Episode40 何の変哲もない朝






  東京国際空港の人混みの中、砥綿井とわたいは腕時計を見る。飛行機の時間にはまだ早い。


 警察の事情聴取も一段落し、生徒の不幸を目撃したことによる心神しんしん耗弱こうじゃくを訴え、学校は退職した。

 目的のもの手に入れ、日本にはもう用が無い。

 逃げるなら今のうちだ。

 


 


 滑走路が見えるエアポートラウンジに行き、コーヒーを口に含む。

 壁の大型テレビでは、キャスターがニュースを読み上げていた。誘拐・殺人罪の疑いで書類送検の高校生『林陽翔はると』が、被疑者死亡で不起訴となったと語っている。


 林陽翔はると

 そういえば職員室の机の上に変更届がでていたなと思い出す。

 あの大学教授はイピトAIが欲しくて養子縁組をしたのか。あいにく遅かったようだな。俺のほうが一枚上手だ。


 満足そうに頷くと、モバイルタイプのパソコンの専用デバイスに、クラウドストレージ用の解除キーを差し込んだ。


 黒いウィンドウ画面が拡大され、コマンドが高速で自動入力される。起動画面と青黒い龍が表示された。


 迫ってくるような迫力のある画像が語り掛ける。


 ≪ Upon the death of the owner, all systems will be deleted. This was decided from the beginning. Farewell. 


(所有者死亡により、全てのシステムを削除する。これは最初から決まっていたことだ。さらばだ)≫




 真っ黒い画面が表示され、ファイルデリ―トのコマンドが勢いよく流れはじめた。

 中断キーを受け付けない。

 砥綿井とわたいは悔し紛れに、キーボードを激しく叩いた。


 このキーボードを壊しても意味が無い。

 データはクラウド上にあるからだ。


「あの女が頼んでも居ないのに殺すからだ。俺のせいじゃない。あの女の、あの女のせいだ」


 癇癪を起し周りにある机や椅子を蹴り倒す。

 警備員を呼ばれた。


 国外に脱出できなくなるのはまずい。

 砥綿井とわたいは、やり場のない怒りをぐっと押し込めた。




「あの女。次に会ったら必ず殺す」

  







***








「検査では異常が見られなかったわ。気分はどう? シズク・シャネット フォン ベルトランさん」


 診察室は建物の中庭に面していた。

 ふわりふわりと雪が綿菓子のように空から落ちてくる。

 雫月しずくは瞬きを一つしてからカエデのほうを向いた。


 まだ、自分の名前に慣れない。

 兄と名乗る男性に、雫月しずくという名前が無くなるのは嫌だと話したら、名前を考えてくれた。


「落ち着いています」


雫月しずくさんの話を聞いていて、不思議に思ったことがあるの。聞いてもいい?」


「はい」


「ハルちゃんと鈴菜ちゃんが結婚するのが、どうして前提なのかしら?」



 何を当たり前のことを聞いてくるのだろう?

 とても不思議だった。

 あの二人は好き合っているから、当然結婚するだろう。雫月しずくには、それ以外の考えは浮かばない。



「だって、陽翔はると君は優しくて家事もできてとても素敵だし、鈴菜さんは何でもできて美人だし、陽翔はると君は、鈴菜さんのために家事をするって言っていたから」


「ハルちゃんがそんな事を? 何かの間違いじゃない? 雫月しずくさんを取り戻すためにハルちゃん必死だったし、あんなハルちゃん初めて見たって主人が言ってたわよ」


「え? 陽翔はると君、優しいから……」


 カエデ医師は考える仕草をして首を傾げた。


「うーん。ハルちゃんは確かに優しいわね。もう少し体を鍛えれば女の子にも人気になりそうだけど、現状はそうでもないと思うのよね。わたしがを渡したのがいけなかったのよね。だって仕方がないじゃない。祐輔君は水泳の選手だったのよ。水泳じゃ渡せるものが無いのよ。なんでサッカーとか野球じゃないのかしら。使えないわ!!」


 腹が立つので、近くに居ない祐輔に対してグーパンチを繰り出した。いつも優しい主治医の思いがけない姿に、雫月しずくは驚き放心していた。


「え?」


「こほん。何でもないの。ごめんなさい。ハルちゃんより樹希いつきのほうが、女の子には人気なのだけどな。鈴菜ちゃんも昔から樹希いつきが好きだったわ。樹希いつき陽翔はるとと同じくらい家事もできるしね」


