■宮下瑞穂の話 来客

「――あった」


 会社に戻った私は、机の中から「スノウ製菓社史」の冊子を取り出した。これは私が見つけた資料の中にも入れられていたけど、千ページもあるうえに他の資料と比べて異様な点もなかったから今までスルーしてしまっていたものだ。


 目次を見てページをめくり、目当ての記述を探しあてる。 

 ――「創業者の手記」の部分だ。


 あじゃさま。――どこかの方言で、母親のことを「あじゃ」と呼ぶらしいと、新人研修で講師が補足してたっけ。


 間違いない。「あじゃさま」は、創業者の矢中田耕造の母親。――矢中田雪子だ。


 慌ててスマホを取り出して、藤村さんにメッセージを送る。これが、解決の糸口になるかもしれない。

 

 ――その時、興奮する私の手元近くで、個人用の内線が音を立てた。どうやら一階の受付からのようだ。慌てて受話ボタンを押す。


「はい…………宮下です」

「受付の榎本です。……あの、宮下さんにお客さまなんですけど。お約束されてましたか?」 

「……いいえ? 相手のお名前は?」

「それが、言ってもらえなくて……。男性の方なんですけどね」


 受付係の女性、榎本さんはヒソヒソ声で私に告げる。その話の不審さに、私は眉を顰めた。 

 新卒一年目の私宛に来客があるなんて滅多にない。ましてやアポなしなんて初めてだ。


「……あ、ちょっと! お待ち下さい! ……どうしよう。勝手にエレベーターに乗って行かれちゃいました……!」

「え?」

「警備員さんが追いかけました。……どうしよう、ちょっと様子もおかしかったし、変な人なのかも……」


 私と電話の向こうの彼女が揃って焦っていると、上司の織田課長が、心配そうに私の傍に寄ってきた。


「どうしたの?」

「それが……変なお客さんが、私あてに来たって受付から連絡があって。……警備員さんも来るって」

「ええ?」


 私たちが話しているそばから、エレベーターの到着を知らせる電子音がフロアに響く。

 織田課長は私に隠れるように促すと、来客用の受付へ歩いていく。私は慌てて柱の陰に隠れて様子を伺った。

  

 ――エレベーターのドアが開き、中に乗っていたのは、やつれた面持ちの男性だった。

 

 四十そこそこに見えるその人は、爛々とした両目の下にろくに眠れていないような濃い隈をこしらえている。彼は覇気のない様子で両手をだらりと垂らしながら、ふらふらとエレベーターを降りてきた。

 

 織田課長はその場にいた先輩ふたりに小声で何やら指示すると、緊張した声でその男性に声をかけた。

 ――指示された先輩たちはというと、小走りで備品などの物置にしているバックヤードへと入っていく。


「責任者の織田ですが。……本日は一体、どういったご要件でしょうか?」 

「……突然、すいません。木吉智之と申します。木吉湊……、いえ、佐川湊の……夫です」

「佐川くんの?」


 驚く織田課長の背後で私は息を呑む。湊さんの薬指に光る指輪。結婚したのだと、幸せそうに微笑む彼女の顔が、フラッシュバックするように脳裏に浮かんだ。

 

 木吉さんは隠れた私には気づかないまま、織田課長に向かって話しを続けた。

 

「湊が……先日、高所から飛び降りたのはご存知でしょうか。飛び降りて――まだ、意識が戻っていません」

「それは……そうなんですか」 

「うわ言で、ずっと言っているんです。『しゅっしゃしなきゃ』とかなんとか。……変でしょう。彼女は、退職代行会社を使ってまでここを辞めたのに」


 私は生唾を飲み込んだ。――同じだ。宮下くんのときと。木吉さんの悲痛な声は続く。

 

「湊は飛び降りる前に、芦原さんという人に会っていたと聞いています。……彼女は、ここで働いていると聞きました。お願いです、話を聞かせてほしい。……芦原さんに、会わせてください」

「いや……突然そんな事を言われましても……。彼女は私どもの大切な社員ですし、なにより女性です。急にやってきた男性と引き合わせるわけには」

「お願いします……どうか……お願いします……」

 

 木吉さんは頭を下げ、織田課長に頼み込んでいる。しかし反応が良くないと悟るやいなや、急に激昂し、カウンターに拳を叩きつけた。

 

「……いいじゃないか! 話が聞きたいだけだって言ってるだろう!」

「……木吉さん、大声はおやめください」

「うるさい! ……あんたらにとっては、湊のこと……辞めた社員なんて、どうでもいいんだろうけどなぁ!」 

「辞めてませんよ」

「……え?」


 織田課長の一言に、私の心の声と木吉さんの反応がシンクロする。

 何を、言ってるの?

 

「佐川くんは、我が社のとても優秀な社員です。居てもらわないと困る。――だから、探してたんですよ、ずっと」


 ――視線を感じて顔を上げる。いつの間にか、フロア中の社員たちが立ち上がってこちらを――木吉さんの方を見ていた。

 さっきまでそれなりに賑わっていた空間が、今や嘘みたいに静まり返っている。


「……な、なんなんだ。あんたら、一体」


 木吉さんの顔に、はっきりとした恐怖の色が浮かぶ。

 

 そのとき。先程、織田課長に何やら指示されていた先輩たちが駆け足で戻ってきた。

 

 二人がかりで、イベントなどのとき使う大きなブルーシートを広げて持っている。彼女達の華やかなオフィス用の服装に、そのシートは酷く不釣り合いだった。 

 ……なんで、あんなものを?


「あなたもいらっしゃい、社員の家族は、我々にとってもかぞくです」


 唖然とする木吉さんに向かって、織田課長は弾んだ声でそう言うと、カウンターの上に置いてあった花瓶を素早く掴んだ。


 そして――何のためらいもなく、木吉さんの側頭部に叩きつけた。


 ゴッ、と、硬いもの同士がぶつかる音がして、木吉さんの体が横倒しになる。

 

 先輩が持っている、大きく広げられたブルーシートに赤い飛沫が飛び散った。


「すぐにだいじょうぶになりますからね」


 そういうと、織田課長はにっこりと笑った。

 彼の持ち上げた花瓶には、べったりと赤いものが付着していた。

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