第37話 ルクセンハイドの長い夜
──風呂上がりのヘルガたちはルクセンハイド名物であるベヒモス牛乳を手にしていた。ジェイルも無理矢理渡されている。
ベヒモスのミルクは冷めると油分が固まり、飲みにくくなる。そのためホットミルクで飲むのが一般的だ。
だが風呂上がりに熱いものを飲むのはどうなのか。いや寒いからこそ身体の芯から温まるものがいいと議論されてきた。
ならば濾過器でミルクを抽出しよう、となったのが始まり。
こうしてルクセンハイドでは宿の風呂上がりにはキンキンに冷えたベヒモスミルクが飲まれるようになった。人間達の乳牛よりも濃い味わいだが、ベヒモスの体内に溜め込まれた糖分も同時に含まれるため甘みがある。あまりに濃いため水で薄めた物が人間向き。
風呂上がり。タオルを巻いたヘルガとヴァレリアが一気に飲む。はしたない。
アズラは味わうようにして飲んでいる。
ジェイルは飲み慣れていないからか、ちびちびと小分けにして飲んでいた。
──その時である。
外からの衝撃音に「草葉の息吹」が揺れた。
「「ぶーーーっ!!」」
ヘルガとヴァレリアが噴き出す。はしたない。
アズラは危うくミルクを落とすところだった。ジェイルの尻尾がたぬきもかくやと言わんばかりに膨らむ。
「な、なに今の音!? 敵襲!?」
「というかさっきからすごい霊力を感じるんだけどこれキリエ総長ですよね!」
「アタシ様子見てくる!」
「わぁあぁ! ヘルガさん、服! 服を着てください!!」
「アタシの裸見て喜ぶ男いないって!」
「い、いいから! 服を着てくださぁい!」
珍しくアズラに怒られてヘルガが急いで服を着る。
薄着な服装を好むヘルガは、ヘソ出しのタンクトップにホットパンツという薄着で外に出ると、ルクセンハイドの城壁が崩れているのが見えた。民家からも数軒、土煙があがっていた。
「キリエ総長が交戦中! 戦闘用意!」
「り、了解です!」
「あれ? でもキリエ総長って今「ヴァルキリー・コート」着てないんじゃ……」
「アズラ、一緒に持ってきて!」
「ひゃいぃ……」
脱衣室へ戻ってきたヘルガの指示にアズラが頷く。ヴァレリアはすでに着替えてルートヴィヒたちに指示を出していた。
ジェイルはまだちびちびとベヒモスミルクを飲んでいる。
「猫ちゃんはここにいてね! 危なくなったら逃げて!」
「だからオレの名前はジェイルだってば……」
買ってもらった手前、残すわけにはいかない。ありがたくいただきながらも、ジェイルはその場から動かなかった。
ルートヴィヒたち、ライオット部隊が現場へ急ぐと、地面に手をついたキリエを見つける。口の中を切ったのか、血が滴り落ちていた。
「キリエ総長! お怪我を……っ!」
負傷かと駆け寄ろうとする。だが違った。
その血は、顔の傷跡から滲み出している。それを歯を食いしばって抑え込んでいた。しかしルートヴィヒ達の姿を見ると、顔の血を手で拭いながら立ち上がる。
見れば頬に殴られた痕があった。
「……問題、ありません」
「敵の戦力は」
「単独です」
相手は一人。だが、キリエの霊力による「防護」を打ち抜いたということは、気を引き締めて掛かるべきだ。
遅れてヘルガ達が駆けつける。キリエの装備一式を渡すと、すぐに身につけた。
「キリエの霊力をぶち抜くとか。どんなやつだ?」
「……ファング・ブラッディです。気を引き締めてかかるように」
決して。万全の防御を打ち抜かれたわけではない。
霊力が緩んだ隙を突かれただけだ。
「キリエ総長、間違いないんですか?」
「ええ。ヴァレリア副官には残念ですが、彼は我々人類に弓引く存在です」
「──おやまぁ、これはこれはまた。皆さんお揃いのようで」
投げかけられた声に、一斉に武器を構えて警戒する。周囲を警戒するが、そこに相手の姿はなかった。顔を上げると、民家の上からキリエたちを見下ろしている。
