12話 (―) 【余裕無し】―ヨユウナシ―

12話 (―) 【余裕無し】―ヨユウナシ―

思った以上に、心のキャパは容量不足。




___千早歴side


『後悔』は、悪夢のような出来事のあとに押し寄せる。

手と背中には冷や汗。あぁどうしよう、早く直さなくては。

震える手で器具を持ち直す。鏡を置き直し、いざ。

「歴、何度呼べば下りてくるの!」

唐突に放たれるドア。そこには母が怒りの形相で立っていた。と同時に『ジョキン』とイヤな音がした。

スローモーションのように滑り落ちる私の前髪。もしやこの感覚は……この胸騒ぎはひょっとして……。

「会社に遅刻するわよ! いい大人なんだから早く支度をしなさ……」

母の咎めるような口調が尻すぼみしていった。その反応だけで解ってしまう。私はやらかしてしまったようだ。

「………ふふ」

「! わっ、笑ったわね……!」

「いやぁね。悪いのはお母さんじゃなくて、歴じゃないの。鏡を見てごらんなさいよ」

肩を小刻みに震わせている母は、これ以上娘を見ていると笑いが止まらなくなると判断したのか、私から顔を背けた。

(そ、そんなにひどいんだろうか)

勇気を出して対峙してみると、そこには古代エジプトの壁画に描かれる女性の姿があった。

前髪ぱっつん。黒髪のストレートヘアなので、水平に切られた前髪は余計に際だってしまっている。

「……っ!」

「そんなに落ち込まなくてもいいじゃない。今までの髪型だって長くて重めだし、陰鬱そうじゃないの」

「ひどい!」

「真実を言ったまでです。それに、そっちの方がスッキリしてるわよ」

「おっ、お母さんがいけないのよ!? ちゃんと起きてるのに大声で呼ぶから」

「先週遅刻しそうになってたじゃないの。娘のためによかれと思ってわざわざ来てあげたのに逆ギレするのかしら?」

年の割に若者ことばを駆使する母に勝てるはずもなく、私は肩を落とした。

「ごめんなさい」

「素直でよろしい。悪いことは言わないから、大人しく美容室に行った方がいいわよ」

再び鏡に前髪を映す。確かに、これ以上素人が迂闊に弄るのはよくない気がした。

「プロなら……こんな状態でも修正可能よね……?」

「えぇ、そうね。ここで歴がきちんと諦めるなら」

「分かった。大人しく美容院に予約入れることにする」

「いい心掛けだわ。さ、早く下りてらっしゃい。味噌汁が冷めちゃうわよ」

まさか朝ごはんの用意をしてくれているとは思わなかった。配膳は自分で、が社会人になってからのルールだったから。

「ありがとう。すぐに行くから」

味噌汁は生温くなっていたけれど、私を心配してくれる母の愛は温かかった。



***


こっそり制服に着替え、そそくさと出社記録を残し、自分の席へ向かう。幸い今日のオペレータは私一人。

POSルームは私だけの小部屋みたいなものだった。寂しい個室での単独作業も、今日ばかりはありがたさを覚える。

美容院には明日行こう。今日1日の辛抱だ。今日を乗り切れば明日は休みだから。

「千早さん、おはよう」

よりによって、この絶妙かつ最悪なタイミングで姿を見せた人物は、一番会いたくない柾さん!

「……おはようございます、柾さん」

(……まずい。どうするの、歴!?)

私の頭の上に手を置くそれも、挨拶の一部。背後からファイルを差し出すのもいつも通り。私は振り返らず、ただ受け取ればいい。

画面に集中し、朝一番は忙しいのだというニュアンスを伝えることが出来れば、柾さんに疑われず、この場を凌げるはずだった。

「入力を頼む」

「はい、分かりました」

画面に集中。忙しいフリ。キーボードを沢山叩いて。何気なくファイルを受け取るの。

(お願い、柾さん。今日のところは、このまま退室なさって下さい……!)