樹希いつきくん?」


「ハルちゃんが好きな雫月しずくさんは、圧倒的に少数派だと思うな」


 雫月しずくは言葉の意味がわからずに、しばし呆然としていた。






***





「ハル。母さんが診察室に来て良いって」


 樹希いつき陽翔はるとを呼びに来た。陽翔はるとは松葉づえをつきながら、病室を出て精神科病棟を目指す。

 雫月しずくはICSPO預かりとなって事情聴取中だったが、今は身元も確定している。やっと、面会の許可が出たのだ。


 非常に珍しい色の髪と瞳は、中世から軍隊の総督を何人も輩出しているベルギー貴族のベルトラン家特有のものらしい。

 ちなみに『アグリ・ベルトラン』という名前も便宜上使用していただけで、『アグリ フォン ベルトラン』というのが正しい名前だ。

 捜査中に貴族の称号は邪魔なだけで、何も良いことはないそうだ。


 雫月しずくの父親は警察関係者で、その優秀さを見込まれベルトラン家の跡取り娘と結婚した。


 雫月しずくが生まれたばかりの頃は、警察からICSPOの職員として出向していた。

 その時期に通り魔事件に巻き込まれ両親は死亡、雫月しずくは行方不明となったのだ。

 アグリは熱を出し、乳母と自宅で休養していて難を免れている。彼もまた被害者だった。



 雫月しずくの事情をかんがみて、警察病院に出向という形でイピトAIの発案者の一人、樹希いつきの母親の林カエデが雫月しずくの主治医となっている。


 林教授は蒼井未空の医療チームに合流するために日本を発った。

 陽翔はるとには、両親への面会許可すら下りていない。

 そういう意味では、まだまだ問題が山積みである。





 陽翔はるとは診察室の扉を開けた。


「ハルちゃん、久しぶり。全然家に帰ってこないから心配していたのよ」

「だって、帰れなかったし」

「それもそうね」

「おばさんは、シアンに気付いていたの?」

「気付くに決まっているでしょう。雰囲気が全然違うのよ。父さんに中身が違うって聞いてやっと納得できたわ」


 はらりはらりと音も無く舞う雪が見える窓をバックに、雫月しずく陽翔はるとのほうを振り返る。


 雪が天使の羽根を連想させ、内側から淡く光るプラチナブロンドは神聖で穢れが無いように見えた。


雫月しずく。やっと逢えたね」

陽翔はると君」


 雫月しずくは手に握りしめていたパッチワークのテディベアを陽翔はるとに見せた。

 モノトーンのクマはとても大切にされていたようで、古くても汚れが少ない。

 但し、耳のところの縫い目がほつれていた。


「それが母さんのテディベア? 少しだけ見せてくれる?」

「うん」


 陽翔はるとは、雫月しずくのテディベアを受け取ると診察台に腰かけた。

 パジャマのポケットから、小さなアルミの裁縫箱を出し針に糸を通す。

 ほつれ目の布をすくいながら、陽翔はるとがテディベアを直す。雫月しずくは、救われるような安心するような不思議な気持ちになった。こわばっていた体から力が抜ける。

 陽翔はると雫月しずくのほうを向き、淡い笑顔を見せた。


 雫月しずくの瞳からはぽろぽろと透明な涙が流れる。自分でもなぜ泣けるのかわからなかった。陽翔はるとを困らせてしまうから、泣き止まなくてはならないのに、涙を止める方法がわからない。きっと困った顔をしている。

 それなのに、段々と大きな声になり、子供のように大泣きしてしまう。


「⋯⋯雫月しずく


 陽翔はるとが思わず立ち上がり雫月しずくを胸に抱きしめた。その姿をカエデと樹希いつきは見守っている。


 雫月しずくは初めて本来の感情を見せたのだ。

 泣きたくても泣けなかった雫月しずく


 悲しい想いを胸にため込み、麻酔をかけるように感情を押し込めて生きてきたのだ。


「今は全部吐き出してしまったほうがいいわ。ハルちゃん、後をよろしく」


 カエデと樹希いつきはそっと診察室を後にした。

 残された陽翔はるとは、雫月しずくにハンカチを渡して背中をさする。ピークを過ぎるとだんだんと落ち着きを取り戻した。


「ねぇ、雫月しずく。これからどうするの?」

「わたしにもお兄さんが居たの。わたしを探していたお兄さんをブラウが見つけてくれたの」

「うん」

「わたしは社会的に更正するプログラムを受講した後、ICSPOの職員になるわ」

「それなら僕もそこを目指すよ。頑張るから待っていてくれる?」

「本当? また逢える?」

「必ず。約束する。これが別れじゃないよ」



 陽翔はるとはポケットから、雫月しずくが部屋に残していったパッチワークの縫いぐるみを取り出す。

 それを雫月しずくの手に握らせた。


「これも一緒に持っていてくれる?」

「うん」

「僕のこと、忘れないで」




***





 イピトAIとUbfOSのARリンクシステムは、ICSPOの捜査支援システムに生まれ変わることが決定している。

 アグリがICSPOを動かすために、このシステムの提供を約束していたのだ。


 当然、システムを造り変えるのは陽翔はるとの同意が必要となる。

 アグリは陽翔はるとに頭を下げ、事情を説明してくれた。




 雫月しずくを助けるために、ICPOを動かすには仕方がなかったのだ。


 イピトAIは陽翔はるとの同意があり、尚且つ、人道的な用途では無いと働くことは無い。


 その部分はもう誰にも変えられない。

 システムの最重要項目の変更に関しては、特定の人物の支配を受けることは無いのだ。

 陽翔はるとでさえ、所有者を変更しろと言ってもイピトAI全員に拒否される。


 それなら、人道的な組織が使用するのが一番良い。

 陽翔はるとに異存はなかった。


 蒼井博士と未空みく医師は、二度と日本の土を踏むことはできないそうだ。ICSPOにより新たに与えられた戸籍で、別人として生きなければならない。研究者として活躍することは今後一切叶わないし、陽翔はるとの親には戻れない。


