紫燐ノ森 9
沙耶は体を屈めて上目遣いに蓮二を眺める。蓮二は迫り来る赤い光の帯に向かって、唸り声を上げながら太刀を振り抜いた。
蝶たちは火の粉のように飛び散る。さらに、次々と赤い光線が落ちてくる。――蓮二は太刀を風車のように転回させ、繰り返し切り上げる。
蝶たちは『許さぬ』『食ろうてやる』『人間め』と、
気がつくと蓮二の周囲に蝶が群がっていた。蝶は赤い翅をはためかせ、光の尾を曳いて、数えきれない火の粉となって飛び交った。
「痛えッ!」と蓮二は呻いた。
どうやら一匹の蝶が蓮二の肩に取り付き、口先で肌を刺したようだ。蓮二は蝶をむしるように掴み、地に放って踏みつけた。
「蓮二さん!」と沙耶が叫ぶと、
「蚊と変わらねえ! 痒いだけだ、こんなもん」
蓮二はそう云って、また太刀を切り上げる。――いったいどこに目がついているのか、夜空から続けて落ちてくる蝶の光線をかわしながら、繰り返し繰り返し、歯を食いしばって暴れ続けていた。
沙耶は狭世でも見たことがないような夢幻的な闘争の中で、狂おしく舞う蓮二の姿に見とれた。蓮二は陶酔したように、ぎらついた笑顔を浮かべていた。
蝶が体にたかっては、蓮二はたまに刃を体に走らせて蝶を払った。そうしながらも、何度も何度も太刀を振り回す。すると、燃えるような血の光を巻き上げながら、蝶が滅びていった。
(普通の斬撃では、ないかもしれない。瘴魔がこのように、斬り捨てられてゆくなんて……)
沙耶はそんなことを思いながら、己の気配を消して小さくなっていた。――体を起こしたら、沙耶自身が吹き飛ばされてしまいそうだ。
――永遠に続くかと思われた光の乱舞は、にわかに落ち着きつつあった。なんと蝶の半数近くを斬ってしまったらしく、空き地の光球は半分ほどの大きさになっており、一方で蓮二の周りには朱墨の沼のごとく、蝶の残骸が溜まっていた。
蓮二は体じゅうを赤く染めながら、
「どうしたァ! 虫ケラどもが。――銀狼衆のしごきじゃ、一日三千は素振りをやらせるもんだが。――まだ今宵は百も振ってねえぞォ!」
そうして右手のみで太刀を振って中空を薙ぐと、蝶の赤い火花がまた、二、三弾けた。
沙耶は寒気を覚えながらも、体の芯が熱くなる感じに気づいた。
――蓮二の暴力性に当てられている。そんなことを認めたくもなかった。蓮二が一太刀振るうごとに、沙耶の中のなにかを切り裂くような……。痛みと熱を持って。
生き残った蝶たちは危機を感じたのか、蓮二から距離をとった。蝶たちの恨みがましい声があたりに響く。
『何者だ』『怖い』『人間が』『許さぬ』『恐ろしい』『なれば……』『力を……』
沙耶は異変を感じた。あたりの空気が変わり、ひりついた空気に包まれた。
蓮二の足元に赤く溜まった、蝶の死骸から瘴気が立ち昇ってくると、宙の一点に集いはじめた。――それに、周囲を飛び交う蝶も、瘴気の中に飛び込んできた。
蝶の死骸から昇る瘴気と、赤く輝く蝶が入り乱れ、あらためて赤い塊を織りなしてゆく。――ただしそれは、当初の光球といった形ではなく、
キキキキキ…………
蝶の奇声が幾重にも混じり合い、なおも赤光し、あらたな生物的な形態となってゆく。蓮二は太刀を片手に蝶柱を見上げた。
「な、なんだこりゃ!」
蝶柱は次第に人の形を取りはじめた。柱の上部がくびれて頭をなし、両腕が生え、両足が生える。長い髪はふくよかな胸にかかり、腰の線に続く。――そこには、赤く輝く巨大な女の輪郭がそびえていた。女体らしい起伏があるものの、全身が赤い光の一色に包まれていた。
目だけが暗く落ち窪み、その奥に禍々しい朱色に光る眼球が、蓮二を見下ろした。
得体の知れぬ女の呻き声が響いてくる。
『ああああァァァ…………!』
その声は沙耶の全身を震わせ、頭を締め付けてくるようだった。視界には赤い光が満ち、一方で濃密な瘴気の渦が幾筋もたなびいていた。
『うあああァァ……!』
その割れんばかりの
沙耶は口をぽかんと開けて、なすすべもなく女神を見上げた。
「沙耶ァ! こいつは、白ノ宮で学んだか? 聞いたことがあるか? 女とくれば……水の神か?」
そう云う蓮二に沙耶は答えた。
「そ、そんなわけは、ありませぬ! 水奈弥ノ神は、このようなお姿ではありませぬ……。だいいち、このような、禍々しい存在であるわけが……」
そうこうするうちに、女神はその右手を掲げると、蓮二にその手を振り下ろした。
「尋常じゃねえぞ、これはッ!」蓮二はがなりながらも、身を翻してかわした。
『ああァー!』女神はまたも嘆き声を上げて、左手を横薙ぎにする。
蓮二はその手に突き飛ばされて、
女神は夜空を背負って仁王立ちし、両手で宙を掻きむしるようにして、『ああああァァー!』と
蓮二は太刀を右手になんとか立ち上がったようだ。茫然とした表情を見せるも、すぐに歪んだ笑顔が、武士舞の仮面のように顔を覆った。
「たまらんねえ。――ざわつくぜ。へッ」
女神はまた蓮二を見下ろすと、今度は大木のような右足を後ろに振り上げ、蹴りを放ってきた。つま先が赤い光の尾を曳いて蓮二に襲いかかる。
蓮二がかろうじて太刀で受けると、女神の足先からは火花のような光が飛んで、蝶の死骸が舞った。
防戦一方となった蓮二は、女神の攻撃を受けつつ、逃げるように村の道を退がっていった。女神は相変わらず、おぞましくも怒りに満ちた叫び声をびりびりと震わせて、蓮二を追い詰めていった。
周囲に村人の幽霊が何体かいたが、いずれも驚いた表情で、女神を見上げていた。
*
蓮二は女神の蹴りを太刀で受けて、ちょうど真後ろに吹き飛ばされたところだ。脇には火の消えた篝火の台が見える。そこに手をかけてなんとか立ち上がる。顔を上げると、夜空を背景に、女神の赤い体がそびえているのが見えた。
女神はまた狂おしい声を上げる。
『あああァァおおォォ…………!』
(どうなってやがる! こいつは……。こんなとんでもねえ瘴魔は、見たこともねえ……!)