「よろしくな」

祈りが届いたのか、柾さんは私にファイルを預けると部屋から出て行った。怖々と窓を見れば、柾さんが去って行くところだった。

いつもなら名残惜しいこの瞬間も、今日だけはありがたい。我ながら現金な乙女心。安堵の溜息を漏らしながら机の上に突っ伏した。

「助かったぁ」

「何がだ?」

質問を被せてきたのは、つい先日この店に配属されたばかりの家電売場担当、麻生さんだった。不思議な顔でこっちを見ている。

「麻生さん!?」

「なんか挙動不審だな」

「き、気の所為ですそれよりどうしたんですか柾さんならさっき部屋から出て行きました早く追わないと見失っちゃいますよ!」

「明らかに動揺してんな……。別に、柾に会いたいわけじゃないんだが」

「してませんしてません動揺なんて断じてそんな」

「おい、何でこっちを見ない? 明らかに不自然だ」

「……」

「ニキビでも出来たか? そんなの可愛い方だって」

「違います。ニキビじゃなくて」

「じゃあ何だ?」

どうやら麻生さんは諦めてくれそうにない。仕方なく朝のできごとを報告した。

「前髪が伸びて邪魔だったので、自分で少しだけ切るつもりだったんです。でも切り過ぎてしまって……。

おとなしく美容院に行くまで待てばよかったんですよね。でも気になったら、いてもたってもいられなくて」

「前髪失敗したぐらいでそこまで恥ずかしがらなくても。にしても、柾が来たって? どうやってあしらった?」

「見られたくなかったので、PC入力で忙しいふりをしました」

「そんな健気な千早さんに朗報だ。髪の扱いに慣れてる俺が整えてやるよ」

「本当ですか?」

「疑ってるな? これでも美容師の家系だぜ。ほら、見せてみ?」

愚図る子供をあやすように、麻生さんは私を説得した。覚悟を決め、向き合う。私の前髪を見ると、麻生さんは呟いた。

「なんだ、言う割にはひどくないな」

「わ、私には大問題です」

「すまない。あ、でもスキばさみは流石に持ってないなぁ」

「麻生さ~ん」

「取り敢えず、応急処置で不揃いな部分をカットしておくか」

麻生さんは私の机の引き出しを開けると、中を漁り、やにわに業務用のハサミを取り出した。まさか……?

「だ、駄目です! 私は今朝それで……」

「それは千早さんが素人だからだろ? こら、暴れるな! 二回ほどハサミを入れるだけだ!」

「玄人でも業務用のハサミでは切りませんよね!?」

「こんな時に正論を言うな」

「言いたくなりますよ! 無茶苦茶です!」

痺れを切らした麻生さんは、男ならではの腕力で私の肩を押さえつけた。椅子の背もたれ深くまで、私の背中が押し込まれる。

「じっとしてろ、すぐ終わるから」

「う。は、はい……」

麻生さんの目は完全に据わっていた。真剣に取り組んでいるのがわかり、おとなしくならざるを得ない。

麻生さんの手が前髪をすくう。どこを見ていいのか分からない。何せこんな体勢だから、意識しない方が難しい。

作業が終わるまで目を閉じることにする。だから分からなかった。視界に入らなかった。

麻生さんを隔てた向こう……即ち、麻生さんの背後に立つ柾さんの存在に。



___麻生環side


俺は髪を切る使命に燃えていた。彼女の前髪を手に取り、切り揃える長さを考えていた。

いつの間にかムキになってしまっていた俺だったが、彼女に目を閉じられ、はたと気付く。

冷静に考えれば、この体勢がいかに不自然であるか、嫌でも分かるというもの。

俺の左手は彼女の肩にあるし、しかも椅子の背もたれに押し倒す形だ。

数ミリ単位の施術のため、よく見えるように顔を近付けていたのだが、

(もし誰かがこの場面を目撃したら、俺が彼女に襲いかかろうとしている構図に見えるだろうな)

壁に耳あり障子に目あり。誰かに誤解されてしまっては、彼女が可哀想だ。

(啖呵を切っておいてなんだが、やっぱり美容院で直すよう進言しておくか)

「なぁ千早さん。思うんだが、やっぱり」

口を開いた時だった。

「何を思うんだ?」

声の主は、是非とも続きを聞かせてくれとばかりに有無を言わせない声で尋ねてきた。

(……最悪だ。どうしてこうなるかね?)

