第55話 とある悪役令嬢の矜持
「何を見ているんだい、セシリア」
喪服の父がそばに来た。
幼い頃の私は、悲しい時、辛い時、努力が嫌になった時、青い空を見ていた。
下を向くと涙が溢れるから。
見上げると涙は溢れない。
私の身体はそうできている。
青い空が好きだった。
ずっと見ていたくなる色だ。
けれど今日だけはずっと、空が真っ赤に燃え上がることを望んでいた。
そうしたら涙が溢れてくるのに。
空が赤ければ泣いても許される気がしたから。
果てしなく続く青い空の色。
いくら手を伸ばしても、手に入れられないうつくしい青。
青い空が、やがて一瞬赤くなり、夜が訪れる。
世界は毎日繰り返す。
悲しい日もそれは変わらない。
私を中心に、世界は回っていないから。
「青い色が好きです、お父様」
青は始まりの色だから。
希望の色だから。
赤い空は悲しかった。
夜が訪れるから。
「赤は嫌いか?」
「嫌いではありません。けれど悲しい色です」
母が病床に臥せっている時、たびだび吐血した。
赤は悲しい色だ。
父は無言で頭を撫でてくれた。
「青い空に、憧れてしまいます」
きっと私とは無縁の世界だから。
……。
数年前の出来事を思い出してしまった。
ハインリッヒ家は今日も慎ましい生活を送っている。
どれだけ状況が変わろうと、暮らし方は変わらない。
華美な家具はなく、豪華な料理もでない。
屋敷には、にぎやかな空気はなく、
「セシリアお姉様っ」
小さな弟が腰に抱き着く。
自分を慕う弟の頭を撫でる。
いつかこのやさしい弟とも対立してしまうのだろう。
ハインリッヒ家の分断。
シャイロック派の家臣たちは私が、ハインリッヒ派の家臣たちはこの子が。
シャイロックの暗躍で、ハインリッヒが分断される前に、自ら分断を。
推進派と保守派の消耗戦では共倒れだ。
いよいよとなれば裏切りが起きるだろう。
そして裏切った者だけが生き残る状況に未来はない。
シャイロックだけではアクアテラのバランスが崩れてしまうだろう。薄利多売、買い叩き、金こそが全て、名誉も金で買え。否定はしない。
利益を求めることは商会として正しい姿だから。
格式高い貴族に屈辱を与えられる成金貴族の気持ちは分かるから。
だが肯定もしない。
偽りの実力主義の世界で生き残れない、やさしい者もいるから。
ハインリッヒにも成金貴族の意地がある。
生き残るために何でもする。ハインリッヒだからこそ救える者がいるから。
だから、それぞれの派閥に分かれ、ハインリッヒとして生きていく。
成金貴族。
金で成り上がっただけの、貴族に成りきれない、誇りの無い貴族。
罵られることは慣れている。
だがハインリッヒにも決して折れない
民を救えない誇りに価値などない。
立身出世の我らにとって、貴族からの罵倒は誉れ。民からの罵倒こそ恥と知れ。
今の選択が最善ではないだろう。
悪手なのかもしれない。
だが、確実に生き残ることができる。
民のために生きることができる。
「すまない。セシリアには辛い役目を押しつけている」
痩せこけた顔で父が言った。
傍に執事のクラウスが立っている。
「いいえ、十分に幸せな日々を送れましたから」
「もし……いや、今はまだやめておこう。まだ可能性にすぎない。この目で見るまでは」
父が何かを言いかけた。
どうしたのだろう。
クラウスを見るがいつもの執事の仮面を張り付けた表情でわからない。
だが時が経てば教えてくれるはずだ。きっと今はまだその時ではないのだろう。
幼馴染を切り捨てた私に怖いものはない。
今でも頬を叩いた感触が残っている。
行く先が地獄であろうと、ただ足掻くだけだ。みすぼらしくなろうと、惨めだろうと、唾を吐きかけられようと、罵倒されようと。
終わりのない夜がこようと、成金貴族のハインリッヒを生きるのみ。
心にはいつも、決して折れない、アクアテラのハインリッヒの矜持がある。
……。
今日も無謀なチョコレート開発が続いている。
破綻した魔術回路を補うように、質の良いクリスタルで強制的に魔工具を動かしている。当然、相反する風と火の魔術回路で、回転も温度も不安定。無駄な高速の回転は軸受を摩耗させ、カカオ豆を投入した際の負荷の増加で板は歪み、安定しない熱でチョコの風味が絶え、軸が歪み魔工具が故障する。
チョコレートの固形化は完成した。
だが、満足のいくチョコレートには程遠い。
そして魔工具の修理で時間がかかり、効率が悪かった。
これでいい。
最高のチョコレートはシャルが完成させるから。
きっと空へ羽ばたくのだろう。誰も到達できない高みへと。
そこに至ってから皆気づくのだ。
世界を変えてしまった天才の存在に。
私と共に魔工具を直し、発展させようと頑張る職人には申し訳なさを感じていた。
ハインリッヒは代々、職人を愛する。
埋もれている、まだ無名の職人を見初め、支援することを誉れとしていた。
そして気づいた時には大きな商会になり、立身出世していた。職人に敬意を払うのが、ハイリッヒ商会の意義だ。
今の魔工具の壊れる原因は、職人が作る、器である工具ではない。
強引な魔術回路による、安定しない魔力供給と相反する魔法陣の特性によるものだ。職人に罪はなかった。期待以上とも言える。
魔工具の修理を通し、彼らが自身の資質を疑わないことだけ願っていた。
