紫燐ノ森 8

 戸口から外に出た蓮二の目に飛び込んだのは、夜闇に浮かぶ紫色の光の流れだった。


 満月の手前の、待宵まつよいの月が遠く輝く。村の塀やその向こうの森。家々の暗い輪郭や村の道。――それらを覆うように、光の筋がにたなびいている。


 光の流れはよく見ると、紫燐蝶しりんちょうの乱舞だった。――数えきれない無数の紫燐蝶たちは、宙に長い光の道を曳きながら、村の奥――それも例のの方へ流れてゆくようだ。個々の蝶の姿は、夜風に舞う紫色の花びらを思わせた。


 数匹が蓮二の鼻先をかすめ、まばゆい光の尾を残して、流れの一部となっていった。――それらの蝶の流れ自体が、巫女たちの云う、霊気の流れを体現しているようだ。



 観気ノ術のために呼吸を整えるまでもなく、どんどん濃密になってゆく瘴気に、蓮二は目まいを覚えた。


 そうだ、紫燐蝶のいずれもが紫色の燐光とともに、瘴気を放っていた。もっと云えば、これらの紫燐蝶はことごとく、瘴魔にほかならない。



「なぜ、こんなに……!」蓮二が呟くと、沙耶も横に並んだ。

「紫燐蝶……。それも瘴気に冒された……」

「ああ。瘴魔になっている。尋常じゃねえ」



 蓮二は記憶の中に、これまで戦ってきたさまざまな瘴魔を思い返す。


 獣に似たもの、瘴気に憑かれた人間、鬼の姿のもの。


「まいったな。こんな、蝶の瘴魔となんざ、やりあったことがねえ」

「そ、そうですか。わたしも、聞いたことがありませぬ……」

「だろうな。驚いたぜ……」

「こちらに、襲ってくる気配は、ありませんね」

「そうだな、いまのところは……」

「それに、蝶の流れはやはり、例のの方に、向かっているみたいです」

「ああ。なにが起きてる? 行ってみるほか、ないようだな」




 歩き出そうとした蓮二は、さらに別の声を聞いた。


「きれいだねえ……」


 蓮二はびくりと肩を震わせ、振り返った。――そこには、薄っすらと白光する村人たちの霊の姿があった。


 霊たちは、群がる紫燐蝶の流れを見上げながら、両手をだらりと掲げ、光悦の面持ちで道を浮遊していた。


「すごいねえ」「ああ、きれい……きれいだよ」



 蓮二は苦々しく眉をしかめた。


「こいつらに、あの蝶……。いったい、なんだってんだ……」



   *



 沙耶は蓮二を追って村の道を足早に行った。まるで狭世の暗闇の中、霊路をたどって駆けているようだ。紫燐蝶の光のおかげで灯りは不要だった。


 紫色の光の帯は、村はずれに向かうにつれ、ますます色濃くなっていった。


 やがて、村はずれの空き地までやってくると、紫燐蝶たちが山のように群がっていた。ぎらぎらと闇を照らし、周囲を明々と染めていた。


 瘴気の源泉であった霊路のあたりを目掛けて、横からも上からも紫燐蝶が群がっている。さらにそこへ、村人の幽霊たちがのそのそと、両手を力なく掲げ、吸い寄せられるように歩み寄ってきていた。


「きれいだ……。蝶が……。ああァ」

「きれい、こんなに…………」


 すると、蝶の一部は幽霊たちにも舞っていくと、そこに群がった。「ああ……」と喜悦の声が漏れ聞こえてくる。――やがて幽霊から蝶が離れると、幽霊は地面にうずくまり、細かく震えているのが見えた。――その体からは、瘴気のかげは失せていた。




 沙耶は閃くものがあり、口走った。


「もしかして……。蝶たちは、夜な夜な、瘴気を吸っていたのかも……」

「なんだって?」と蓮二は足を止めて振り向いてきた。

「村の近くに見た、紫燐蝶たちは。――あの冥摩ノ神くらまのかみに染められた蝶たちは、夜になると、この、瘴気の元へとやってきているのかも……」

「ちッ。だけどよ、沙耶、瘴気といえば、おまえがもう……」

「そうです。昼間に、霊路の滞りをなくしたゆえ、前ほどの瘴気は残っていないはずです」

「だったらどうなる? 蝶どもは、それを食いに、わざわざ、飛んできてるんだろう?」

「わ、わかりませぬ。――しかし、それに」


 沙耶はまた、蝶にたかられ、瘴気や霊気を吸われた幽霊たちを見る。


「蝶たちは、幽霊たちの瘴気も、養分としているようですね……。おそらく、幽霊たちはこの村で、いつも瘴気を浴びて、吸い込み……。一方で蝶たちはあの神社の跡地と幽霊から、瘴気を喰らう……」

