13話 (歴) 【特別扱い】―トクベツアツカイ―
13話 (歴) 【特別扱い】―トクベツアツカイ―
寒い。だから早く春になって。違う。まだ寒いままでいい。だって……。
柾さんに関して、不思議に思うことがある。
ある日のことだった。
「寒いですね」と弱音を吐いた私に対し、一目で高級品と分かる黒のロングコートを纏った柾さんは両腕を僅かに広げてこう言った。
「僕が温めようか?」
その本気とも、冗談とも受け取れる際どいセリフを平然と言ってのける柾さんが、不思議でたまらない。
(そんなこと言っちゃ駄目ですよ。私、本気にしちゃいますよ?)
(他の女性には言わないで欲しい。だって、鵜呑みにしてしまったらどうするんですか?)
(柾さん、絶対さらっちゃうでしょう?)
返答に困ってしまう私は、いつも笑って誤魔化しているけども。
***
バックヤードを歩いていた私を、「千早さん」と、ある男性が引き止めた。
振り返ると家電売り場担当の麻生さんが立っていた。
今し方、売り場からバックヤードに戻ってきたところらしい。観音扉がゆらゆらと揺れている。
「食事は済んだかい?」
「いいえ、今からです」
「ナイス。じゃあ付き合ってくれないか? 今から休憩なんだが、一人ってのも味気なくてなぁ」
「えっ。私が麻生さんとですか!?」
「いやなら無理にとは言わないが」
「全然いやなんかじゃ……でもあの、私、麻生さんと食事をしたいと仰る女性の方を、数名知っているんですけど……」
「は? なんだそれ?」
「麻生さんとお食事を一緒にしたがってる方って、たくさんいるんですよ? ご存知ないんですか?」
「ご存知ねーよ。さ、行くぞ。薄給でも食券代くらいなら払ってやれるから心配すんな」
「お金の心配ではなく……。あの、ご馳走してくださるつもりですか?」
「うん? お金の心配じゃなけりゃなんだ? それにさっきも言ったろ? 俺が払うって」
爽やかに言ってのける麻生さんがいい人すぎて、私の決心がぐらつきかけた。
(言えないわ。『殿方の前で食事するのが苦手だから辞退したいです』なんて)
実は、ひとさまの前で食事をするのが苦手だ。行儀作法に眉をしかめられたらと思うと、たまらなく不安になるのだ。
箸の持ち方、食器の置き方並べ方、食べ方が汚くないだろうかなど、マナーや所作を見られるのが好きではない。
相手が麻生さんという格好いい男性ともなると、緊張感も跳ね上がる。
(でも、せっかく声をかけてくれたのよ? 歴、あなたこの会社に友達が欲しいって言ってたじゃない)
「私、やっぱり行きます。今更ごめんなさい。いいですか?」
「もちろん。社員食堂でよかったか?」
「はい」
「ダイエットでもしてんのか? でも千早さんには不要だろ。元気に食ってくれ。そういう姿を見るのが一番好きだ」
麻生さんの洞察力は少し鈍っていたけど、あながち外れでもなかったのでこくんと頷いた。
そうだ、いま麻生さんと食事をして、慣れていけばいいのだ。
それに、麻生さんとの食事は何だか楽しそうな気もする。会話だって弾みそうだ。
「千早さんとなら、安心して食べれそうだから」
「? どういう意味です?」
尋ねたが、麻生さんは苦笑するだけで答えてはくれなかった。行くぞと促され、その場での会話はそれきりになった。
結論として私がその言葉の意味を理解するにはもう少し時間が必要になるのだが、それはまた別の話だ。
***
麻生さんの言葉に二言はなく、彼は私の分の食券代を払ってくれた。
悪いですよ払いますと言うと、俺に付き合って貰ったんだからと言う。
好きで付いて来たんですと言うと、じゃあ今度何か奢ってくれと言う。
そんな水掛け論は、私が食後に自動販売機の飲み物をご馳走することで決着がついた。
豆腐ハンバーグランチをトレイに乗せた私たちは、空いている席に座った。
瞬時に突き刺さる周りからの冷たい視線。まさか、早速洗礼を受けるとは思ってもみなかった。
(いつもと同じ社員食堂だというのに、今日はまるでアウェーな戦場にいるみたい)
『麻生さんと食事をし隊』数名の姿と目が合ってしまい、何とも居た堪れない。
とは言えこだわっていても仕方ないので気を取り直す。
(麻生さんに、いつも不思議に思っていることをオブラートに包んでさり気なく尋ねてみようか)
私が柾さんに気があることはバレバレのようなので、直球に訊いてもよかったのだろうけど。
(でも今は人目もあるし、何より、真っ昼間からそんな桃色発言をする私自身に耐えられそうにない……!)
