帝都騒乱 6
沙耶は瑠璃女が去って行ったであろう、西方に向かった。
後ろからは蓮二の足音もする。「朝飯が食えなくなっちまうぜ」などと云うが、聞き流して進む。
(瑠璃女様の云っていた、火津真党の隠れ家というのは、都を西に出たあたりなのだろうか)
そんなことを思いながら、沙耶は目醒めたばかりの街並みを進んだ。雀の影が飛び、棒手振りが採れたての魚を運び、丁稚が店先を掃いている。そんな街を白い太陽が照らしている。
――薄目で見れば常に瘴気が街を漂っている。間違いなく東の馬稚国よりも濃密なのだ。それでもまだ自然は、揺るぎない
感慨に浸りかけた沙耶を驚かせたのは、先に見えた人だかりだ。そこは通りにある茶店の前だった。
鎧を帯びた武士の集団が、槍を突き出している。周辺には黒い半纏姿の男が二人、血を流して倒れていた。その先の茶店の軒先に、黒い半纏を着た、あの瑠璃女が座り込んでいた。
西から吹き付ける風には、土埃と瘴気が混じっていた。沙耶のような訓練された巫女でなくとも、その瘴気の気配を感じ得よう。道をゆく町人をはじめ、槍を持つ武士すら風に目を細めた。
沙耶は武士たちの間近まで駆け寄った。瑠璃女の名を呼ぼうとしたところ、後ろから口を塞がれた。
「関わりがあると知れたら、俺たちまで狙われるぞ。こうなれば、どうしようもねえッ」と蓮二の声。沙耶は蓮二の腕を振り解こうとするが、とても外せなかった。
沙耶はもがきながらも瑠璃女を見た。――血の沁みた半纏の左袖は裂かれ、体じゅうが土に塗れていた。
そこに近づいてきたのは、烏帽子に焦茶の衣を着た、一人の男だ。男は武士たちの後ろに来ると、瑠璃女に目を向けた。
「ほう、残党を見つけたと聞いて、来てみれば……」
瑠璃女は撥ね除けるように顔を上げ、「櫟木ィ。貴様は……」
櫟木と呼ばれた男は、両手を広げて続ける。
「おお、やはり昨夜のそなたか。火の、
瑠璃女は眉を困惑したように寄せて、
「悪うないだと? 何がだ!」
「儂の元で磨けば、そなたの美は、より引き立とうぞ」
櫟木は覗き込むように首をかしげ、舐めるような視線で瑠璃女を見た。
瑠璃女は目を剥いて云った。
「下賎な……。それより櫟木、貴様は、
櫟木は右手で口元を押さえ、目を泳がせた。やがて、
「ふむ、なるほど。わかってきたぞ。たしか、巫女になった娘がおったな。佐渡には……」
「ああ。わたしこそが、佐渡実之が長女。――貴様を誅するために、楼迦へとまかりこしたのだ! 貴様の横領を、押し付けられて処刑された父上の代わりにな」
「おおこれは……。儂が横領などと。人聞きの悪い」
すると瑠璃女は、周囲を取り囲む武士たちを見渡して、
「我が楼迦の同胞たちよ! そこな櫟木の悪行を聞くがよい! 櫟木はな、おのれの横領の罪をわたしの父に押し付け、処刑までして、のうのうとまだ、素っ首を体に載せておるのだ。捕えるべきは、その櫟木なのだ。わたしの兄や、親類も証人となるぞ。――だから、目を醒ませ!」
武士たちはざわめき、顔を見合わせると、すぐにまた槍を瑠璃女に向けて構え直した。
瘴気の臭いがする西風が吹いたとき、櫟木は云った。
「こう風が強うては、聞こえもせぬようだ。くく……。それに、楼迦の武士は、
瑠璃女はがくりと、力なく倒れ込んだかのように見えた。それから、地の底から聞こえるような、奇妙な声が響いてきた。
長神の浄し東の
産まれ
沙耶はその声に寒気を覚えた。白ノ宮で稀に聞く、『
長神の浄し東の
産まれ
「ええい、気味の悪いこと、この上ないわ! もうよい……。殺せっ、その女を……!」
櫟木がそう叫ぶと、武士たちは足音を立てて前進した。槍を握る手に力が入るのが見えた。
そのときだった。
平伏していた瑠璃女は突如、がばりと体を起こした。――大きな瞳は底なしに黒く、決意めいた表情をしていた。武士たちはその迫力に立ち止まり、固まったようだ。
瘴気が仄赤く染まりながら、緩やかな円を描いて瑠璃女を包んでゆくのが、沙耶にはしかと見てとれた。
