03話 (柾) 【鬼畜計画】―キチクケイカク―

03話 (柾) 【鬼畜計画】―キチクケイカク―

Target , Lock on.



「ミスった?」

その報告に振り向くと、うな垂れた女性が一人、ぽつんと立っていた。

叱られると覚悟しているからか、俯いて床ばかり見ている。

黒い髪、黒いカーディガン、黒いスカート(――は制服だから仕方ない)、黒のパンプス。

衣服の殆どが黒色に覆われていては、陰気さを促しているといっても過言ではない。

彼女は『POSオペレータ』だと告げた。専用のPCシステムを使い、店内の値段を変更するのが主な仕事だ。

聞けば、値段の入力ミスという初歩的な間違いを起こし、顧客に迷惑をかけたと言う。

超過分はサービスカウンターにて返金、謝罪も済ませ、この問題は円満解決したらしい。

ならばもう問題はないはずだ。この女性は何をしに遠路遥々、コスメ売り場の詰所まで来たのだろう?

「それで?」

「間違えてしまったのは柾さんが担当なさっているコスメでしたので、ご報告が必要かと思い、伺いました」

「そう、それはご丁寧にどうも。だがいちいち僕に報告しなくていい。きみは新入社員?」

「は、はい。千早(ちはや)と申します。先週からユナイソン名古屋店に配属されました」

「千早さんね。これからは気を付けるように。頑張って」

「本当に申し訳ありませんでした……っ」

結局、彼女の顔を見ることはなかった。俯いたままの彼女は、さらに深いお辞儀をしたから。

新米の彼女のことだ、どうせ近い内にまた同じようなミスを犯すに違いない。まぁ通過点だから仕方がないのだが。



***


案の定、彼女との再会は呆気なかった。

……一体何をやってるんだ? あれからまだ数時間と経っていないのに。またしても痛恨のミス。

一体彼女の上司は何をしている? なぜ見直しの必要性を説かない?

「千早さんとやら。値段の打ち間違い1件。レジで通すと2,980円だが、正しくは2,780円の月間奉仕品だ」

入室ざま背後から声を掛けると、POS室にいた彼女は着席をしたままPCの前で身体を硬直させた。

「千早さん」

もう一度呼ぶ。恐々と立ち上がり、僕の手から怖々と商品を受け取ると、PCを操作し始める。心なしか、その手は震えている。

「すみませんでした……。本当にごめんなさい」

「謝罪は聞き飽きた。きみ以外のオペレータは? 確か、ベテランがいたはずだが」

「私が配属されたので、前任者は異動なされました。今日から私一人なんです」

「一人でやるのは今日が初めて?」

「はい。先週まで本社でレクチャーを受けていましたが、今の私では時間内に入力するだけで精一杯で、とても見直しにまで手が……」

回らないというわけか。

その言葉を裏付けるように、彼女の机の上には分厚い未入力用紙が束になって積まれていた。ご大層にも赤ペンで至急とまで書かれて。

これを全部打ち込まないといけないのか? 彼女一人で? 

まだ入ったばかりで、システムを覚えて間もないと言うのに? いや、そもそもまだ覚えていない作業だってあるんじゃないのか?

それはちょっと酷だろうと思わなくもない。

彼女の横顔を見れば、軽く唇を噛み、必死にディスプレイと格闘していた。涙を堪えているのは明らかだった。

「泣いても状況は変わらないよ」

「悔しいんです」

返ってきたのは意外な言葉だった。

「どうして?」

「柾さんはさっき励ましてくださいました。でも、応えられなかったばかりか、こうして失敗して、台無しにしてしまいました」

(励まして……?)

