第10話 ルベル社
『のえる! のえるー!! たすけて、のえる!』
ひとりの妖精が、菫の砂糖漬けの仕込みをしていたノエルのところにものすごい速さで飛んできた。
「どうしたんですか?」
いっしょに仕込みをしていたアンセルが尋ねると、妖精は答えるが。
「たいへんなの! とにかく、たいへんなんだから!」と要領を得ない。
「落ち着いて話せ、大変だけじゃわからん」
ノエルが言うが、妖精はなお興奮して話し出す。
『ベコー港の近くに住んでるともだちが、助けてって言ってきたの!』
「ベコー港って、あのカミーユ・シモンさんの会社がある辺りですよね……」
「で、何があったんだ」
『そこでヘンなシロップが出回ってるんだって! そのソースを作るのに妖精が無理やり捕まって羽根もぎとられたり、あたりの果物やお花が伐採されすぎてるの!』
「……そりゃ確かに気の毒だが、なんで俺が助けなきゃいけねえんだよ、関係ないだろ」
ノエルの冷淡な返事に、アンセルはさすがに妖精に同情する。
「師匠、とりあえず通報だけでもしたほうがいいのでは……」
「妖精から聞きました、って言うのか? 気まぐれな妖精の言葉じゃ証言にならねえよ。脱法菓子のことはそこの土地の監察官に任せとけ」
『はくじょうもの! でも、のえるに関係なくもないよ、このソース売ってるニンゲン、さんじゅ、って名前なんだって!』
「……なんだって」
初めて、ノエルの顔が険しくなった。
「サンジュ? 猿がどうしたんです、師匠?」
「……アンセル、しばらく店は休みだ。俺は、ベコー港に行ってくる」
急なノエルの言葉に、アンセルは驚いたが、すぐに自分も手を止めた。
「じゃあ、僕もいっしょに……」
「ダメだ、お前は留守番してろ」
「ええっ!?」
置いてけぼりを喰らうことにアンセルが驚いている間に、ノエルはあっという間に着替えると、「そこ片付けとけよ」とひとこと言って、妖精といっしょに出ていってしまった。
アンセルは師匠の出ていった調理場で、1人悪態をついた。
「……なんなんだよ〜! 大事なことはいつも隠してコソコソしてばっかじゃないですか! なーーーにが片付けとけよ、ですか! ほんっとに自分勝手なんだからもう――」
アンセルは、ふと、調理台の上にノエルの万年筆が置いてあるのを見つけた。
きっと慌てていたのだろうし、万年筆は今回の急な外出には要らないのかもしれない。何なら、ベコー港でならその場で必要なものはいくらでも買えるだろう。……だが、アンセルは水を得た魚の如く、ニヤリと笑った。
「……師匠〜! 忘れ物ですよ〜っと……」
アンセルは、ノエルに気づかれないように小声で言ってから、忍び足でこっそり店を出て、師匠のあとをついて行った。
ベコー港は、国一番の賑いを見せる港町だ。貿易商、露天商、海外からの観光客にスリや盗人もわんさか溢れている。
「……おい、サンジュはどこだ?」
妖精に尋ねてみるが、妖精はぐったりと疲弊していた。
『ニンゲンが多すぎて力が出ないよ〜大地の力が感じられない〜』
「ハァ……肝心な時に使えねえな……」
『ヤダぁそんな事言わないでよー!』
「……おや、ノエル殿ではないか?」
名前を呼ばれて、ノエルが振り返ると、護衛を連れたカミーユ・シモンがいた。
「どうされた? もしやスリにでも遭ったか?」
カミーユには妖精が見えていないようだ。魔力を持たない人間には妖精は見えないのだが、昨今では別に珍しいことではない。田舎では植物の育ちを助けてもらったり、製菓の材料を求めるには妖精との交渉は不可欠だが、都会では機械で農作物を効率的に量産できるようになったから、妖精たちの助けがなくても食べ物に困らなくなったのだ。
「いやあ、ちょっと野暮用でしてね……つかぬことを伺いますが、この辺で最近サンジュと名乗るせむしの男を見ませんでしたか」
「
「妙なこと……?」
「最近、ルベル社がシロップを高値で売買しているらしい。甘美なそのキャラメル・シロップは、一度口にしてしまえば、頭脳明晰、筋骨隆々に生まれ変わる、と……ほら、アレだ」
声をひそめたカミーユが指さした先をノエルが見ると、そこには、人混みの中で、頭3つほど身長が飛び抜けて高い老若男女がいた。みんな筋骨隆々で、目が爛々としていて、キビキビと胸を張って歩き……奇妙なくらいに元気ハツラツとしていた。一見すると、とても健康で有能な人々に見える。だがノエルにはすぐにわかった。あれは、明らかに魔法の食材をほぼ原液のまま身体に取り込んだ、過剰摂取の症状である。
