07話 (歴) 【姿情追い】―シジョウオイ―
07話 (歴) 【姿情追い】―シジョウオイ―
その人の不在を本気で考えた事がある? とても寂しくて、空っぽな気持ちになるの。
お昼休憩が終わる寸前。
手を洗うために女子トイレに入ろうとした私は、隣りの男子トイレから出てくる社員とぶつかりそうになった。
「ご、ごめんなさい!」
「……っと、俺の方こそごめん」
私とは、あまり接点のない売場の男性社員だった。
器用に肩と耳で携帯電話を挟んでいる。ハンカチで両手を拭いているため、そんな仕草になってしまったのだろう。
「――あぁごめん。いまトイレで千早さんとぶつかりそうになっちまって、謝ってたところ」
今度は電話の相手に謝っている。
「それで? え、なに? あいつが!?」
急に素っ頓狂な声をあげたものだから、何事かと思い、振り返ってしまった。
彼も思った以上に大きな声になってしまったことに気付いたのだろう、慌てて左右を確認している。
私と目が合った彼は、バツが悪そうだった。元々私から遠ざかっているうえ、既に話し声も小さくなっていた。
「――柾……異動するん……急に決まっ……」
聞き取れなかったその文言は、青天の霹靂そのものだった。
(異動? 柾さんが? そんな!)
***
事務所で柾さんを見付けた瞬間、私は前置きもせず開口一番こう切り出していた。
「あの……っ、異動、なさるんですか?」
さり気なく尋ねたつもりだった。普段の会話の延長、日常会話。
でもこれは非日常な出来事。決して他愛ない話題なんかじゃない。
どこから聞いたのかとばかりに、質問された本人は僅かに目を見開いた。一拍置いてから、柾さんは口元を緩めた。
「寂しくなるね?」
「……そ、そうですね」
違います。そんな言葉が聞きたいわけじゃないし、こんな冷たい言葉を返したいわけでもないんです。
模範回答としては“寂しいです”。そうと分かっていながら、この期に及んでどうして素直になれないの?
「急に決まってね。明日異動するんだ」
どうか神様、嘘だと言って。それとも、その願いは神などではなく、本部の人事課に向けるべきなのだろうか。
明日だなんて早過ぎる。どうしてそんな急に?
「配属先はどちらですか?」
「岡崎店だ」
出世街道だと気付く。柾さんは期待を寄せられている。
重役に上り詰める人材の多くは、その店を経由して本部へ栄転するパターンが多いのだ。
「柾チーフ、お電話です」
背後からの呼び声に、私は我に返る。
「それじゃあ。また会う日まで元気で」
***
翌日は重たい瞼を上下引っ付かないようにするのが精一杯。寝不足の朝だった。
今日からあの人は居ない。
誰よりも早く出勤して、BOSS缶を片手に、静かな建物の裏から道路向こうの風景を見ていた姿はもうない。既に過去のものだ。
あの人が見ていた景色と同じものを見ようと、今日、私は誰よりも早く出勤した。
扉を開けて、建物の外に出る。そこは普段使われない臨時の駐車場。
敷地の向こうには道路。通学途中の小中学生が列を成して往来している。
そんな景色を、柾さんは見ていた。
いつもと同じ朝なのに、柾さんが居ない。ただそれだけで、何もかもが違う。
でも、これからはこの朝が続くのだ。彼の居ない毎日が。
(きっと慣れるわ)
(本当に?)
(忘れることだって出来るわよ)
(それはいつの話?)
(いつかは分からないけれど。もしかしたらすぐにでも気になる殿方が現れるかもしれない)
(他の人? 彼じゃなくてもいいというの?)
(それは……)
(『お願いです。どうか行かないで』。そう言えばよかった)
だって私、まだ何も貴方に伝えていない。
そもそも自分の気持ちを誤魔化したままだった。
現実を突き付けられてから動いていては遅過ぎるというのに。
「おはよう」
静かなテノールボイス。聞き慣れた挨拶。私の心臓はピューモッソ。これは現実?
「……どうして……いらっしゃるんですか?」
彼はコンクリートの壁にもたれ、腕組みをしていた。その片手には、相変わらずのBOSS缶。
私を見ながら、沈黙ののち、彼は深い溜息をついた。
その口元には笑みが浮かんでいる。眼鏡を押し上げて、彼は悠然と言い放った。
「僕が、とは言わなかった」
「!? ……さすがの私も、怒りますよっ?」
もしかしたら、ずっとこのまま振り回される?
いいえ、そうはさせません。
そう誓った、朝陽の中の出来事。
初稿 2006.07.10
改稿 2024.04.24
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