「『頑張って』って仰って下さったこと、とても嬉しかったんです。本当に頑張ろうって思ったんです」

それなのに、と小さく呟く声は、かろうじて僕の耳に届いた。

言った本人はとうの昔に忘れている。あんなのは単なる社交辞令だ。

それでも彼女にとっては、張り詰めた一日の中で栄養剤のような役割を果たしたのだろう。

「……済まなかった。そうとは知らずに」

書類の山の半分を掴み、空いていたもう1台のパソコンを起動させる。驚いた千早の視線を気配で察したが、今彼女を見返している時間はない。

「きみは自分のペースでやればいい。大丈夫、落ち着いて。至急と書いてある紙だけ僕に回してくれないか? 入れていくから」

「柾さん、POS登録がお出来に……?」

「簡単な操作なら。POSオペレータが1人しかいない店舗もある。必要最低限の入力だけは、嫌でも覚えるさ」

「で、では……こちらをお願いします。お昼から商品を積むらしいんです」

「貸して」

「はい」

パソコンが立ち上がる間にスマホでコスメ売り場へ電話をかける。1コールで部下の三原が出た。

「柾だ。所用でしばらく売り場に戻れない。留守を頼む」

『お任せ下さい、柾チーフ』

頼もしい部下の了承を得ると、本格的に入力作業に取り掛かった。

とは言え、千早に言ったことは本当だ。僕には簡単な操作しか出来ない。

恐らくは正式な入力の方法があるのだろうが、今日の午後安くすることだけに専念する。

ひょっとしたらPOSオペレータが見たら卒倒するかもしれない、無理やりなやり方で。

だが、僕なりに店と千早を慮ってのことなのだ。これぐらいはどうか許して欲しい。

キーボードを叩く音だけが、小さな部屋を支配する。彼女の呼吸すら聞こえない。本当に息をしているのだろうか。

ひと段落つき、入力済み用紙を指定の保管庫に入れる。彼女の方も、何とかノルマはこなせたようだった。

「持ち場に戻ってもいいか?」

質問のようであり、実際には断言だった。彼女の返答を待つまでもなく席を立つ。

「あっ……ありがとうございました! あの、本当に……助かりました」

慌てて彼女も席を立ち、僕の方を向くと、身体をくの字に折り曲げた。1つに束ねた黒髪が、さらりと滑り落ちる。

……この感情は、一体何だ? やけに気になる……。

「……髪」

「え?」

思わず口を突いて出た単語。聞き返されるのも無理はない。余りに唐突過ぎた。

気付いた時には彼女の背後に回っていた。僕の手は、その長い黒髪一房を掴んでいた。

規則を真面目に守った黒色のシュシュを一気に抜き外す。

「……!?」

何が起こったのか分からないと言った驚愕の表情で、千早は僕を振り返る。

手に握られたシュシュを見て、それでも進言できずにいる、どこまでも気弱な彼女。ただ怯えた目が、僕を見返していた。

僕はと言えば、こんなことは認めたくもないのだが――内心、取り乱していたかもしれない。

驚くべきことに、彼女の顔をまともに見たのはこれが最初だと気付く。

真っ先に、そのきめ細かい肌に感心した。コスメ売り場の長だから、そこに目が行くのはある意味では職業病かもしれない。

そしてその髪――彼女の髪は絹糸のように細く、定規で引かれた線のように真っ直ぐで、今まで触れてきたどの髪質とも違っていた。

艶のある髪に遊ばれている。これが髪だというのか? これが?

背中を流れる光沢の髪の海におずおずと左手を伸ばせば、どの香水にも負けず劣らぬ良質な香りが鼻孔をくすぐった。

彼女が“いやいや”と身をよじればよじるほど、つられて髪も左右に揺れる。

まるで、汚らわしい手で触れるなと髪が怒っているようだ。触れるものなら触ってみなさい――そう、声高に宣言されているかのよう。

髪の分際で、一丁前に翻弄するのか? 

僕への挑戦? ならば、受けて立つ。思い通りにしてやろうじゃないか。僕が降伏させてみよう。

「千早さん。覚悟しておいて」

「な、なにをですか? もしかして私、目をつけられたんでしょうか……?」

僕から1歩、また1歩と離れながら手櫛で髪を梳き、再び纏め直す千早。その時現れた美貌に、僕は声を失くす。

二重瞼からのぞくダークブラウンの瞳、お揃いの色のマスカラ、美味しそうな……唇。

もしかしてこれは、僕だけが知る彼女の秘密? それとも、既に他の誰かが――?

彼女と男性が仲睦まじくデートをしているさまを思い描いた瞬間、チリっと心に焦げた痛みが走る。

嫉妬? まさか。まだ出会って間もないというのに……!

だが、僕の心は彼女と親しくなりたいと願ってしまっている。こんなことは初めてで、戸惑いつつも彼女から視線を外すことが出来ない。

「……あぁ。だから、覚悟しておくように」

本気で覚悟しておいて。決めたからには、とことん追い詰めるから。

カウントダウン開始。リアルタイムで動き出す、狩りの時間。獲物は僕の未来のファム・ファタル。

果たして駆け引きが通用する相手だろうか? ストレートに仕掛けた方が、案外良い反応が返ってくるかも知れない。

だが……。

なおも赤面し続ける千早を見て思う。恋愛不足。不慣れ。だとすれば、転がすのも一興。

自分でも分かってる。どれだけ酷い男なのか。

けれども放っておけないんだ。この先、彼女には振り回されるハメになる――。そんな確かな予感を、なぜか感じるんだ。

だからそれまでは主導権を握っておきたいんだ。有利な内に、手綱を引き締めておきたいんだ……。



初稿 2006.10.23

改訂 2024.08.12

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