05話 (歴) 【貴顕紳士】―キケンシンシ―

05話 (歴) 【貴顕紳士】―キケンシンシ―

それは甘い甘い誘惑だった。



「じゃあ、僕の責任だね」

柾さんは、あっさりと認めた。

煙草を燻(くゆ)らせ、朝にはコレが一番なんだと豪語する、日課のBOSS缶を片手に。

眼鏡越しに視線が絡まる。――駄目だ、私は、その視線に弱い。

いえ、これはいつも日曜にやると知ってるのに気付かなかった私の責任で……。

その言葉はでも、実際には出てこなかった。「いえ」と言うだけがやっとで。

後悔しても遅い。タイミングを逃した今、抜け抜けとその後を繋げる勇気なんて、私にはない。

完全に柾さんの雰囲気に呑まれている。……認めます。実は、見惚れていました。

「xxxxxxxxxxxxxxxxxxxx」

だから柾さんが何を言ったのか、私は覚えていない。多分、お互い注意しよう、みたいな言葉だと思う。

「コンタクトにしようかな」

どうして、いつの間に、そんな話になったのか。気付けば柾さんは窓ガラスを鏡代わりにして御自分を見ている様子。

「痛くないんですか?」

「昔はコンタクトだった。面倒だからやめたけど」

「そうだったんですか」

コンタクト経験も、眼鏡をかける必要もない私には返答に窮する質問。

我ながら面白みに欠けたコメントになってしまったと、軽く自己嫌悪。

その後も他愛のない会話が続いた。とは言え、私は相槌を打つのが精一杯だったけれど。

そんな柾さんは、そろそろ仕事を切り上げると言う。私はパソコンのディスプレイで時間を確かめる。

「あ……。私も帰る時間です」

そうか、と柾さん。

「じゃあ、一緒に帰ろ?」

陥落する瞬間を、私はその身で味わった。

甘い言葉。穏やかな口調。優しくて心地のよい声。眼鏡の奥から覗く意味深な瞳。

落ち着き払った仕草は、私が考える『おとなの男性』そのものだ。

断る勇気も奮えず、またしても私は無言。でも耳の裏側まで赤面してると思う。

男性からのストレートな誘いに免疫がないため、対処の仕方が分からない。

そんな私がおかしかったのか、柾さんは小さく笑った。その大きな手を、私の頭に乗せ、ポンポンと優しく叩く。

「気を付けて。また明日」


貴方に堕ちていくのが分かる。その一挙一動に、私の視線は釘付けだ。

貴方の声に私の耳は反応し、貴方が触れる手に私の心は乱される。

大人の余裕ってズルイ。年の差ぶんだけツラくなる。

その背を見送りながら密かに願う。「明日も会えますようように」。

会うだけなら。一方的に見ているだけなら、罪も小さいはずだから。

そう、貴方は好きになってはいけない人。

だって女子社員は皆言ってるもの。『柾さんには婚約者がいる』って。

私はその事実を胸に刻みつけておかなくてはならない。



初稿 2006.04.16

改稿 2024.04.24

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