第2講義:モンティ・パイソン ライフオブブライアン(1979、テリー・ジョーンズ、イギリス、94分)
前回の授業ですが、ちょっと難しかったでしょうか。でも教えてあげません。どうしても教えてもらいたいなら「いい疑問」を自分で思いつくことです。誰かに依存してはいけませんし、焦ってもいけません。ゆっくりのんびり、人生は暇潰しです。わたしの大学のサークル棟の壁に《LIFE IS A CARNIVAL》と赤ペンキで書き殴ってありました。カナダのロック・バンド、ザ・バンドの曲です。ちょっとダサいですよね。ソウルミュージックのアース、ウィンド&ファイヤーとかプログレ・ロックのピンク・フロイドのほうがカッコイイですよね。この話、わかるかな? スマホでググってみてね。わたしの選曲が「いいね!」って思うなら、あなたはわたしの授業を受ける資格があります。
さて唐突ですが、小説の書きかたの神髄を教えます。人生の裏街道を行きなさい。小説家とあろう者が「幸せになりたい」なんて欲張っちゃ絶対にダメです。ベタとネタを使いわけなさい。わたしは、いじめで自殺したニュースを見ていつも思うこと、それは「何月何日何時何分、どこで、誰が、どうやっていじめたか?」をこまめにメモしておきなさい。学校裏サイトやライングループのタイムラインをスクショ保存しておきなさい。それは訴訟の決定的な証拠になるんです。何も言わずに黙って死んではいけません。あなたのいじめは完全にネタです。ネタはいじめの証拠になりますから、ネタができるうちに楽しくなってくると思います。スクールカウンセラーや両親に訴えてもいけません。彼らはいじめを抹消することしか考えていませんから。どうせなら人権派弁護士に相談しなさい。
いまわたしは「ベタ」と「ネタ」の違いを言いました。どういうことかわかります? あなたの人生に深刻などん詰まりが発生しました。たとえばアルコール依存症とか、お金がマジでなくてホームレスになったとか、いじめやパワハラセクハラでうつ病になったとか、それらを隠してはいけません。決して「恥=ベタ」ではないのです。堂々と「ネタ」としてみんなに笑って言いふらしなさい。自慢しなさい。ネタとは、自分を冷静かつ客観的に観察・描写・表現することを言います。自分を突き放して表現しなさい。
そもそも、いじめられて誰かに相談することは不可能なんです。彼ら彼女らは、すでにうつ病になりかけています。もう何もしたくありません。起きてると苦しいし辛いし、夜も寝られません。彼ら彼女らにまず与えられるのは睡眠導入剤です。三食食べて健康を回復して、それから<いじめリベンジ>にしなさいね。クラスは卒業しても、あなたの記憶はなくなりませんから。ごゆっくりどうぞ。
さいわい、わたしはいじめられたことはありませんが、いじめっぽい状況に陥ったことはあります。掃除の時間、いじめ首謀者は机の並びを整理しながら、わたしの机を触りたくなくて「この机汚い! ねえ、誰か運んでよ!」と叫びました。さっそくわたしは黙って机を運んで「これでいい?」とその子を強く睨み返したのです。その子の怯えた目つきといったら、もう…
そのときから、いじめはなくなったのです。いじめられてうつ病になるなんてアホみたいな話です。やられたらやりかえせ、言葉の暴力を受けたら顔面でグーパンやぞ! 実際に暴力を振るってやる。集団で襲われたら、一人ずつ確実に復讐してやる。二度とわたしに歯向かえないようにしてやる。わたしはつねにそう思っていました。
いじめの首謀者は桜田順子。冗談みたいな名前です。本名ですから仕方ありません。わたしは決して許しません。桜田順子は結婚して苗字を変えたでしょうが、美園小学校と光陵中学校と西高等学校に通っていた桜田順子め、わたしの恨みをてめえに込めて死んじまえ。苦しんで苦しんで死ねばいい! 結婚して赤ん坊を産んでその子に殺されろ! もうとっくに死んでるかもしれませんがね、ふふ…。
わたしが中学生のとき、いじめ自殺がありました。同い年の男の子でした。彼は高校の校庭で首を吊りました。当時は一〇クラスもあるマンモス校でしたから、わたしは彼を知りませんでしたが、担任の先生が辞めて、遠くの学校に赴任したそうです。話はそれで終わりです。終わりですが、まだ終わっていません。わたしは彼のクラスを知りませんでしたし、クラスメイトも誰も知りませんでした。もし一人でも知っていれば、わたしは彼に変わってリベンジしていたでしょう。