「因業なもんだ。魔性の紫燐蝶と、それに魅入られた幽霊ども。なんだァ、この末路は……」




 そこで沙耶は、頭が締め付けられるような感覚に襲われた。甲高い声が響いてきた。


「足りぬ……。瘴気が、足りぬ…………。なぜ……」


 声はそこらじゅうから聞こえた。


「なぜ、瘴気が。足りぬ……。足りぬ…………」


 蓮二の声もする。


「なんだ? この声は……。頭が割れちまう……こいつは」

「これは」と沙耶は息を吸ってから自分の正気を取り戻すように云った。「紫燐蝶たちの、声です! 彼らは、瘴気に飢えているのです! ああ……」



 同時に、蝶たちに異変があった。


 紫色に輝いていた蝶たちは、にわかに赤味を帯びはじめた。――血が落ちた湖が瞬く間に赤く染まるように、紫色の光球は急激に赤く染まっていった。


 空き地にそびえた赤い光球の周囲には、火の粉のように蝶が飛び交っている。


 そのとき、一束の赤い帯が光球から離れ、夜空にまぼゆい弧を描いた。甲高い声がまた響き渡る。


「きさまらか……。許さぬ……。我らの糧を……。奪ったのは、おのれらか…………。許さぬ……」


 赤い光の束は虚空で反転するに、太槍のようになり突き進んできた。その先には、蓮二がいる。


「うおっ……」


 蓮二は身をひねって避けようとしたが、光の槍は左肩を直撃した。――光の槍は散開し蝶の群れになった。蓮二の周りには無数の蝶が舞い、奇妙な声を上げている。紙がこすれるような、不気味な囁くような声……。


「あっちへ行きやがれ」


 蓮二は腕を振ると、蝶たちはにわかに散って、距離をとった。


 そこで沙耶は気づく。――巨大な赤い蝶の光球から、また第二、第三の光線が夜空に放たれた。いや、第四、第五……。無数の光線が弧を描いて、襲いかかってくる。


「いけない、蓮二さん……!」


 すると、蓮二はふと振り返ってきて、


「ちと、静かにしてくれ。こいつは、骨が折れそうだ。せいぜい、邪魔にならねえように、小さくなってろ」

「そ、そうは言っても、蝶たちがあんなに……」


 沙耶が顔を上げると、ちょうど蝶の光線が幾本も重なり、降り注いでくるところだった。


「蓮二さん。に、逃げないと、いけませぬ。これほどの蝶と……瘴魔と戦うなんて。少しならば、浄化もできたかもしれませぬが」

「あー? そいつは違うな」


 すると蓮二は右手を伸ばして、左手にある太刀の柄を掴んだ。――と見えた刹那、『しゃら』となめらかな金属音を鳴らし、光が閃いた。白刃が現れた。


 蓮二は右脚を下げると鞘を放り、両手の太刀を脇に構えた。黒衣は赤々と照り、顔にはかげが落ちていた。その目は無感情にじっと、上空の標的を捉えているようだ。


 ――沙耶は座り込みながらも、蓮二の姿を見ておぼえず震えた。白ノ宮に詰めるいかなる兵の訓練を見ても、そんなふうに怯えたことはなかった。けれど、蓮二がいざ太刀を抜き、構えるのを見ると、この世のものとは思えない、底知れぬ不気味さを感じたのだ。


(そうか、これが、銀狼衆の……)


 そんなことを考える間もなく、蝶たちの赤い光と奇声の中に、周囲が埋め尽くされていった。


 沙耶は屈み込んで、蓮二の暗い横顔を見つめた。――緊張に引きつっているように見えたのだが、ふと、歪んだ口元に笑みを浮かべた。


「瘴魔は、浄めるんじゃねえ。叩っ斬るもんよ……」

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