エピローグ 前編
茜の治療を済ませたあと、美琴の家で少し休んでから、イスカは自分の工房へと戻ってきていた。
対術師用のトラップがズタズタに破戒された自らの工房。
がちゃりと扉が開け、イスカは警戒することもなくずかずかと中へ入っていく。工房の中に居たのは、美琴から聞いた情報に近い、全身真っ黒の女だった。
音を立てて部屋に入られたのにも関わらず、トラップを破戒したのだろう下手人は、工房の中でいそいそと作業を続けていた。
『……やっぱりお前か』
『わぴゃあ!?』
呆れたように声を掛けると、下手人は、イスカの妹は怪鳥のような奇声を発した。
『ルル』
『うぇ、え? に、兄様?』
『人の工房で何やってる』
『こ、これはですね……』
実家にいた頃のように問い詰めてみると、ルルは視線を逸らして指を捏ねる。
昔から変わらない癖。今は見えない前髪の下では、きっと視線をぎょろぎょろと泳がせているのだろう。
『そ、そうです! アベル兄にやれって言われました!』
『そうか、ちなみにそのアベルはカインと一緒に捕まえてあるんだが』
『…………へ?』
ぽかんと口を開けて、ルルはこてりと首を傾げた。
『あ、あー……もしかして、私たち負けちゃいました?』
『まあな』
『うぇー……どうやったらあの状況から勝てるんですか、兄様』
『あいつらに聞け』
適当にそう返して、イスカは工房の棚をごそごそと漁る。
『それよりそのコート、俺のじゃないか?』
『えっ、あっ、これですか? 借りました!』
『貸した覚えがないんだが……まあいいか。契約に乗っかったタネはそれか?』
実家に置いて行った以上、使われることに文句はない。一言断って欲しさはあるが、連絡手段を放棄したのはイスカ本人だ。
『はい! 実家にあった兄様の血を生かしたまま染み込ませました!』
『俺の血の匂いで、アイツに俺自身だと錯覚させたわけか』
『はい!』
美琴の五感は鋭い。
彼女は餓者髑髏戦の時に嗅いだイスカの血の匂いを、無意識に記憶していたのだろう。イスカの生きた血の匂いは、本来イスカ以外から発生することはない。
つまり、美琴にこの黒コートをイスカ本人だと錯覚させたわけだ。
しかし、人の血が染み付いたコートを着込むのは何というか……。
『キモいな』
『えっ』
と、そんな種明かしはさて置き。
『というか、思ったより工房がボロボロだな。これ、全部お前か?』
『キモい……え? あっ、はい』
『上手いもんだな。誓約は破戒系か?』
『はい。戦いはからっきしですけど』
『これだけやれれば充分だろ。あと、空野茜の記憶を戻したのもお前だよな』
『えへへ、はい。ごめんなさい、襲う口実が欲しくて……』
……思うところがないわけではなかったが、魔術師というのはそういう生き物だ。神秘の秘匿は基本中の基本。後ろ盾のない他国での狼藉、その言い逃れの手段としてはメジャーなものだ。
『……ともかく、俺の勝ちだから、あいつら連れて帰れ』
『……まあ、仕方ないですよね』
『お前らだけで来たわけじゃないよな? 付き人くらいいるだろ。あとで車回すように連絡しといてくれ』
『はーい』
とまあ、魔術師組の後始末はこんな感じになった。
『でも、兄様』
『何だ?』
『そろそろ帰らないと、父様本当に怒っちゃいますよ?』
『……そうだな、伝言頼む。近いうち、数ヶ月以内に帰る』
『! はい! 伝えておきますね!』
『どうして、"輝剣"を使わなかったんですか』
車に運ばれる折、アベルがそう問うた。
"輝剣"とは、あの壊れた家宝のことだ。なので、どうしてと聞かれたら、壊れていたからとしか答えようがない。
『別に』
だが、まさか家宝を壊したなどと言えるはずもなく、イスカはそっぽを向いて回答を誤魔化した。
『あれを使えば、僕らを殺すくらいわけないはずです』
『……そうだな』
それについては誤魔化す意味もない。事実だからだ。