「……ファングさん」
「こんばんは、ヴァレリア嬢。ご覧の通り、少しばかり事情があって俺は魔族側の味方。ご容赦くださいな」
「お金で解決できるならいくらでも出します!」
「とんでもねぇこと言い出してんな!?」
──ファングは相手の数を数えていた。およそ三十名。一個中隊規模の遠征部隊が自分ひとり探すために用意された頭数だと考えると、相手の本命は補給任務だ。となれば、前線で先を見越しての行動になる。
鼻で笑う。
たかが三十人程度で止められるのなら、今日まで生きてなどいない。
「その頭数で俺を止めるつもりだったとしたら、ちょっとばかり足りねぇんじゃねぇかな」
「図に乗るな──私に一撃与えた程度で」
その言葉に、深々と。肺の中の酸素を全部吐き出す勢いでファングは嘆息した。
「勘が鈍いな。まったく、アンタらにゃ戦略っつーもんがねぇのか?」
「……どういうことだ」
「ちょっとくれぇ考えてみろよ。──どうしてこんな寝静まってるのか」
キリエが周囲を見渡す。巻き込んだ民家から悲鳴があがることもなく、騒ぎを聞きつけて魔族が様子を見に来る姿もなかった。
──静かすぎる。
昼間の喧騒が嘘のようだ。まるで最初からこの都市に魔族が住んでなどいなかったかのように。
「草葉の息吹」だけが唯一灯りを点けている。
そこでようやく気づいた。すでに自分たちが網にかかった魚同然だと。
「どうしてわざわざ招待状まで用意して、アンタら全員を宿に泊めたと思ってんだ」
「あの招待状の差出人はお前か!」
「封蝋の印は見ただろう? 事情を聞いたエキドナ様がご用意してくださりました、ありがたいことにね」
「なら昼間のベヒモスが暴れ出したのもお前の仕業か」
「いや、それは初耳だわ。っつーかベヒモスが暴れ出すことなんて、それこそ群れに危機が訪れそうな時だけって聞いてるが……」
ファングもそればかりは完全に計算外だった様子だが、なにか思い当たる節があるのか民家から飛び降りて考え込む。
見晴らしの良い放牧地。もしも肉食獣が現れたとしてもベヒモスはすぐに察知できる。しかし地上最大級の草食動物に勝る魔物はそういないはずだ。キリンに挑むライオンがいないように、強すぎる草食獣に挑むにはリスクが大きい。
自然と視線は夜空へと向けられる。
地に足をつけている生き物にとって、もっとも無防備なのは空だ。自分の視界よりも上から襲いかかってこられたらひとたまりもない。
そうなれば、相手も限られてくる。ベヒモスにとって天敵である存在を数えるには片手で間に合った。──例えば、空からの脅威。
「──ま、いいか。別に俺が死ぬわけじゃねーんだし」
ファングはその考えをひとまず横に置く。
手にかけていたローブを広げて皺を伸ばすと、キリエ達が一斉に身構える。それを横目に綺麗に折り畳むと軒先のテーブルに掛けた。軽く叩いて中の空気を抜くと、折れた長剣の柄を上に乗せる。
「よし」
……なにをしているんだ? そう言いたげなキリエたちの視線に、ファングはどうだと言わんばかりに手で指し示していた。
「……え、えっと……なにを……?」
「なにって。見ての通り綺麗に畳んだんだけど」
「……綺麗ですけども」
なぜ今。
困惑するアズラを前に、ファングは肩を回して首を鳴らす。
「か、家庭的……なんですね……」
「アズラ、あまり絆されないように」
「わ……わかってますっ。ごめんなさい、任務なので……」
「いーって、いーって。死んだらまぁ、そこはお互い様ってことで」
緊張感の無い笑みを向ける。
ルートヴィヒはそれに、言葉にならない恐怖を抱いた。その不安を感じ取ってか、ヴァレリアが背中を優しく叩く。
「姉様……」