「いじめはよくない」と世間的にはよく聞きますが、そもそも学校へ行くこと自体が超ストレスなんです。先生もいけすかないしクラスメイトもいけすかない。なんで集団で勉強しないといけないの? 一人で勉強してはいけないの? それぞれペースってもんがあるじゃないですか。間違えたら公開処刑じゃないですか。ヨーロッパの上流階級はみな個人授業でした。いまの日本もマンツーマン授業が主流となっていますが、学校だけは集団必至です。コロナでオンライン授業になり、学生たちはどう思っているんでしょうか。わたしなら授業を受けたふりしてどこかに遊びに出かけます。我慢なんかしません。わたしの辞書には「忍耐」「努力」がないのです。学校なんかやめてしまえ。アメリカに行ってしまえ。いじめはなくなるぞ。でもアメリカは「スクール・カースト」っていうのがありますが、日本には「下剋上」っていうのがあります。いくら学校の権力者であろうと、カーストの最下層であるあなたが目指すのは、「S/M」です。あなたは皮の鞭を金髪碧眼の男の子のお尻にペチン、と叩きつければよい。そうすると、それまで威張っていた男の子は、誰かを支配するのはもうコリゴリだ、とすすり泣くでしょう。
S/Mにおける役割の可逆性に転覆力が潜んでいるとしたら、つまり一セックス、一民族の内に「自然に」ある権力に関する仮定を疑わせる可逆性があるとしたら、S/M共感者たちは支配‐服従の二項対立そのものに対して実に立派な姿勢をとっていることになる。いまの一文はレオ・ベルサーニ『HOMOS』の引用です。わたしがこうまでして言及するのは、いじめとS/Mは強者・弱者の相似的関係があると思うからです。SMクラブには、どういうお客さんがくるのでしょうか。生まれつきマゾヒスト? そうかもしれません。でも企業のトップたち、CEOや役員たちがこぞって来店し、S嬢の巧みなサービスによって日常の鬱憤を晴らし解放される、重要なニーズがあるのです。企業のトップは弱音は絶対に吐かないし、泣いたりしませんが、人間は誰しも弱い存在だから、全裸で皮紐のハーネスをつけお尻や股間にペチペチしてもらうと強面のハゲたおっさんたちは必ず泣くのです。それはとてもキモくて異常で奇妙な光景です。見たくもありません。だけどいいですか、これが真実です。汚くてゴツいハゲたおっさんたちがオムツを履かせてもらってバブバブ言うのは序の口です。はかせてもらったオムツに脱糞したら、一人前のマゾヒストです。
S/Mの誤った知識が敷衍しています。Sはサディスト・加虐趣味者で、Mはマゾヒスト・被加虐趣味者と言われますが、SはSlave(奴隷)のS、MはMaster(主人)のMなので、実践のプレイにも立場上の可逆性があるのです。
アメリカのゲイのSMクラブにはBDSM(ボンデ―ジSM)というのがあります。これはM側の危険性をなるべく排除して安全かつ安心にプレイできる厳密なルールにのっとってます。SMプレイに際し、このままでは危険すぎると思ったら、セーフ・ワードを決めておけばいいのです。日本の歌舞伎町では風俗嬢が殺されただの重傷だのとニュースがときどき流れますが、あれは下手糞な素人S男性がやったものだろう、とわたしは邪推します。
二〇数年前、六本木のアングラショーを定期的に開催するクラブで、S嬢とM嬢のプレイを鑑賞したところ、S嬢は本当にこまごまと働きつづけ、M嬢は全裸でデンと構えているのが見えました。「Sが奴隷のスレイブで、MがマスターのM」というのは本当だと、わたしは実感しました。
そのころわたしは三人の女性とセックス込みの交際をしておりました。一人は二五歳年上の未亡人Aさん、一人は重度の統合失調症で漫画書きBさん、一人は地方のうつ病者の無職Cさんでした。わたしはひょんなことから自室にCさんを泊めました。当時のわたしはフリーライターで、PCを前に原稿を書いていたのですが、Cさんは全裸でわたしの漫画を読みふけり、唐突に「こんなの出てきた~」とか言って、股間から白濁液がタラリと垂れており、仕事中のわたしは「静かにしてくれよ…」と心のなかでうんざりしながら、荷造り用テープでCさんの手足を束縛しました。「しばらくテーブルや椅子の気持ちになってみな」と、わたしは仕事中の原稿に集中しました。ようやくCさんの身体が解放され、翌日Cさんは地方に帰っていきました。わたしはほっとしました。
当時のCさんの状況とわたしのそれとは明らかに違っていました。「荷造りテープの白い色を見ると、恐ろしいトラウマが返ってくる!」と言って、被害妄想好きでリアクション・オーバーのCさんらしい言動でした。わたしは罵声もあげず暴力もせず、ただただ「わたしにかまうな」と言うのも煩わしく、黙って実行を移したのです。
村上龍が同じことをやっていました。執筆中、デリヘル嬢を呼んで「モノの気持ちになりなさい」と言ったのか言わないとか。デリヘル嬢はラッキーと思ったことでしょう。何もやらずやらされず、お金を支払ってくれるのですから。