予想外の光景にノエルは驚いた。妖精からは人間がこんな事態になっていることなど聞いていなかった。しかし、妖精たちは元々人間たちをおもちゃ程度にしか思っていないのだ。同胞の妖精たちが酷い目に遭っていれば憤慨するが、その裏で人間たちが生きようが死のうが彼らにはまったく興味がない。
だがともかく、十中八九このシロップの製造に、妖精の言う違法な製菓材料が使われている可能性は高いだろう。
「ルベル社というのはどこにあるんです?」
「ここからそう遠くはないが……何なら、そこまで送ろうか」
カミーユの厚意にノエルは頷き、共にルベル社へ歩き始めた。
ルベル社に到着すると二人の門番が身分証を求めてきた。カミーユは自分の知人だと取り出してくれたが、門番は全く聞く耳を持たない。
「どうするノエル殿。何か言伝があるなら引き受けようか」
「いや……しかし……」
ノエルは言伝をたのみたいのではなく、猿と呼ばれる男の姿を確かめたいのである。ここで引き下がりたくはないが、打つ手がなく立ち往生してしまう。そんなノエルに、突然声がかけられた。
「あ、いたいた! 師匠ー! 忘れ物ですよ〜!」
置いてきたはずのアンセルが人波をかき分けてやってきたのでノエルは仰天した。
「お前……! 留守番してろって言っただろ!」
「はいはいごめんなさい。でもいきなり置いていくなんてさすがにひどすぎますよ。あ、これ忘れ物の万年筆です」
万年筆なんか要るか、と叱られると思っていた。もともと口実のために持ってきたものだ。ノエルが怒ろうが知ったことではないとアンセルは思っていた。
だが、万年筆を見たノエルは予想外の反応を見せた。
「……でかした」
そう言って、万年筆を握りしめたのである。その上にアンセルに対して。
「……仕方ない、ついてきてもいいが、危ない目に遭いそうになったらすぐに逃げろよ」と言った。
「へ……?」
アンセルはわけもわからないままノエルの隣に立つ。ノエルが万年筆を見せると、ルベル社の警備員の態度が急変した。何やら慌てた様子でヒソヒソと耳打ちし合い、ふたりのうち一人が会社の中に駆け込んだ。
隣でノエルの万年筆を見たカミーユまで、驚いて固まっている。
「ノエル殿、あなたは一体……!?」
「なあに、ちょっとした縁でもらった万年筆が役に立ちました」
「ちょっとした縁なんかで手に入る代物では……!」
カミーユの動転ぶりにアンセルは首を傾げた。
「その万年筆、そんなにすごいものだったんですか? 調理場に置きっぱなしでしたよ?」
アンセルの言葉にカミーユは気絶しそうな程にうろたえた。
「調理場に……!? 見習いくん、この万年筆はな……」
「気にするな、森の中ではただの万年筆だよ。だが正直この場では助かった」
アンセルがよくわからぬまま、先ほど会社に引っ込んだ門番が戻ってきて、どうぞ中にお入りください、とノエルたちを丁重に案内した。
ルベル社の社員たちは、みな目を爛々とさせて、シャカリキに働いていた。疲れを感じている社員は誰一人としていないようで、みんな蒸気機関車のように働いている。
「……アンセル、この様子をどう思う」
「ええと……みなさん、すごくやる気に溢れていらっしゃいますね」
「本当にみんな仕事を楽しんでるならそれでもいいけどな。目をよく見ろ」
ノエルに言われて、アンセルは労働者たちの目をよく見てみた。
一見らんらんと輝いているように見えた瞳の奥は、虚ろで焦点が合っておらず、みんな目が血走って充血状態だった。それに気がついた時に、アンセルは初めてぞっとした。
突然、バタン!と大きな音がして、アンセルは驚いて振り返った。見ると、社員がひとり床に倒れていた。アンセルが、大丈夫ですかと声をかけるまもなく、屈強な男たちが倒れた社員を担いで、どこかに運んでいってしまった。
アンセルは、数ヶ月前にホテルのクロカンブッシュに頭から突っ込んで倒れた自分を思い出して血の気が引いた。
そうこうしているうちに、ノエルとカミーユとアンセルは社長室に通された。
社長席に鎮座していたのは、フランソワ・ルベルではなかった。せむしの男が座っていて、ニタニタと笑いながらこちらを見ている。
「ケケ、ケケケ! 社長代理のサンジュでございます……お久しぶりですね、ノエル様! ケケケケケケ!」
サンジュは、その名の通り、猿のごとくけたたましい声で笑った。
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