□藤村勇那の話 トラウマ
息を切らせてスノウ製菓の本社に飛び込んだ俺は、自分が何の策も考えていなかったことに青ざめる。
……腐ってもここは大企業の本社なのだ。誰とも約束のない人間が、すんなり潜入できるとは思えなかった。気が動転していて、そんな簡単なことにすら思い至らなかった。
エントランスを抜けたところでまごついていると、来客受付のカウンターに座る受付嬢と目が合った。
……こうなりゃ口先八丁だ。どうにか言い訳をしようと口を開いた俺に、彼女は接客の教科書に載せられるレベルの笑顔を向けて、言った。
「いらっしゃいませ。藤村さま。お待ちしておりました」
「……え?」
作り物みたいな美貌の受付嬢は、立ち上がって俺に向かって綺麗な一礼をする。
「営業一課の宮下がお待ちしております。……この入館証をおつけになって、あちらのドアからお入りください」
――宮下。彼女の出した名前に、俺は小さく息を呑む。なんとか平静を装って彼女に礼を言い、入館証を受け取ると、震える手でそれを首から下げた。
……やっぱりおかしいんだ。この会社は。
彼女のきれいな指先に指し示されたドアは、バックヤードに通じるようなもので、来客を通すには明らかに不釣り合いだった。この向こうで、いったい何者が待ち構えているんだろうか。
俺は深呼吸をして、ドアノブに手をかけた。
*
「……え」
ドアの中に一歩踏み込んだ瞬間、俺は整然と立ち並んだ机と椅子の真ん中に立ち尽くしていた。慌ててあたりを見渡すと、そこはどう見ても学校の教室だった。
窓からはレースのカーテンごしに柔らかな光が差し込んで、教室の後ろに所狭しと貼られた掲示物を風で揺らしている。……とても、ビルのバックヤードだとは思えない光景に、俺は混乱した。
そして何より……この光景には、見覚えがあった。
俺が通っていた、中学校の教室だ。
「……藤村さ、こういうのが好きなんでしょ?」
その声に振り向くと、学生服を着た数名の男女がにやにやと口元を歪めながら、捻じくれた指先でこちらを差していた。
その顔はまるで福笑いのように目鼻口がバラバラに配置されていて、顔なんてろくにわからない。けれど、その馬鹿にするような声は、嘲笑は、十年以上経ってなお、俺が忘れることの出来ないものだった。
……その指先に何があるのか、俺は知っている。
ぎこちなく眼球を動かして、下を見る。かつての俺のものだった机の上に、漫画本がうず高く積まれていた。
そのすべての表紙は主に肌色とピンク色で構成されており、男同士と思われるキャラクターが濃厚に絡み合っている。
学生服の男子の一人が、パーツがバラバラの顔でも明らかにわかる、含み笑いを浮かべながら俺を見ていた。その後ろで、残りの数名もそれに追従するようにくすくすと笑う。
気配を感じて周りを見回すと、同じような学生服を着た顔のない化け物が、ゆらゆらと俺たちを取り囲んでいた。
教室中の視線が、俺の背中に突き刺さっていた。
「漫研の女子からわざわざ借りてきたんだよ、これ。藤村が好きかなーって思って」
……うるさい
「藤村くん、ホモだったとかマジ詐欺じゃん。告った子たち、マジでかわいそ。てか、気持ちワル」
やめろ
「結婚して子どもも作れないって、生き物として価値あんの?」
やめてくれ
「あは、キッツ。さすがに言いすぎでしょ。……大丈夫だよ藤村くん、いつか医学が発達して、こういうの出来るようになるかもよ?」
そいつが汚いものでも触るように指先でつまみ上げた漫画本には、やはり、男同士と思われるキャラクターが描かれていた。
そしてそのうち一人は不自然に頬を染められており、その腹部は膨らんていた。まるで妊婦のように。
「男が妊娠する話だってさ」
その言葉を聞いた瞬間、俺はその場で嘔吐した。
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