06話 (歴) 【萌え出づ】―モエイズ―
06話 (歴) 【萌え出づ】―モエイズ―
その動作の1つ1つに吸い寄せられる。貴方は一体何者?
意外な場所で、意外な人を見掛けた。
ユナイソンの事務所内。従業員がまばらに動く中、その人物だけが静かに椅子に腰掛け、簡易裁縫箱を前に、濃紺の生地と格闘していた。
「驚きました。裁縫もお手のものですか?」
尋ねる私の顔が自然にほころぶ。顔を上げる彼の眼鏡のレンズに、はにかんだ私の顔が映った。
「千早さんか。商品を陳列していたとき、棚にボタンを引っ掛けてしまってね。千切れ落ちたわけではないんだが」
だらんと垂れてしまった袖口のボタンを付け直そうとしていたところだったようだ。
ボタンと生地の狭間、その僅かな隙間に、糸切りバサミを滑り込ませる。
けれでも生地と糸の色が同化してしまって判別がつかないのか、間違って生地を切ってしまわないよう、苦戦を強いられている模様。
柾さんは口元に生地を近付けた。その唇が、歯が、ボタンを捕らえる。
荒々しく、そして確実に。獲物を引き千切る。コロン、とボタンが落ちる。
「……ふぅ」
その姿に色気を感じてしまった私は異常だろうか。でも、果たしてどの姿に目が眩んでしまったのか。
セクシーな伏せ目? 意外な裁縫姿? 男らしい力任せ? それとも――
くちびる?
「何でも自分でやれるようにならないと」
どうして気付かなかったんだろう。そこにサインが転がっていたことに。
もしかしたら。ボタンと生地の狭間、その僅かな隙間に糸切りバサミを滑り込ませるように。
柾さんと、柾さんにちらつく女性の影に隙間を見付け、離縁という名の糸切りバサミを仕込めたかもしれないのに。
一言。そう、たった一言。こう言えばよかったのだ。
「どうして私の所に持って来てくださらなかったんですか?」と。
もし私がそう言っていたら、二人の距離は変わっただろうか。
何故言えなかったのか。勇気を出して言えていたら。
(言えていたら?)
――ううん。それはもう、言いそびれてしまった今となっては無意味な次元の話だけれども。
初稿 2006.06.23
改稿 2024.04.24
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