕のことが嫌いだったのかい」
そしてデニスが妹の言葉を疑いもせずあっさりと信じたことに私は深く失望した。
「私、やっていませんわ」
「だが、これは僕がきみにあげたもので、きみの机でレイラは発見したんだろう!?」
「私はやっていません。レイラがやったのよ」
「ひどいお姉様! わたしを疑うなんて!」
ここぞとばかりに目を潤ませてデニスに抱きつく妹の演技はたいしたものだ。舞台女優になれるんじゃないかしら。
「レイラがそんなことするはずがないだろう!」
ほら。デニスもあっさり信じているくらいだし。
「レイラが私のハンカチをずっと欲しがっていたの。だから机の引き出しにしまっていた。それなのにどうしてわざわざ取り出して鋏で切り刻んだりするのよ」
「お姉様はわたしに奪われるくらいなら壊してしまおうと思ったのでしょう」
それはおまえだ。
だがデニスは信じられない顔をして私を見ている。……どうやら私がそういう人間だと思っているみたいだ。
「イルゼ。きみは、おかしい」
「……私はやっていない。婚約者の言葉を信じないの?」
じっと目を見つめれば、デニスの顔にわずかに迷いが生まれる。しかし妹が「デニス様!」と声を上げる。
「お姉様は本当はデニス様との婚約を嫌がっていましたわ。だからここまですればきっと別れてくれると思ったんです!」
違いない、という確信に満ちた妹の言葉に、デニスは「本当なのか」と私に確認する。
「婚約は解消したいと述べました。でも、だからといってあなたからもらったものをこんなふうにしたりしません」
長い沈黙。その間も妹は悪魔のように囁き続ける。デニスは誘惑に勝てなかった。
「信じられない……だってきみは、以前窓から飛び降りようとした……そしてその後、僕との婚約を解消したいと侯爵家から申し出があって……今考えれば、あれは僕と結婚したくなかったからじゃないかって……」
私は否定することができなかった。だって彼と婚約を解消したいというのは本当だったからだ。
「でもハンカチは違う。私はやっていない。妹が犯人よ」
「ひどいわ、お姉様。わたしを頑なに犯人に仕立て上げるなんて……」
妹が助けを求めるようにデニスの腕を掴む。いつかの光景のように、彼は妹に気遣う眼差しを向け、私には敵意の感情を向けた。
「自分のしでかしたことを認めずレイラに押し付けるなんてきみは最低だ。見損なった。きみが婚約者だなんて……こっちから願い下げだ」
行こう、とデニスが妹の背を押して立ち去ろうとする。ちらりと私を見る妹の目はざまぁみろと言いたげだった。
「デニス!」
私は大声で彼の名前を呼んだ。まるで決闘を申し込むような声に、思わず彼の足が立ち止まる。私はずんずんと彼の方まで歩いていき、無理矢理肩を振り向かせ、彼の目を射貫くように見つめた。
その視線の強さに彼がたじろぐ。
「私はやっていない。神に誓うわ。それでもあなたは私よりも妹の言葉を信じるというのね」
これが最後のチャンスだ。決めるのは彼だ。
「デニス様……」
「……きみを、信じることができない」
――ああ、そう。
ストンと感情が抜け落ちる。少しでもあなたを信じようと思った自分が馬鹿みたい。
「あなたがどういう人間かよくわかったわ」
冷たい声に、デニスが狼狽える。自分が取り返しのつかない過ちを犯してしまったのでないかという表情……もう何もかも遅いのだ。
「ええ、そうよ。あなたと結婚するくらいなら死んだ方がマシだと思ったから、あの日窓から飛び降りたのよ。あなたみたいな最低で、他の女を信じる愚か者と結婚するくらいなら死を選んでやるってね」
それはまだ少年とも言える彼にはひどく残酷な言葉として響いただろう。でも私は彼を傷つけたかった。前世での苛立ちや苦しみを今の彼の心に刻んでやったのだ。
それくらいいいだろうと思った。だってもう私は彼らに関わるつもりはない。妹とデニスが二人で幸せになるのならば、その祝いに呪いの言葉を贈るくらい許されるはずだと。
「さようなら」
無慈悲に別れを告げれば、呆然としていたデニスが弾かれたように手を伸ばす。しかしその手が届く前に私は背を向けて歩き出していた。
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