「なりませぬ……。瑠璃女様……」
沙耶が呼びかけると、それに答えるかのように、瑠璃女は汚れた包帯に巻かれた、黒ずんだ左腕を持ち上げた。
ついで朗々たる、優しげな声で歌うのだ。
「
武士たちの体を、黒いもやが包み込んだ。――濃密な瘴気だ。瞬時にそれらは逆巻く赤黒い炎となり、武士たちを包んだ。
「燃えておるぞー!」「何事だ?」「うあァー!」
武士たちは慌てふためき、転げ回った。一方で、瑠璃女の左腕からも火が立ち昇り、包帯を瞬く間に焦がした。みるみるうちに、腕は炎に包まれる。
沙耶は叫びに似た声を上げた。
「いけませぬ、瑠璃女様……!」
瑠璃女は恍惚とした表情で、また伸びやかに歌う。
「
二人の武士が燃え、悲鳴を上げて転げた。瑠璃女の左手は、炎の奥の炭のように見える。
櫟木は引きつった表情で瑠璃女を指した。
「怯むなー! 早う殺してしまえ!」
そのとき、火だるまの武士が一人、転げるようにして槍を突き出した。――穂先は瑠璃女の腹に届いた。瑠璃女は驚いたように腹に刺さった槍を見た。
ちょうどそのとき、武士たちの声が近づいてきた。
「櫟木様、援軍に参りましたぞォ」
見ると、さらに十人ばかりの武士が駆けつけていた。武士たちは焼けこげた仲間を見て
瑠璃女は絶望したように増援たちを見る。左腕はもはや、消し炭同然となっていた。
櫟木はやっと安寧を得たようにため息をつくと、
「これで大人しゅうなりおったか。まったく、とんでもない化け物だな、この小娘は……。さて、念のためだ、早う首を刎ねよ」
沙耶の背後から蓮二の声がした。「これで、終わりだな」
「いえ、それが……」
「なんだと?」
「なにかが、起きようとしているのです……」
沙耶はそう云って、再び瑠璃女を見た。――前のめりに倒れ、身動きひとつ取れない様子だ。
けれど沙耶は、地面に触れそうな瑠璃女の唇が、密やかに動いているのを見つけた。
瑠璃女は焦点の定まらぬ目つきで、呟くように口を動かしていた。沙耶にはそれが、肉声なのか、心の声なのかもわからなかった。
『火津真ノ神よ。わたしを見つけ、また、わたしが見つけた、かけがえなき篝火よ。
わたしの、この命に意味があったのならば……。お示しください。こんなわたしが、白花の、浄めの道に足を踏み入れた、その意味を……。
天つ焔火よ……。父上の無念を晴らし。心なき逆賊どもを、浄めるための火を、どうかお示しください……』
一陣の風が吹いた。西方からの風はやはり、瘴気を孕んでいた。風は大きな円を描き、焦げた肉と土の臭いを巻いて瑠璃女へと集まってゆく。
投げ出された瑠璃女の真っ黒な左腕に暗い火が灯った。火は左肘や肩に広がり、しまいには背中を、体を覆った。
「どうなってやがる」と云う蓮二に、沙耶は震える声で答えた。
「瑠璃女様は、きっと、その身のすべてを……ああっ……」
瑠璃女を包む炎は、その背後の茶店の家屋に燃え移った。
人々のざわめきの中、炎は異常な速度で広がった。――そして、家屋の柱や梁が燃えて軋む音をたて、崩れ落ちていった。
沙耶は両手を震わせながら口元に当てて、恐るべき予感に打ちのめされそうになっていた。
瘴気と絶望と祈りが畳み込まれた、なにかが産まれようとしていたのだ。
燃えた家屋の残骸から、消し炭となった柱たちがまた、命を得たかのように立ち上がる。天から垂れた綱に引かれるように、炭化した木材が人の骨組みをなしてゆく。
*
燃え盛る木で組まれた、巨大で粗雑な骸骨だと、見た者は形容するかも知れぬ。
武士たちも、町人たちも、いわんや沙耶も蓮二でさえも想像だにしない、その存在の到来に戦慄した。
櫟木は膝を折って、両手を組んで天に掲げていた。
「おお……。火津真様、お赦しを……。この哀れな咎人を……なにとぞォ……」
巨人は右脚を持ち上げると、櫟木を踏みつけた。焼けつくような熱風が通りに広がった。
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