「大丈夫、私達を信じて。それに親衛隊最強のキリエ総長もいるんだし」
「──はい!」
バックラーに収めていた剣を抜き、ヴァレリアもそれを見て腰のショートソードを抜いてファングに突きつけた。
ヘルガも戦斧を担ぎ、アズラも「ストームスリンガー」を展開させる。
その錚々たる面子を前にしてもなお、ファングは気楽に構えていた。
「……恐らく彼は特異体質です。霊力がほとんど通用しません」
「ぅわっはぁ、マジすか。んじゃまぁ、斬ったら斬れるってことでいいんだなぁ!」
「ヘルガさんまた突っ込んでる……」
何にせよ、誰かが先陣を切らなければならない。その点で言えば、ヘルガはとてもありがたいことに一も二もなく、とにかく突撃する。猪突猛進と言われればそれまでだが、それは問題解決にも一役買っていた。
紅の戦斧「クリムゾンブル」に炎を纏わせるヘルガの横を先に駆け抜けるのはライオット部隊。雷鳴騎士の中でも精鋭騎士である彼らはルートヴィヒの護衛役だ。
ファングは鞘のベルトを外すと手にして振り回した。それはライオット部隊の長剣に絡みつき、先手をくじく。その顔はもう笑っていない。
顔面を鷲掴みにしたと思うと、片腕で持ち上げて思い切り地面に叩きつけた。頭蓋骨が砕かれ、即死している。
手からこぼれ落ちた剣を迷いなく奪い取ると、左から回り込んでいたライオット部隊の腕を斬り落とした。返す刃で首を刎ねる。
落ちた腕から剣を足で拾い上げると、両手の刃を一度振り払ってからヘルガに向けて首なしの死体を蹴り飛ばした。
「っ、んなろぉ!!」
南無三。ヘルガはその死体を足蹴にして飛び越える。
まるで最初から自分の得物だったかのように、ファングは構えていた二本の長剣を交差させて戦斧を打ち払う。
初撃を崩されたヘルガに息もつかせぬ双刀の連撃が迫る。
戦斧は構造上どうしてもトップヘビーになる。それを振り上げようにも、振り下ろそうにも必ず前動作の隙が出来てしまう。それならば軽い柄頭で相手に牽制──それをファングは足技で潰した。
武器の構造と特性を理解した動きに、ヘルガは身を引く。手も足も出ないとはこのことか。
「つぁーくっそ!! やりづれぇ、なんだアイツ!」
離れた隙を見て、アズラがストームスリンガーを放つ。
水尾を引く鏃を見て、ファングは左手の剣を上空に軽く放り投げると眉間狙いの鏃を叩き落とすように掴み取った。
「──へぁ?」
「……へー、こうなってんのか」
手にした鏃をまじまじと見つめている、あからさまな隙を突こうとライオット部隊が左右からの挟撃。だが、左に回り込んだ雷鳴騎士の眼前が塞がれる。咄嗟に身を引くと、それは先ほど投げた剣だった。
その隙があれば十分。
鏃を指の隙間から覗かせて左の雷鳴騎士の顔を穿つ。引いた右足で足を払い、軸足を左にして剣を掴み取りながら切り上げる。体勢を崩した相手の首に刃を通らせて仕留めるとファングは一度、剣を振った。
瞬く間に四人が無手からやられた。その上で、剣を奪われている。手練手管の妙技には、やはり霊力が微塵も感じられない。
純粋な身体能力、判断力と反射神経、機転を効かせる応用力が人並み外れている。鏃を掴み取る動体視力も、洞察力も何もかもが桁外れだ。
それにはヴァレリアもさすがに生唾をごくりと呑み込む。恋心がどうのと言っている場合ではない。
「霊力が通用しないどころか……」
「そもそも、まともな打ち合いすらさせてもらえませんね」
「そりゃそーだよ。まともにやったら折れるだろ、これ」
これ、と言いながらファングは長剣を回していた。
器用な男だ、とキリエは眺める。それと同時に言葉に違和感を感じた。
本来ロングソードはそう簡単に壊れない。ボルトザック家が財産を注ぎ込んで精錬させた鍛治製法は抱え込む職人の数もさることながら、大量生産と物流に優れている。それらは全て軍の備蓄として運用されているだけでなく、騎士学校にも贈与されていた。