蓮二はそんなことを思いながらも、あることに気づく。――どうやら、宿にしていた民家の前まで追われてきたようだ。咄嗟に民家の中に飛び込む。――囲炉裏にはまだ火がともっていた。
背後でメキメキと木が軋む音がした。女神が戸口に手を突っ込み、無理やり腕を伸ばしてきていた。
蓮二は冷や汗を垂らし、その赤い指先がのたうつように、迫ってくるのを見た。
*
沙耶は崩れ落ちそうな足腰をなんとか奮い立たせ、女神の後を追って、村の道を進んでいった。
最後に見えたのは、蓮二が民家に飛び込んだところだ。
女神は戸口に手を突っ込んでいたのだが、やがて手を引き抜くと、また大声を上げると、足を持ち上げて民家の玄関口を踏みつけた。騒々しい音をたてて、玄関口は粉砕された。
次に女神は右手を振って、屋根に手を伸ばすと、屋根の一部を剥ぎ取って投げ捨てた。――どうやら、家ごと蓮二を叩き潰すつもりなのかもしれない。正味、この巨大な女神にとって、民家などは枯木の山も同然のようだった。
「蓮二さん! 逃げてー!」
沙耶は叫ぶのだが、女神はその声を聞くか聞かぬか、いっそ声を張り上げて左腕を振り上げた。
そのとき、妙な匂いが鼻についた。――焦げ臭い。
見ると、民家から煙が立ち昇っていた。すると、女神の動きが止まったように見えた。
『お、おおおあああァ!』
これまでになく狼狽するような呻き声。女神は棒立ちになり、両手を顔や首元に当てて掻きむしる仕草をした。
そこに黒い影が潰れた玄関口から飛び出てきた。影は女神の足元に駆け寄ると、白刃を振るった。
蓮二が煙に乗じて反撃に出たようだ。太刀が女神の右足を薙ぐと、その足は吹き飛んで、赤い蝶の死骸となって散った。
『おおおォォー!』
女神の声は恐怖の慟哭となった。むくつけき巨体はぐらりと揺らぎ、民家の上に崩れ落ちた。民家からは黒い煙が渦巻いてきて、パチパチと火の爆ぜる音が聞こえた。赤い炎が頭をのぞかせはじめた。
女神は両手をついて体を起こそうとするが、その両手も肩も、体も頭も真っ赤な炎と黒煙に呑まれていった。
その光景はさながら、呪われた夜の火が、
『おおォ、あああァァァー…………』
女神は長く曳く
火と煙の中から、紫色の光の筋が無数に立ち昇ってきた。
――紫燐蝶の群れ。
蝶たちは本来の紫色となって、絡まり合う無数の帯のごとく夜空へと昇っていった。
蝶は実体を伴ってはいなかった。透き通る紫燐蝶の群れは、水に溢れ出した
蓮二を見ると、太刀を右肩に担ぎ、蝶が昇天してゆくのを感慨深そうに見ていた。――燃え上がる炎を明々と浴びながら。
沙耶は密かに思う。もしも火津真ノ神が顕現したとしたら、目の前の侍のような存在かもしれない、などと。
火の神のごとき蓮二に目を奪われていたものの、にわかに正気づいた沙耶は云った。
「だ、大丈夫でしたか? それに、あの火は……。あの巨大な瘴魔は、火に弱かったのですか?」
蓮二は視線を地に向けると、太刀の先で、道の外れに置かれた篝火を示した。
「ああ、そうみてえだな。――奇妙に思ったんだ。村に無数に置かれた篝火……。きっと、村人どもは抵抗したんだろうなァ。瘴魔と化した、紫燐蝶に……。そうだ。紫燐蝶は火を
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