■宮下瑞穂の話 おかえりなさい
エレベーターは地下深くへと降りていく。どこまでも、どこまでも深く。
――このまま地獄まで降りていくんじゃないだろうか。そんなことを考え始めたとき、フロアへ到着したことを告げる音が響いて、扉が開いた。
そこは、真っ暗な空間だった。外には怖いほど一面の闇が広がっている。
「ちょっと待っててね」
織田課長はそう言ってエレベーターを降りると、壁際に手を当ててゴソゴソと探り出した。照明スイッチを探しているのだろう。
パチパチと軽快な音を立て全ての照明がオンになる。私は眩しい光に目を焼かれ、一瞬立ち眩んだ。
「……え?」
恐る恐る目を開けた先には、どこか懐かしいような――田舎の風景が広がっていた。
遠くの真っ青な空には入道雲が浮かび、その手前には緑が濃く萌える山々がそびえている。
地面の上には綺麗な水の流れる田んぼが広がっている。黄金色をした稲穂が風に揺れていて、それはどこまでも続いていくように見えた。
――じわじわとやかましく鳴く蝉の声が耳をつく。
そして私たちの真正面には、まるで昔話に出てくるような、茅葺き屋根を冠した日本家屋が建っていた。
「よし、いこうか」
織田課長に促され、無機質なエレベーターの床から一歩を踏み出す。ざり、と乾いた土を踏みしめる感触が、ヒールのついたパンプス越しに足の裏へと伝わった。
振り返り、エレベーターの横をまじまじと見てみる。そこにある壁には、見事な青空と白い雲がペンキのような塗料で描かれているようだ。
天井を見上げると、太陽かと見紛うばかりに眩しい巨大な照明が爛々と虚構の原風景を照らし出していた。ということは、耳に障るこの蝉の声も放送だろう。水田の水と、稲穂は本物みたいだけれど。
――なんてことはない。この風景は、ただの作り物だ。
それにしても……会社の地下にどうしてこんなものがあるんだろう。
がたり、と音がして、私はふたたび正面を向く。先程はぴたりと閉じられていた日本家屋の玄関が少し開いていた。
その隙間から一人の老婆が、半分だけ顔を出している。
――おかえりぃ
息を呑む私に向かって、彼女はシワだらけの笑顔でそう言うと――ス、と――消えた。
「ただいまぁ」
「ただいま」
「ただいま、あじゃさま」
「ただいま」
「ただいま!」
織田課長と先輩たちは躊躇なく引き戸を開け、口々にそう言いながら、玄関に木吉氏をくるんだブルーシートを引きずり上げた。
中身に一切の配慮がなく引きずるものだから、ごつごつと固いもの同士がぶつかる嫌な音がする。
せめて私だけでも丁寧に運ぼうと、下から持ち上げて上がり
ブルーシートをそっと下ろしてふと横を見てみると、隣に白い毛玉が丸まっていた。毛玉の上には小さな三角形がふたつ、並んでいる。……猫、だろうか。
「それはシロだよ」
先に玄関に上がった織田課長が、にこにこと私を見下ろしている。他の先輩たちも同様に、笑いながら私とその毛玉を見下ろしている。
「あじゃさまは猫が大好きだからね」
指さされた白い毛玉を改めて見て、私は目を見開いた。
猫のように見えたそれは、確かに猫ではあった。猫ではあるのだが、命を持っていない。――でも、作り物であるとも思えない精巧さを持っている。
毛皮はパサつき、元は白かったであろう色は黄ばんでいて、一種独特の匂いを漂わせていた。私はこれによく似たものを、近所の博物館で嗅いだことがある。
……剥製の匂いだ。
――はやく、いらっしゃいな
突然、背後――耳元に、声をかけられた。口をついて出かけた悲鳴は喉の奥で潰れた蛙のような音になって消えた。振り向くと、薄暗い、板張りの廊下が続いている。
奥の方は完全な闇に包まれて、見えない。
織田課長は相変わらずの笑顔でブルーシートの横にしゃがみ込み、愛おしそうにその表面を撫でた。
「行こうか。あじゃさまに、この人も家族にしてもらうんだ」
そう言うと再び立ち上がり、ブルーシートを引きずり始める。私も慌ててそれに続いた。
私たちはギシギシと音を立てる暗い廊下を進んでいく。
先頭の織田課長は廊下の突き当りまで行くとその歩みを止め、ふすまに手をかけた。
部屋の中から音楽が聞こえる。毎朝の放送で慣れ親しんだ、スノウ製菓のCMソングだ。場違いに明るいフレーズが繰り返し流れ続けている。
するすると、何の抵抗もなしにふすまが開け放たれた。うっすらと暗く、湿っぽい部屋の中、その空間いっぱいに満ち満ちているものを目の当たりにして、わたしは
それを、確かに「母」だと思った。
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