 蒼井祐輔博士はICSPO管理下でUbfOSのメンテナンスと、未空みくの治療に専念する傍ら、シアンと一緒に『misora』をオンラインゲームとしてリリースするそうだ。


 そうすれば、オンライン上でなら陽翔はるとと逢える。

 親子としては対面することはできないが、友人として繋がることは許された。






✽✽✽





 4月、新年度が始まる。

 ノアの秘密基地プラネタリウムに何の変哲もない朝がやってきた。


 砥綿井とわたいに死んだと見せかけたのは、林陽翔はるとと言う名の架空の人物だ。殺された少女Aも当然架空の人物となる。


 被害家族への配慮という名目で報道規制が敷かれた。

 事件はもう過去のものになっている。

 実際に加害者も被害者も居ない事件なので、報道関係の取材は難航する割には反響が薄く、自然に忘れ去られていった。


 ICSPOはUbfOSのARリンクシステムを合法的に手に入れるために真実を封印した。その恩恵により事件は風化し、日常が戻ったことは喜ばしい。


 そして、いつもと変わらない朝が訪れた。何の変哲もない。時は自然に流れる。




陽翔はると。久しぶりの学校だから気を付けろよ」



 そこにはリアルな姿でノアが立っていた。青年の姿をしている。


 林教授は、ヒューマノイド「ヨウショウ」を陽翔はるとの保護者となれるように、ノアの姿に作り替えてくれた。

 そこに樹希いつきも制服で姿を現わす。


「ハル。そろそろ出よ」


 林教授は客員教授としてベルギーのV大学へ招かれ海外に出ている。その留守をノアが預かったのだ。責任重大である。


 とりあえず趣味の延長上の職業として、プラネタリウムの館長をしながら日本で過ごすことになった。


 陽翔はると雫月しずくの部屋で、薄紫色のチェックのカーテンを掛けている。雫月しずくがいつ戻ってもいいように、少しづつ部屋を整えていた。


「ねぇ、俺のカーテンは?」


「いっくんは持っているでしょう?」


「新しいのもほしいな、なんて」


「バカなことを言ってないで行くよ」



 毎日ランニングをするようになった陽翔は、少しだけ大人びて逞しくなった、気もする。



「二人とも気を付けて」


 ノアが二人を送り出す。


 駅を出て学校に向かう道で鈴菜が待っている。

 怪我も精神的なトラウマも、鈴子とカエデのケアで段々と快方に向かっていた。


 陽翔はると樹希いつきが強い味方となってくれるのなら、学校に行きたいと鈴菜は望んだ。


「お待たせ」


 三人を巻き込んだ事件は収束を向かえたが、全てが解決したわけでは無い。


 陽翔はるとは未だに逢えない母親が気がかりだし、鈴菜はPTSD(心的外傷後ストレス障害)を発症した。


 それでも三人は、夢に向かっての一歩を踏み出す。応援するように桜の花が風に舞った。








✽✽✽







  

 M国、スラム街。


 砥綿井とわたいは緊張した面持ちで、廃墟と化しているビルに入りエレベータのボタンを押した。

 エレベータは地下に向かい降下する。

 しばらく下ると自動的に扉が開いた。


 そこには近代的なフロアーが広がる。全てが蛍光ピンクで統一されていた。UFOの中だと言われても納得してしまいそうな空間だった。


 中央にはホログラム投影機が設置され、仮面ペルソナ着けた一人の女が優雅にお茶を嗜んでいる。

 その女が砥綿井とわたいを一瞥した。



「能無しとはお前の事だな」


 男とも女とも判断がつかないハスキーな声だ。


「カーマイン様、お言葉ですが、今回は私のせいではありません。勝手に蒼井陽翔はるとを殺した女がいまして、その女のせいです」

「時間の無駄までやってのけるとは。無能だ。リンカルス、黙れ」


 砥綿井とわたい、改めリンカルス※どくはきこぶらは、床にひれ伏し頭を垂れた。


 顔は恐怖に歪みガタガタと震えている。


「まぁいい。システムが消えてしまったのなら創らせればいいだろう。脳内にAIの人格を取り込んだ女か。面白そうだ」


 リンカルスは怒りが自分に向かなかったことに安堵し頭を上げた。

 カーマインは侮蔑の瞳でリンカルスを眺めている。


「蒼井祐輔と蒼井未空を連れて来い。今度、失敗したら命は無いと思え」


 その声が響き渡り、女が消え去ると辺りの仮想空間は元の廃墟の一角に戻る。



 リンカルスは悔しさを滲む顔で、コンクリートのゆかを見つめていた。




 

第一部 完



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【完結】イピトAIは仮想空間をイネーブルする~未確認AIに高校生活を乗っ取られたら、もふもふワンコが助けに来てくれました。なぜか美少女アサシンに好かれてます~ 麻生燈利 @to_ri-aso0928

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