「あの、麻生さん? 聞きたいことがあるんですけど」
「なに?」
「寒いですねという言葉に、人肌で温めてあげようか?、なんて言ってのける男性がいるとするじゃないですか。
やっぱり浮気性だからそんなこと平気で言えるんでしょうか。でも、中には本気にしてしまう女性もいますよね?」
「……待て。千早さんはそれをセクハラ発言だと思わないのか?」
麻生さんに指摘され、はたと気付く。そんなこと、考えてもみなかった。
(発言者が柾さんだったから、私のなかでは誘惑ワードという認識でいたけれど――)
立場を変えてみる。好ましくない相手から言われた場合、セクハラが成立する確率は高い。
「そ、そうですね。そうですよね。普通はセクハラになっちゃいますよね。……私、何を言ってるんだろう」
これでは麻生さんに『誰かからそう言われました』と自ら暴露したようなものだ。
「最近は柾の人気もないし、その手の心配は無用なんじゃないか?」
案の上、麻生さんは一発で相手の名前を言い当ててしまう。
それどころか柾さんであることを前提に話を進めてしまっている。
「つーか何だそれ。セクハラ以前にドン引きだわ。寒すぎる」
「あの……麻生さん。柾さんの人気、ないんですか?」
どきどきしながら尋ねる。
以前は女子ロッカーで柾さんの噂を頻繁に耳にしたものだが、そういえば、いつからだろう?
あまり柾さんの話題を聞かなくなったのは――?
「女性陣曰く、柾のやつがきゃーきゃー言われてるのは顔とスタイルの良さだって話だからな。
しっかしビジュアルが良かったところで、状況がなぁ。……ほら、少し前に指輪事件があっただろ?」
「あ……はい。でも、麻生さんはよくご存知ですね。あのときはまだ関店にいらっしゃったんじゃないですか?」
「そうなんだが、事件のあらましはここの同期から聞いたよ。五十嵐なんだが、知ってるか?」
衣料部門のチーフである五十嵐さんはユナイソンでも有名な人だ。
しっかりした体躯はスポーツをしているため日に焼けて健康的で。
口調も表情も優しげな雰囲気なため、話しかけやすく、相談する相手として打ってつけの人物らしい。
らしい、というのは、私自身はまだ五十嵐さんとは接点がないため、情報として知っているだけでしかないのだ。
「私はまだ挨拶しか交わしたことがなくて。麻生さんは五十嵐さんと同期だったんですね」
「あぁ。嵐……俺は嵐って呼んでるんだが、俺たち3人は同期なんだ。
でまぁ、嵐とは同郷なもんだから、酒を飲みながらよく柾の話をしたりするんだよな。指輪の件もそうさ」
「そうだったんですね」
「柾のやつ、この食堂で『佐和子』の名前を連呼してたんだって? それがまずかったよな」
「あの……、その『佐和子』さんって……」
「あー、千早さんに言うのも酷かもしれないが、端的に言ってしまえば柾の交際相手だな。
正確に言うなら、『柾が浮気をした女』だ」
麻生さんが酷だと前置きしてくれたお陰で心の準備は出来ていたつもりだった。でも、心臓の鼓動は速くなる。
「うちの店は全国に数百店舗あって、正社員は2~3年ごとに異動するのが通例だ。
異動つっても大体は県内か、隣りの県あたりを巡回することが多いんだが――」
麻生さんは食べ終えたトレイを横にスライドさせる。
空いたテーブルの上にひじを置くと、両手の先同士をくっつけ、じっと私を見つめる。
「大抵は散り散りになるが、中には『やぁ久し振り』ってなる場合もある。これは分かるな?」
「はい」
「柾と三木佐和子が交際していたのは、あいつらが伊勢店のときだったかな――。
当時の出来事を目の当たりにした伊勢店勤務だった社員が、いまこの名古屋店にいるのさ。
そんな『過去』を知ってる社員がいる中でさ、柾が不用意に『佐和子』っつー爆弾を放ったわけだよ。
当然周囲は思うわけだ。『柾はまだ佐和子を特別視しているんじゃないか?』って」
「……あの時、私は三木さん……奈和子さん?」
「姉だな? 佐和子の」
「えぇ。奈和子さんとのやり取りで頭がいっぱいだったんですけど、柾さんは結構際どい発言をしていたんですね」
「なんたって佐和子を庇った形だからな。柾の方にまだ未練があるんじゃないかって疑われても仕方ないだろうな」
確かに、そう思ってしまうかもしれない。
「だからこそ、柾に好意をもっていた女性社員たちが、『佐和子』には勝てないっつって諦め始めたんだ」
「柾さんの心にまだ佐和子さんがいるなら……身を引きたくなってしまう気持ちは私にも分かります」
「これが『柾の人気がない』と言った理由さ。あそこにいる社員も柾に好意を寄せてたが、最近やめたらしい」
麻生さんが視線で示す。その人物を確認した私は、開いた口が塞がらなかった。『麻生さんと食事をし隊』の面々ではないか。
「違います!」
「うわっ、な、なんだ、どうした……!?」
急に私が大きな声で否定したからだろう、麻生さんはビクッと肩を震わせる。