柾は誤解をしている。まぁそう思われても仕方がない体勢だったことは確かだ。

だが、そんなことじゃ百戦錬磨の名が廃るぜ、柾。

(知ってるだろう? 俺が絶対彼女に手を出せないことぐらい?)



___柾直近side


目撃したからには麻生を引き剥がさねば。それが唯一の選択肢だった。

「千早さんから離れろ」

「……俺に弁解させてくれたらな」

「弁解などいらない。彼女が全て教えてくれている」

「何だって?」

彼女の涙を見たのは、何もこれが初めてではなかった。これが2回目。

前髪を変えたのか、彼女はエキゾチックな雰囲気を纏っており、その変貌と表情にゾクリと胸が騒いだ。

(麻生にむりやり迫られていたのか?)

ちらりと麻生を見れば、やっと千早が流す涙に気付いたようで、慌てた様子で彼女から距離を取った。

「おいおい、なんで泣いてる!?」

「ごめんなさい、麻生さん」と繰り返す千早に、麻生は「いや、俺が悪いんだ。俺が悪いんだが……」と謝る。

「でも違うんだ本当に! 俺は彼女に襲いかかってたわけじゃないぞ!? 断じて!」

千早の涙に取り乱したのか、麻生は必死に弁解を始めた。

「俺は前髪を切り揃えようと集中していただけだ。やましい気持ちなんてなくてだな、」

「どうだか」

「信じろよ!」

「どう見ても迫ってるようにしか見えなかったが」

「え? え? 違います。私、そんなことされてません! 柾さん、誤解です!」

「ほらみろ、本人がそう言ってる! いや、だったらなんで泣いてるんだよ千早さん!」

「わ、私、尖端恐怖症で……」

「「は?」」

「柾さんが声を掛けた瞬間、麻生さんの身体がビクッて、僅かにですけど動いたんです。

その時、ハサミの尖端が目の方を向いてたから私、怖くて……。それで、涙目になってしまいました」

そう言い辛そうに告白する千早は、「実は」と朝の出来事をかいつまんで話し始めた。

「そうだったのか。誤解してすまない。悪かったな、麻生」

「お前はもう少し俺を信用するべきだと思うんだよなー」

「お前が信用に足る人物だった試しがあるのか?」

「それを突かれるとぐうの音も出ないが、俺がそういうこと出来ないってこと、お前は知ってるだろ?」

「あぁ……そうだったな。忘れてた」

「……そうかい」

千早のことで頭がいっぱいだったため、『そのこと』を失念してしまっていた。

(そうだった。こいつはいま、デリケートな問題を抱えていたんだったな)

誰とでも友好的な関係を築けてきた麻生が、『社交性に難あり』のレッテルを会社から貼られたのは数年前のこと。

そのせいで出世街道から外されるという屈辱を、いまもなお受け続けている。

「麻生、本当にすまない」

「気にすんな。それだけ千早さんを守りたかったってことだろ?」

最後の方は僕にだけ聞こえる小声で囁かれ、こいつには何もかもお見通しなのだなと理解する。

「千早さんも、悪かったな。俺、むきになっちまって」

「そんなことないです。私のために頑張ってくださろうとしてくれたことは嬉しかったですから」

「そう言って貰えると救われる。でもその前髪さ、俺はいいと思うぞ」

「本当ですか?」

「あぁ」

麻生に太鼓判を押されたことが嬉しかったのか、もじもじした様子で千早は今度、僕の方を見た。

「その髪型、似合ってると思う。僕は好きだ」

「……っ。ありがとう……ございます」

本当に似合ってると思うよ。

官能的で、でも子供の顔も持つ、不思議な女性。キミの色んな姿に僕は目が離せない。

いつだって視線はきみの方に向く。これは習慣とでも言うのかな。

まるで中毒のように、身体が勝手に動いてしまうんだ。




初稿 2007.02.01

改稿 2024.04.24

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