『僕らは……僕には、あれを使う価値もないんですか?』
切実な感情が込められた問いも、イスカにとっては何の意味も為さない。
『さあな』
最後まで、イスカがアベルの問いにまともに答えることはなかった。
『くそっ……』
◆
そして、時間は数日後。
茜の両親から、茜が目覚めたとの連絡が来た頃まで進む。
「茜! 大丈夫!?」
学校帰り、二人は見舞いへとやって来ていた。
包帯を巻かれた姿は痛々しいが、茜本人に悲壮感のようなものは見受けられなかった。
「おー、美琴、イスカ君。来てくれたんだ」
「そりゃ来るわよ。それより怪我は?」
「何か、治りが早いらしくて、来週中には退院できるって」
それどころか、傷自体はもう殆ど治っているらしい。魔術の効果もあるだろうが、イスカが予想していたよりも早い。元々治りが早いタイプなのだろう。
「跡も残らないらしいから、全然大丈夫だよ」
「それなら良かったわ」
怪我の話はほどほどに、二人はいつも通りゆるゆると雑談を始めた。その様子を見て、邪魔をしては悪いと思ったのか、茜の母は一旦病室から席を外した。
思っていたよりも早いが、丁度いいタイミングだ。
「ソラノさん」
「どしたのイスカ君。今日はあんまり喋らないね」
すっ、とイスカが深く頭を下げた。
「申し訳ありませんでした」
「え……ど、どうしたの? 何かされたっけ」
「今回の件、原因は全て俺にあります」
そうして、イスカは茜を襲った不幸とその顛末について、隠すことなく打ち明けた。
「ははあ……そういえば確かに、イスカ君に似てた気がするね」
「……怒らないんですか?」
「んー……いや、普通に身体痛いし、あの金髪君にはムカついてるよ」
「今からでも連れて来て土下座させます」
「ちょっと待ってそういう意味じゃないから」
退出しようとするイスカを引き留めて、茜は言葉を続ける。
「ムカついてるのは、その弟くんにであってイスカ君にじゃないよ」
「……いえ、あいつの責任は俺にもあります」
「そういう考え方好きじゃないんだよなー……取り敢えず、怒ってないから頭下げなくて良いよ。それより、事件の話ってどうなったの? 全然知らないおじさんが犯人ってことになってたんだけど」
「あぁ、そちらも謝らないといけませんでした」
前述の通り、犯人であるアベルは母国に帰ることになった。だがそうした時、茜を害した犯人が宙ぶらりんとなり、未解決事件になってしまう。
というわけで、蛇使いの陰陽師をスケープゴートとして使うことにしたのだ。髪は金髪に染め、記憶も適当に弄っておいたので、露見することはないだろう。
「……そっちの方が気になるっていうか、ムカつくんだけど」
「すみません」
しかし、アベルを逮捕させると、後のことが死ぬほど面倒になるのだ。
具体的には、魔術を使って脱出されたり、外から救出されたりなど。最悪、母国から援軍が来て、ついでにイスカの襲撃まで行われる可能性がある。その時、神秘のことを知る一般人である茜の安全を保証するのは難しい。
「ふーん、庇ってるわけじゃないんだ」
「? 別に、庇う理由はありませんからね」
「それはそれでどうかと思うけど……まあ、仕方ないのかな?」
そう言いつつも、茜はあまり納得していないようだった。
「この件ついては、私もあんまり納得してないけどね。茜が良いって言うならいいけど」
「何も罰とか受けてないの?」
「ミコトに半殺しにされてましたね」
「強めにぶん殴った!」
「うわ、可哀想」
ついでに言えば、プライドもばきばきにされている。イスカは初めから気にしていないし、美琴もその重さについては気付いていないが、彼にとっては結構な罰である。
「ならまあ、取り敢えずは良いかな。次会ったら引っ叩くけど」
「その時は手伝いますよ」
「私も!」
「私が手を出すまでも無く終わりそうだね」