周囲を見渡せば、なにごとかと私の方を見ている。恥じた私は身を縮ませるしかなかった。
「おい……? 千早さん? 何が違うんだ?」
「……。いえ、あの……麻生さんは誤解してらっしゃいます」
私は麻生さんにだけ聞こえる小声でぼそぼそと囁いた。
「誤解?」
私の声が小さいため、麻生さんはやや前のめりの姿勢になった。
「あの方たちが好きなのは麻生さんなんです。麻生さんの出現で、柾さん派から流れていった方たちです!」
そしてそれは『恋』ではなく、芸能人を愛でるそれと同じものだ。
「いわゆる『推し』というやつです。彼女たちは『柾推し』から『麻生推し』になったんです」
彼女たち本人がそう言っていたのだから間違いない。そしてこれは非公開の情報でもなんでもなかった。
むしろ、麻生さんにそのことをアピールして欲しいと頼まれていたぐらいだ。
「派って。推しって」
なんだよそれ、と絶句する麻生さんに、私はダメ押しをした。
「それに、純粋に『麻生推し』になったかといえば、そうでもありません。
彼女たちは隙あらば『柾推し』に戻ります。それもコロッと。単に推しの対象が増えただけなんです……!」
「女ってこえぇ」
「ですので……」
そこで私は一息ついた。
「ですので、指輪事件が与えた影響は、実はそんなにないんだと思います……」
***
ショックを受けていたものの、何とか気を取り直したらしい麻生さんが口を開く。
「さっきの話だけどさ。柾に訊かれたんだろ?」
「さっきの?」
「『人肌で温めようか』」
「……!」
『温めようか』という言葉が麻生さんから告げられ、一瞬、柾さんではなく麻生さんから尋ねられたのかと思ってしまった。
わけもなく、心臓がばくばくとしてしまう。
(ち、違う……! 麻生さんじゃないから! それを訊いてきたのは柾さんだから!)
「そこで千早さんがお願いしますって言う手もある」
「ひえっ!?」
まさかそんな提案をされるとは思ってなくて。失礼にも麻生さんの顔を穴があくほど見つめてしまった。
「いっそ言葉に乗っかるというのも1つの手段だ」
「……」
(私が? 温めようかという問いに? 「お願いします」と答える……?)
……。
…………。
「そ、そんなの無理! 絶対無理ですっ!!!」
またしても食堂中に聞こえる声で叫んでしまった。大量視線による集中砲火。
「す、すみ、すみません……!」
周りに謝り、麻生さんにも謝り、椅子に座り直した。
「千早さんって、本当に面白いな」
肩を震わせて笑う麻生さんが落ち着くのを、私はお茶を飲みながら待ち続けた。
「ま、千早さんの思う通りにすればいいさ」
麻生さんは気楽に言う。
「あいつにとって、そういうのはスキンシップの一種なんだろうな。
冗談とも本気とも取れる曖昧なことばを駆使して恋愛を楽しんでるんだろうよ。
がっついているかと思えばそうでもないし、相手の出方次第で戦法をかえてくる策士のようなやつだ。
だから千早さんも、千早さんのやり方で恋愛を楽しめばいいんじゃないか?
頷いて柾を手の平の上で転がすのも一興だし、断ってやつを本気にさせるのも面白そうだ。
反応1つで未来は変わる。したいようにすればいい」
私は麻生さんに、頼れる大人の男性の風格を感じた。
「……麻生さん。今日はありがとうございました。私、麻生さんと食事をご一緒できて幸せです」
「光栄だねぇ」
声をたてて笑う麻生さんに微笑むと、彼は満面の笑みを返してきた。
***
柾さんが女性社員と談話していた。どうやら車のタイヤをスタッドレスに交換した話らしい。
「雪が降ったら寒いですよね」という言葉を聞いた柾さんは「お互い風邪ひかないようにしないとね」と答えた。
「温めてあげようか」という言葉はない。
私は柾さんがその女性と別れるのを待ち、タイミングを見計らって柾さんに話し掛けてみた。
「柾さん、明日の午後から雪が降るそうですね」
「キミは徒歩通勤だったな。雪道で転んだりするなよ」
「そんなにドジじゃありません」
「どうだか?」
挑戦的に見る柾さん。
(うわ、こんな顔、初めてみる……。卑怯だ……)
見惚れる私は、その想いを見透かされまいとむきになる。
「絶対しません! 滑ったら痛いですし、身体だって冷えてしまうじゃないですか」
「大丈夫だ」
柾さんは、静かに言った。
(何が大丈夫なんだろう?)
「冷たいんだったら、僕が温めるから」
さらりと言ってのけた。
(どうして私に何度もその言葉をくれるの……? 私だけ? 本当に? そんな、まさか。そんなことはあり得ないわ。でも……)
心がざわめく。期待してしまう気持ちが、どうしても消えてくれない。
果たして柾さんの真意はどこにあるのか。疑問は膨らむ一方で、ますます混乱を極めるのだった。
初稿 2007.02.02
改稿 2024.04.24
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