それは決してなまくらではないし、簡単に折れる代物ではない。
思えばこの男は、霊力を持たずに対等に渡り合った。真っ先に音を上げたのは長剣からだったが、そもそも武器に霊力を纏わせることすら出来ないはずの相手が互角に打ち合えるはずがない。それは打ち合ったキリエが実感していた。
しかし、思い返せば──刃が潰れるほどの打ち合いをしていながら、ファングは剣を手放してなどいなかった。
「──まさか、おまえ…………」
「人間が。人間のために、人間の武器を作る。それに疑問を抱くことは、まぁないだろうな。ところがそれで化け物が殺せるか? 化け物がそれを使えるか? そんなはずはない。なぜならコレは「人間が使う武器」だからだ」
そうだろう? 問いかけながら、また笑っている。
左手の剣を地面に突き立てると右手の剣を、なにを思ったか躊躇なく叩き折った。力を込めて枝を折るようにして、金属の板が半ばから呆気なく砕けている。
それを投げ捨てると、足元に落ちているブロードソードを拾い上げた。
「人間の作る武器ってのは、俺にとっちゃ脆くてしかたねぇんだ。難儀してんだこればかりは。なにせ出費がかさむからよ」
「……キリエ総長、撤退を進言します。ひとりを相手にこれ以上の損失を出すのは割に合わないかと」
「その意見には同意します、ヴァレリア」
盗み見るのは「草葉の息吹」。しかし、宿にも手がかかっていると見ていい。どんな細工をされるかわかったものではない。馬を休めるにしても時間を要する。
「俺も撤退するのに賛成。気が合うなヴァレリア」
「……くひ」
「あなたどっちの味方ですか……」
「あー、そうだ。ひとつ思い出したことがあった。──シュバルスタッド家の当主を殺害した犯人探しをしているんだが、心当たりは?」
その言葉に、ルートヴィヒは困惑した顔をしていた。しかし、ヴァレリアは違う。照れ隠しの笑みが凍りつき、目を細めている。ライオット部隊の面々からの空気も先程とは異なっていた。それだけで十分すぎる証拠になる。
「いやぁ、なに。シュバルスタッド家には少しばかり世話になったものでね、そのお手伝いでもと思ったんだ」
「──ファングさん。命が惜しければ、その件にはこれ以上深入りしないことをお勧めします」
「ははは、そうした方が身のためらしい。ならこの話はここまでだ。それとルドガー支配人は完全に俺とは無関係だから気にしなくていい。俺はこれでもきっちり仕事と私生活は棲み分けてる。職場見学させてもらったけど、いい腕なのは保証する」
何から何まで、根回し済み。
こちらが動くことを前提に行動を起こして先手を打ってきたのだろう。キリエはその周到な下準備に舌打ちをこぼした。
「ルートヴィヒ。補給部隊を連れて宿へ、あなた達は馬車を用意してください」
「キリエ総長達は……?」
「我々はこのまま彼を仕留めます。ヴァレリア、遊撃をお願いします。アズラはいつもどおり後方からの支援をお願いします」
「アタシは」
「いつも通り、私と正面突破です」
「そーこなくっちゃあっ!」
どうやら話はまとまったらしい。憎らしげに睨みつけながらもライオット部隊は剣を収めてルートヴィヒ共々下がっていく。
残るは、戦乙女達。その華やかさを前に、ファングはブロードソードを弄ぶ。
「俺、悪い子だからよぉ。火遊び上等、夜遊びも、まぁ程々に」
剣を高く放り投げてから首を鳴らすと、落ちてきた剣を手にして勢いよく振るう。
その剣圧だけで、崩れかけていた民家が崩壊した。
「──“最強”の名に甘んじて、ちょっとだけ本気出すわ」
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