SMプレイは男女の別を問いません。六本木のショーの例は、観客のほぼすべてが異性愛男性(通称:ヘテ男)だろうと見越してのことでした。観客がいなければ、双方とも極上のSMプレイが実現できるかどうか、二人とも理想的なパートナーになれるかどうかが問題です。それはセックスとは無関係です。生殖器の粘膜摩擦による、凡庸でありふれた性的快感は必要ありません。知的に高度なエロスがお互いに必要なのです。パートナーがマッチするときには、男性カップルにも女性カップルにも当然当てはまります。SMの信頼関係は婚姻関係よりも精神的に深く繋がっています。
ふたたびベルサーニと、さらにフーコーを引用します。「ナチズムにはエロスが不在であった(あるいは、せいぜい「付随的」なものでしかなかった)と主張したのも不思議ではない」フーコーはエロスが実に多く存在していたことを知っていたのではないかとわたしは思いますが、彼にはエロスの不在を言い張るだけの理由がありました。彼はS/Mの主人-奴隷の関係と抑圧的社会の支配構造とを慎重に区別していました。彼が言うには、S/Mは「エロスの関係内における権力構造の再生産」ではありません。「それはセックスの享楽か身体の享楽を与えられる戦略的ゲームによって権力構造を行動で示すこと」なのです。いじめる側は享楽なのに、いじめられる側はぜんぜん享楽じゃない、これは日常的な暴力で、虐待です。学校だけではありません。職場のパワハラやセクハラも、学校より深刻ないじめです。かつて電通社員が働きすぎて自殺したというニュースがありました。長時間労働による精神疾患で自殺しました。一九九一年と二〇一五年のことです。
しかし戦略を形成する権力構造を持たないゲームとは何でしょうか。S/Mが再生産しないものは社会の諸構造の意図性である――たとえばフーコーは称する「ナチの夢を支えている民族の方正のようなものへ向かう、吐き気を催すプチブルの夢」。まったくその通りですが、主人と奴隷、支配と服従の二重構造はナチズムでもS/Mでも同じことになるのであり――民族の「純血」の夢やS/Mゲームの厳密な形式次元ではなく――この構造が享楽を与えるのです。S/Mにおいて戦略的な権力関係をフーコーが享楽の約束事と呼ぶとき、こう示唆しているのだと思います。主人-奴隷の関係をゲームの枠組みに挿入した結果がS/Mの快楽であり、この快楽はそれらの関係内にあるのではありません(だからナチズムにはそれは存在するはずがない)、と。
この関係は、支配と服従が美化され、これがゲームを具体的なものにするのに必要な約束事として選ばれると、快楽源になります。確かにS/Mがもたらす政治的な救いはそれが実行するこの望ましい権力構造の二次性にかかっています。もしこの構造そのものが快楽の基本的源泉であると見なされるのなら、それならナチズムがその構造を取り入れる動機となった民族のイデオロギーとそのエロスの魅力とは無関係だと認めざるをえません。つまり、S/Mがその構造を美化することからは、その構造が約束事として一貫して特権を与えられてきた位置も、この約束事が生み出す興奮も、いずれも説明できないことと同じことになるでしょう。
またまた脱線しました。このままでは事故になり、犠牲者続出です。困った困った。
ロシアの偉大な巨匠ドストエフスキーは、たいへんな頭痛持ちで生まれつきの癲癇持ちでした。わたしは脳梗塞になってから、あの苦痛と恐怖を知りましたけど、彼は右脳左脳の両方が癲癇だったのですから、想像するだけでどうにかなってしまいます。
ついでに彼は、社会主義に反して空想社会主義のサークル員になったため、官憲に逮捕され死刑判決となりましたが、減刑されてシベリアに流刑になりました。そのとき彼は死の淵に降りたって『死の家の記録』『白痴』そして『罪と罰』が誕生しました。わたしは一冊も読んでません。
さて、『モンティ・パイソン ライフオブブライアン』を上映します。わたしの話と映画は関係ないじゃんか! とご立腹の学生さんたちもいると思います。だけど、本当にそうでしょうか? わたしたちは、いますぐに解決したい問題があって、その解決にはなかなか達しません。「わかりやすく」「てっとり早い」解決法はないものか? そんなの絶対にありません。それは回答を求める者のご都合主義です。
でも意外と回答になるかもしれません。あなたたち学生さんが視野狭窄に陥らなければの話ですけどね。それと、キリスト教の歴史をちょっと知ってなければ、ちんぷんかんぷんかもしれません。聖書? そんなもんいらん。高校の歴史(倫社)教科書でOK。
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