十分に尽くしてくれていたから。
今日も故障が起き、職人たちがシャイロック家の次期当主ガイウスに叱責されていた。
彼は工房にふらっと現れ、状況だけを聞き、ネガティブなことだけ説教をし帰っていく。その繰り返しだ。
説法を解くというのは気持ちが良いのだろうか。理解できない行動原理に従う人が、理解できない言葉を喋っている。
何を言っているのか分からないが、健気な職人への叱責に私は耐えられない。
「私の魔術回路が破綻しています」
職人を庇う私に、夫となるガイウスは眉をひそめた。
「大学では優秀であるのかもしれない。だが、理論と実践は違うものだ。仕事とはそういうものだ。大学の成績と頭の良さは全くの別物なのだよ、セシリア」
「おっしゃる通りですわ」
頭を下げると、彼を装飾するきらびやかな宝石が目に入った。
対して、自分は貴族にしては質素な格好だ。
彼との違いに、恥と思う感性を持たなければならないのだろうか。
宝石よりも職人の技術に憧れを持ってしまう。煌びやかな世界よりも、汗と涙の溢れる情熱の迸る《ほとばしる》世界を愛おしく思う。
香水の匂いよりも、努力の匂いの方が好きだった。
職人の汚れは誉れだ。
荒れた肌や節くれだった手は、実直な努力を表す生き様の表れ。
彼らの費やした時間を思うと、愛おしく感じてしまう。
そう思うのはおかしいのだろうか。
彼らの工房はいつだって素敵な空気に満ちている。
「はぁ。すまない。君にはまだ難しかったかもしれない。つい本音を漏らしてしまった。それより、こんな粗末なところにいないで、今日の夜は美味しいディナーを教えてやろう。良い服も着せてやろう。物事を学ばせてやろう。美しい君にはここや、その服は似合わない」
「はい。ありがとうございます。こんな粗末なところにあなたは似合いませんわ、ガイウス様」
職人たちが私を睨んだ気がした。
ガイウスと共に外へ出る。
情熱の場所を粗末なところと言い切れる家名を、名乗らなければならない。
私は悪党シャイロック家のセシリア・ハインリッヒ。
職人の皆さん、どうか心からの軽蔑を、私にください。
私は
……。
シャイロックにも人を惹きつける魅力がある。
方々から金を奪い、都合の良い相手には惜しみのない金を支払う。
特定の人を持ち上げ、それ以外の人を徹底的に叩くやり方。
金による忠誠は即効性があり、絶大な効果を有する。
だからこそハインリッヒはシャイロックに負けた。そのやり方は否定はしない。勝てば官軍、負ければ賊軍。
現にハインリッヒに従ってくれている職人は不憫な状況に置かれている。
だが肯定はしない。
決して飲み込める生き様ではないから。
「それにしてもセシリアさん、シャイロックの一員になるのですから、もっと服装に気を遣ってくださらない?」
夜の会食でガイウスの母に苦言を呈される。
ハインリッヒにとって精一杯の豪華な服だ。
「はい」
「今後はセシリアさんにも、シャイロックに相応わしい感性を磨いてもらわなければなりませんね。あなたの赤い髪は美しいのですから。ガイウスにふさわしいくらいに、もっと輝けるでしょう」
チョコレートの固形化。
研究室で実験していれば、当然大学で噂になった。
その魅力的な話題に食いついたのは、夫となるガイウス。
そしてその話は彼の両親へと伝わる。
手放しで私と結婚となる話であったのに、徐々に内容を変えていった。
ハインリッヒのシャイロック派の人からも圧をかけられていく。
私は多くの大事なものを天秤にかけ、大切な幼馴染を傷つける選択をした。
助けを求める選択もあった。
だけど時間が足りない。
彼女を理解してくれる人が少ない。
成功を待っていたら、ハインリッヒはつぶれてしまう。
それほどにハインリッヒは
助けを求めることは、真っ直ぐな情熱を歪める行為に思えた。
職人の未来を奪う行為だけはしたくない。
何より一番の理由は、シャルの研究に自分はいらないから。
私にできることは全て成した。
今後は足枷にしかならない。
シャルはもう飛べるはずだ。
もう青空に羽ばたくだけだから。
力強い羽を持つ鳥に必要なのは安全な鳥籠ではない。
自由に羽ばたける、果てのない青空。
美しい碧眼の瞳のシャルにはそれが似合っている。
彼女を馬鹿にした、私諸共、有象無象の貴族を見返す物語を見せて欲しい。
そしていつか、私は命乞いをすることになるだろう。
ハインリッヒの矜持を胸に。弟とハインリッヒだけは助けてくれと。
……。
婚約の発表の日となった。
今日も世界は変わらない。
青空が広がっていた。うつくしい青だ。
見上げていると父の声がかかった。
「今もまだ、空の青さが好きかい?」
「はい。何が起きようと、私の気持ちは変わりません」
「そうか。セシリアにとって素敵な一日になることを願っている」
「今まで、ありがとうございました、お父様」
ハインリッヒの
上を向けば、私の矜持が崩れることはない。
私の身体はそうできている。
悪党シャイロック家のセシリア・ハインリッヒになろうと、決して折れることのない意地だ。
恥じることなどない。
ただ一つ。
私は、右手を握る。
今もまだ、なまなましい感触が残っていた。
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