そうして、一先ず事件についての諸々の話は、一部納得いかない部分はあるが、決着した。
ただ、イスカには、もう一つ謝らなければならないことがあった。
「ソラノさん……」
「ん? まだ何かあった?」
「約束を守れなくて……ごめんなさい」
「約束……? あっ、あの骨の時の話?」
言われて初めて脳裏をよぎったのは、餓者髑髏との戦い。
『怪我はさせません。約束します』
一方的な宣言に近いものではあったが、確かに約束と言っていた。
「いやいや、あれはあの時限定の話でしょ?」
「いいえ、約束が終わる期間も決めていなかった以上は、今も有効です」
「えぇ……意外とそういうところ頑固なんだね」
「頑固……まあ、そうですね。結んだ約束だけは裏切らないと決めているので」
「ふーん?」
茜の中のイスカは、生真面目なところはあるが、どうでもいい部分は案外適当な印象がある。約束というのは、彼にとってどうでもよくないものなのだろう。
「……そういえばさ、これ、返すの忘れてたやつ。返すね」
そう言って茜が取り出したのは、小ぶりの水晶に紐が取り付けられたアクセサリーだった。
「……これは」
「あ、占いの時の。お守りとか言ってたっけ。ぼろぼろじゃない」
美琴の言う通り、アクセサリーのメインである水晶は罅割れ、いくつかの欠片へと分かれていた。
「弟くんはね、イスカ君のふりして私のこと呼び出したの」
「……まあ、予想は付きますね」
「それで、これを返し忘れてたことに気付いてね。ついでに返そうと思って持って出たの」
その後の結末は、今更語るまでもない。
「何となく、感覚なんだけど、これを持っていなかったら、もっと酷いことになってたと思う」
アベルたちが、茜を生かす理由はない。
何故トドメを刺さなかったのかについては、イスカも疑問に思っていた。焦らせるため、とでも考えていたが、どうやら違ったらしい。
「……そうですね。込められた術式が消えている」
このお守りに込められたのは、十番、運命の輪を冠す術式を限りなく弱めたものだ。これは十六番、塔の術式と反対に、瞬間的に幸運を引き寄せる効果がある。
決して強い術ではなく、期待通りの効果を得られることも滅多にないため、大アルカナに当て嵌めたものの、殆ど使わない術式だ。
ただ、使い所を誤らなければ、命を救われることもある。
「ごめんね? 壊しちゃって」
「いいえ、これは役割を果たしただけです。壊れたわけじゃない」
「そうなんだ、それは良かったよ。人から貰ったものを壊すのはちょっとね」
無意識に、アクセサリーを握ったイスカが水晶を修復し、同じ術式を込め直す。
「わ、すごい」
「返す必要はないので、持っていてください」
「いいの?」
「はい」
美しさを取り戻した水晶を、茜がじっくりと見つめる。
「私が死ななかったのはこれのお陰で、これをくれたのはイスカ君なんだから、約束は守ったってことで良いんじゃない?」
「いや、そうは」
「なるよ。私がそう言ってるんだから」
約束は、人と人が結ぶものだ。
第三者による判定を必要とせず、故に二人の認識においてのみ完結する。
「原因を作ったのがイスカ君でも、殺されかけたのはイスカ君の所為じゃないし、死なずに済んだのはイスカ君のお陰」
「それは……都合が良すぎませんか?」
「何で? 別に良いじゃん。喧嘩したいわけじゃないんだからさ」
人は、破られた時責めるために約束を結ぶのではない。少なくとも、茜にとって約束とはそういうものなのだ。
「ありがとね、守ってくれて」
「俺は……」
「どうしても気になるって言うなら、今度魔術でも教えてよ。使えるかは分からないけど」
「……まあ、自衛にもなりますし、良いかもしれませんね」
「やった! じゃあ、これからもよろしくね?」
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